ウズベキスタンというと日本人には馴染みも薄く、見所は何という質問が返ってくることが多いかと思います。それでもサマルカンドという名前は、聞いたことがあるだろうと思います。「シルクロード沿いに発展した都」、「青の都サマルカンド」などの謎めいた雰囲気が旅立ちを誘いました。
各社からツアーが出ていますが、ウズベキスタン国内の移動二回が飛行機になる次のツアーを選びました。日程は、現地に到着してからの変更があり、実際に行ったものを記載してあります。
「中央アジア ウズベキスタン 8日間」(クラブツーリスト社) 2013年4月12日~19日
2013年
第一日目 4月12日(金)
成田発 12:30 (OZ101) ソウル着 15:00
ソウル発 16:50 (OX101) タシケント着 20:20
(タシケント ラ・グランドプラザ泊)
第二日目 4月12日(土)
タシケント市内観光(ティムール広場、日本人墓地、クカルダシュ・メドレセ、チョルスーバザール、テシケント地下鉄乗車体験、ムスタキーリク(独立)広場、ウズベキスタン歴史博物館、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場、ナヴォイ記念碑)
タシケント発 18:40(HY1057) ウルゲンチ着 20:20
(ヒヴァ泊 マリカホレズム泊)
第三日目 4月12日(日)
ヒヴァ観光(北門、オタ・ダルヴァザ門(西門)、カルタ・ミナル、キョフナ・ミナル、ジュマ・モスク、パフラヴァン・マフムド廟、タシュハウリ宮殿、パルヴァン・ダルヴァザ門(東門)、アラクリ・ハン・メドレセ、イスラーム・ホジャ・ミナレット、クブラ・トザ・ボグ宮殿)
ウルゲンチ発 20:00 (HY1062) ブハラ着 21:40
(ブハラ ブハラパレス泊)
第四日目 4月12日(月)
ブハラ観光(バラハウズ・モスク、アルク城、カラーン・モスク、カラーン・ミナレット、タキ・ザルガロン、アブドゥールアジス・ハン・メドレセ、タキ・テルパクフルシャン、クカリダシュ・メドレセ、ラビハウズ、チョル・ミナル、イスマイール・サーマニー廟、民族舞踊ショー)
(ブハラ ブハラパレス泊)
第五日目 4月12日(火)
シャフリサーブス観光(アク・サライ宮殿、ドルッサオダット建築群、ドルッティロヴァット建築群)
(サマルカンド パノラマグランド泊)
第六日目 4月12日(水)
サマルカンド観光(イマーム・アリ・ブハリ廟、ビビハニム・モスク、ジョブ・バザール、シャーヒズィンダ廟群、アミール・ティムール廟、レギスタン広場)
(サマルカンド パノラマグランド泊)
第七日目 4月12日(木)
サマルカンド発 11:30 (シャルク号)タシケント着 15:10
タシケント観光(バラクハーン・メドレセ)
タシケント発 21:05 (HY527)
第八日目 4月12日(金)
成田着 08:55
出発一週間前に旅行会社からの電話で、ウズベキスタン航空の成田・タシケント便が運航中止になり、仁川経由のアシアナ航空利用に変更せざるを得なくなったという連絡がありました。旅行を中止するかという質問がありましたが、この段階にきて中止にする気になるわけもなく、ツアーに参加することになりました。
ミサイルの発射準備を行っているという北朝鮮の武力行使が危惧されている状況は、ウズベキスタン旅行には関係ないと安心していたものが、一転して不安に落とされることになりました。願わくば、仁川乗り換えの間だけでも、北朝鮮にはおとなしくしていてもらいたい。
緊迫した朝鮮状況にもかかわらず、仁川行きのアシアナ航空は、八割ほどの乗客がいました。
成田から仁川への間に出た機内食。焼き鳥がメイン。美味しく頂きました。
仁川空港は、いつもと変わらないにぎわいでした。仁川空港は、ソウルと同じく北朝鮮との国境に近すぎるのが不安要素ですね。
仁川・タシケント便は満席で、出発が1時間半ほど遅れました。聞くところによると、荷物の重量オーバーのため、タイヤを交換したとのこと。これまで聞いたこともないような原因の遅れです。
夕食代わりの機内食。ビーフの量は少なく、ジャガイモで腹を満たすという感じでした。
西に向かって飛行し、日没を遅らせていきましたが、ついに太陽が沈んでいき、夜間飛行が始まりました。
