楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

権現堂桜堤と小右衛門の一里塚跡(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 32)

2014年05月06日 09時04分08秒 | ひとり歩き旅
(権現堂桜堤)

(幸手宿4)

権現堂川(中川)に作られた堤防約一キロにわたって、
ソメイヨシノが植えられており、
この時期、桜祭りが行われている。
圧倒的な量の桜堤に何万と言う人が花見に来ている。
(桜堤)

(桜堤2)

(桜堤3)

(桜堤4)

(桜堤と人出を示す車)

国道四号線に架かる中川に架かる行幸橋が起点になって、
東南へ桜堤は続くが起点になる行幸橋右手に、
「明治天皇権現堂御野点所」の石碑がある。
その隣に「行幸堤(みゆきつつみ)の碑」がある。
行幸堤の説明板によると、
(権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、
明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、
明治八年八月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中の平行した新権現堂堤が完成。(現在はその上を国道四号線が通っています。)
明治九年、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られて、
その労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を刻んで残すように言われ、
費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸橋と呼ばせていただきたい、
と申し出ると許可されたということです。
明治二十二年の町村制施行により高須賀村、外国府間村、内国府間村、松石村、
千塚村が合併して行幸村となりましたが、
その村名もこの行幸堤に由来している。―後略―(幸手市教育委員会)とある。

(「明治天皇権現堂御野点所」の石碑)

(「行幸(みゆき)堤の碑」)


文章では少し表現が難しいが、
国道四号線が通る橋(行幸橋)は中川をまたいでおり、
川に沿って権現堂桜堤はある。
そして四号線に平行して権現堂湖が水をたたえており、
この湖に沿って行幸堤はあったが、
今はその堤の上を国道四号線が走っているのだ。
栗橋に至るまで、この権現堂湖は国道四号線に平行してある。
(権現堂行幸湖の地図)


さて、権現堂堤には、桜が千本以上あり見事なことこの上ない。
堤の上の桜見物の雑踏の中に、
巡礼の碑がある。
(順礼の碑)


幸手市の説明板によれば、
(権現堂堤の上には、順礼供養塔と順礼供養の碑が建てられている。
享和二年(1802)六月、長雨のために水位が高まった利根川はついに決壊し、
人々は土手の修復に当ったが、
激しい濁流に工事を進めることが出来ず、手をこまねいていた。
そのときそこを通りかかった順礼親子がこれを見かねて、
自ら人柱を申し出、逆巻く流に身を投じたと言う。
するとたちまち洪水はおさまり、修復の工事が完成したという。
これに対し、順礼親子が工事はムダだといったのに怒った人夫たちが、
親子を川に投げ込んでしまったという説もある。
どちらが本当か分からないが、
順礼供養塔は、人身御供になった順礼親子を供養するため、
昭和八年に建設されたものである。
また順礼供養の碑には、
明治、大正の有名な画家結城素明の筆による、
母子順礼の姿が刻まれている。)とある。
(石碑には順礼の親子が線刻してあるが見えますでしょうか)


この桜堤と言い、権現堂行幸堤は、その昔この当りが、
利根川の氾濫原であったと言うことの名残であるに違いない。
利根川から分かれて中川と権現堂川が複雑に流れていたり、
そして下流域で利根川に合流している。
また、行政区が、埼玉、茨城、栃木の県境になっている所を見ると、
洪水を起こして、その県境が複雑に移動したように思われる。

さてこのあと、順礼の碑の近くにマリア地蔵があると、
地図に書かれているので、訪ねることにしたが、
これが間違いのもとで、近いどころかかなり先まで歩くことになった。
桜堤に沿ってかなり歩いた道路左に、そのマリア地蔵はあった。
(マリア地蔵)


説明によると、
(文政四年(1820)に造られた子胎(こそだて)延命地蔵で、
キリストを抱いたマリアに見立てられています。
錫杖の上に十字架が刻んであること、
キリスト教の仮託礼拝物の蛇や魚が刻んであること、
イメス(イエスをカモフラージュしたもの)と刻んであること、
などから江戸時代の隠れ切支丹の信仰の対象であったと考えられます。
一般にマリア地蔵と呼ばれ、市指定有形文化財になっています。
幸手市教育委員会)とある。

(子供=キリスト?)

(蛇と魚の画?)

(錫杖の十字架)


以前にも書いたと思いますが、隠れキリシタンの研究は、
ボクの高校の教頭先生が権威のようである。
隠れ切支丹の研究家は、
こぞって、この教頭先生の論文に敬意を表して引用しているが、
その論文に拠れば、隠れキリシタンは現在も続いており、
大正の終わり頃から昭和の初めに掛けて、
隠れキリシタンが、各地で話題になったが、
いずれも根拠がなく根も葉もない戯れ言であると結論付けている。

本題に戻って、旧日光道中は行幸橋を渡り終えると外国府間(そとごうま)で、
ここで国道四号線と別れを告げ左折する。
土手を下って最初の道を右折して、Y字路があるところまで直進する。
廻りは田畑でのどかな陽射しの中を歩く。
Y字路の中央に外国府間道標と言われる石碑がある。
中央に「右つくば道」、左側に「左日光道」、
右側に「東かわしま前ばやし」とある。これは現在の茨城県五霞村川妻、
総和町前林のこと。
(橋を渡り終え左折する道)

(左折した道)

(廻りは田畑のどかな道)

(Y字路)

(外国府間道標「右つくば道」とある)

(左側面 左日光道と読める)

(右側面「東かわつままえばやし」と書いてあるそうだが読めますか?)


その先道路は、田畑の中を進み、やがて神社にぶつかるところを左折し、
すぐ右折する。
(広がる田畑)

(田畑が広がる道)

(神社にぶつかる)


さらに進んで左手に八幡神社があり、設立由来が刻まれた石碑に、
「小右衛門下組」とあるから、この辺に一里塚跡がお寺の隣にあるはずと、
お寺を探すと、右手にお寺らしきものが見えた。
近づくと、小右衛門一里塚跡があった。
(八幡