「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。」
夜間飛行に入ると、城達也の「ジェットストリーム 」のナレーションが浮かんできます。
飛行ルートを見ていると、かつてシルクロードが通っていたタクマラカン砂漠上空を通過していきました。眼下に見える灯りは、どのような町なのでしょうか。
添乗員の説明では、機内食は二回出ると聞いたのですが、二回目は、チーズを挟んだだけのパンでした。ホテルでの夜食用に日本からパン類を持ってきたので良かったのですが、ツアーの日程で夕食は機内食というのは要注意です。
ウズベキスタンの入国審査は、どこが列か判らないような大混雑になっていました。最後に並んで気長に待って、入国は無事に済みました。それでも、飛行機からの荷物はまだ出てきていませんでした。入国審査だけ急いでも意味は無かったことになります。
ターンテーブルに出てくる荷物を見ていると、現地人は何十個というビニール梱包をカートに積み上げていました。なかなかお目にかかれない光景ですが、空港内は写真撮影禁止なのが残念でした。このような大荷物が飛行機遅延の阮だったようです。
ようやく自分のスーツケースを受け取ると、次は通関。大荷物を持った現地人はおらず、観光客だけの列に並びました。ここでのもう一つの問題は、所持金を申告する必要があり、数字の他に言葉で書く必要があることでした。二枚提出して1枚は受け取って、出国時には新しく書いた用紙と合わせて二枚提出する仕組みです。観光客と見てか、特に詳しく見るでもなく、手続きはすぐに終わりました。
時間はかかりましたが、なんとかその日のうちにホテルに入ることができました。
合わせて、帰国についても載せておきます。出国の手続きは、特に問題もなくスムーズでした。
タシケント空港の売店は、酒類が並んでいるくらいで、買い物意欲が湧いてくるようなものではありませんでした。こういったところは、社会主義国家です。
帰りは、ツアーの募集要項通りに、ウズベキスタン航空の成田直行便でした。
ウズベキスタン航空での期待はずれは、ビールが無いということでした。ウズベキスタンのビールは、ビン入りばかりで、缶ビールが無いため、機内サービスができないようです。しかたがないので、ワインをもらいました。
もっとも、ウズベキスタンではイスラーム教の信者がほとんどなので、ワインを自由に飲めるのでも感謝する必要があります。残念そうな顔を見て、二杯いるかと聞いてきましたが、すぐ後の食事の際にも飲むことになるので、一杯にしておきました。
夕食相当の機内食。ブロフと呼ばれる炊き込みご飯は、ウズベキスタンの思い出として、美味しく食べました。今度の飲み物は、白ワイン。
成田便はがらすきで、中央の三席を占領して横になって寝ることができました。
朝食にはチーズを挟んだだけのパン。
この内容を見ると、朝っぱらからこんなに食べることができるわけがないと毒ついたベトナム航空のサービスにお詫びをしないといけないですね。
ウズベキスタン国内では、飛行場内は撮影禁止であったため、成田で下りたところでウズベキスタン航空の機体を撮影しました。ウズベキスタン国旗に使われている青で塗られています。
ウズベキスタンへの便は、成田からの直行便と、仁川経由の二通りが一般的ですが、仁川経由は避けた方が無難です。仁川便は、タシケントからの買い出し航路になっているようで、満席はともかく、荷物を受け取るのと通関に時間がかかってしまう可能性が高いようです。
韓国へのウズベキスタンからの買い出し部隊の背景には、中央アジアにおける朝鮮系の高麗人の存在が影響しているように思えます。朝鮮と境を接した沿海州には、19世紀後半までは高麗人が移住していました。ソビエト連邦が成立すると、スターリンは、これらの朝鮮族が日本のためにスパイ活動を行なっていると考え、1930年代後半から第二次世界大戦中にかけて朝鮮族の中央アジアへの追放が行われました。ウズベキスタンには20万人ほどが居住しており、ロシアや中央アジアにおける最大の居住地になっています。
乗客の手荷物の中に、韓国製の「辛ラーメン」の大箱が見られるのも朝鮮族の関係を裏付けるものに思えました。
初日から疲れる目に合いましたが、かつてラクダに跨ったシルクロード商人が、現在では飛行機で商品を運んでいるのに出会ったと思えば、興味深い経験をしたとも考えられます。
各社からツアーが出ていますが、ウズベキスタン国内の移動二回が飛行機になる次のツアーを選びました。日程は、現地に到着してからの変更があり、実際に行ったものを記載してあります。
「中央アジア ウズベキスタン 8日間」(クラブツーリスト社) 2013年4月12日~19日
2013年
第一日目 4月12日(金)
成田発 12:30 (OZ101) ソウル着 15:00
ソウル発 16:50 (OX101) タシケント着 20:20
(タシケント ラ・グランドプラザ泊)
第二日目 4月12日(土)
タシケント市内観光(ティムール広場、日本人墓地、クカルダシュ・メドレセ、チョルスーバザール、テシケント地下鉄乗車体験、ムスタキーリク(独立)広場、ウズベキスタン歴史博物館、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場、ナヴォイ記念碑)
タシケント発 18:40(HY1057) ウルゲンチ着 20:20
(ヒヴァ泊 マリカホレズム泊)
第三日目 4月12日(日)
ヒヴァ観光(北門、オタ・ダルヴァザ門(西門)、カルタ・ミナル、キョフナ・ミナル、ジュマ・モスク、パフラヴァン・マフムド廟、タシュハウリ宮殿、パルヴァン・ダルヴァザ門(東門)、アラクリ・ハン・メドレセ、イスラーム・ホジャ・ミナレット、クブラ・トザ・ボグ宮殿)
ウルゲンチ発 20:00 (HY1062) ブハラ着 21:40
(ブハラ ブハラパレス泊)
第四日目 4月12日(月)
ブハラ観光(バラハウズ・モスク、アルク城、カラーン・モスク、カラーン・ミナレット、タキ・ザルガロン、アブドゥールアジス・ハン・メドレセ、タキ・テルパクフルシャン、クカリダシュ・メドレセ、ラビハウズ、チョル・ミナル、イスマイール・サーマニー廟、民族舞踊ショー)
(ブハラ ブハラパレス泊)
第五日目 4月12日(火)
シャフリサーブス観光(アク・サライ宮殿、ドルッサオダット建築群、ドルッティロヴァット建築群)
(サマルカンド パノラマグランド泊)
第六日目 4月12日(水)
サマルカンド観光(イマーム・アリ・ブハリ廟、ビビハニム・モスク、ジョブ・バザール、シャーヒズィンダ廟群、アミール・ティムール廟、レギスタン広場)
(サマルカンド パノラマグランド泊)
第七日目 4月12日(木)
サマルカンド発 11:30 (シャルク号)タシケント着 15:10
タシケント観光(バラクハーン・メドレセ)
タシケント発 21:05 (HY527)
第八日目 4月12日(金)
成田着 08:55
出発一週間前に旅行会社からの電話で、ウズベキスタン航空の成田・タシケント便が運航中止になり、仁川経由のアシアナ航空利用に変更せざるを得なくなったという連絡がありました。旅行を中止するかという質問がありましたが、この段階にきて中止にする気になるわけもなく、ツアーに参加することになりました。
ミサイルの発射準備を行っているという北朝鮮の武力行使が危惧されている状況は、ウズベキスタン旅行には関係ないと安心していたものが、一転して不安に落とされることになりました。願わくば、仁川乗り換えの間だけでも、北朝鮮にはおとなしくしていてもらいたい。
緊迫した朝鮮状況にもかかわらず、仁川行きのアシアナ航空は、八割ほどの乗客がいました。
成田から仁川への間に出た機内食。焼き鳥がメイン。美味しく頂きました。
仁川空港は、いつもと変わらないにぎわいでした。仁川空港は、ソウルと同じく北朝鮮との国境に近すぎるのが不安要素ですね。
仁川・タシケント便は満席で、出発が1時間半ほど遅れました。聞くところによると、荷物の重量オーバーのため、タイヤを交換したとのこと。これまで聞いたこともないような原因の遅れです。
夕食代わりの機内食。ビーフの量は少なく、ジャガイモで腹を満たすという感じでした。
西に向かって飛行し、日没を遅らせていきましたが、ついに太陽が沈んでいき、夜間飛行が始まりました。
「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。」
夜間飛行に入ると、城達也の「ジェットストリーム 」のナレーションが浮かんできます。
飛行ルートを見ていると、かつてシルクロードが通っていたタクマラカン砂漠上空を通過していきました。眼下に見える灯りは、どのような町なのでしょうか。
添乗員の説明では、機内食は二回出ると聞いたのですが、二回目は、チーズを挟んだだけのパンでした。ホテルでの夜食用に日本からパン類を持ってきたので良かったのですが、ツアーの日程で夕食は機内食というのは要注意です。
ウズベキスタンの入国審査は、どこが列か判らないような大混雑になっていました。最後に並んで気長に待って、入国は無事に済みました。それでも、飛行機からの荷物はまだ出てきていませんでした。入国審査だけ急いでも意味は無かったことになります。
ターンテーブルに出てくる荷物を見ていると、現地人は何十個というビニール梱包をカートに積み上げていました。なかなかお目にかかれない光景ですが、空港内は写真撮影禁止なのが残念でした。このような大荷物が飛行機遅延の阮だったようです。
ようやく自分のスーツケースを受け取ると、次は通関。大荷物を持った現地人はおらず、観光客だけの列に並びました。ここでのもう一つの問題は、所持金を申告する必要があり、数字の他に言葉で書く必要があることでした。二枚提出して1枚は受け取って、出国時には新しく書いた用紙と合わせて二枚提出する仕組みです。観光客と見てか、特に詳しく見るでもなく、手続きはすぐに終わりました。
時間はかかりましたが、なんとかその日のうちにホテルに入ることができました。
合わせて、帰国についても載せておきます。出国の手続きは、特に問題もなくスムーズでした。
タシケント空港の売店は、酒類が並んでいるくらいで、買い物意欲が湧いてくるようなものではありませんでした。こういったところは、社会主義国家です。
帰りは、ツアーの募集要項通りに、ウズベキスタン航空の成田直行便でした。
ウズベキスタン航空での期待はずれは、ビールが無いということでした。ウズベキスタンのビールは、ビン入りばかりで、缶ビールが無いため、機内サービスができないようです。しかたがないので、ワインをもらいました。
もっとも、ウズベキスタンではイスラーム教の信者がほとんどなので、ワインを自由に飲めるのでも感謝する必要があります。残念そうな顔を見て、二杯いるかと聞いてきましたが、すぐ後の食事の際にも飲むことになるので、一杯にしておきました。
夕食相当の機内食。ブロフと呼ばれる炊き込みご飯は、ウズベキスタンの思い出として、美味しく食べました。今度の飲み物は、白ワイン。
成田便はがらすきで、中央の三席を占領して横になって寝ることができました。
朝食にはチーズを挟んだだけのパン。
この内容を見ると、朝っぱらからこんなに食べることができるわけがないと毒ついたベトナム航空のサービスにお詫びをしないといけないですね。
ウズベキスタン国内では、飛行場内は撮影禁止であったため、成田で下りたところでウズベキスタン航空の機体を撮影しました。ウズベキスタン国旗に使われている青で塗られています。
ウズベキスタンへの便は、成田からの直行便と、仁川経由の二通りが一般的ですが、仁川経由は避けた方が無難です。仁川便は、タシケントからの買い出し航路になっているようで、満席はともかく、荷物を受け取るのと通関に時間がかかってしまう可能性が高いようです。
韓国へのウズベキスタンからの買い出し部隊の背景には、中央アジアにおける朝鮮系の高麗人の存在が影響しているように思えます。朝鮮と境を接した沿海州には、19世紀後半までは高麗人が移住していました。ソビエト連邦が成立すると、スターリンは、これらの朝鮮族が日本のためにスパイ活動を行なっていると考え、1930年代後半から第二次世界大戦中にかけて朝鮮族の中央アジアへの追放が行われました。ウズベキスタンには20万人ほどが居住しており、ロシアや中央アジアにおける最大の居住地になっています。
乗客の手荷物の中に、韓国製の「辛ラーメン」の大箱が見られるのも朝鮮族の関係を裏付けるものに思えました。
初日から疲れる目に合いましたが、かつてラクダに跨ったシルクロード商人が、現在では飛行機で商品を運んでいるのに出会ったと思えば、興味深い経験をしたとも考えられます。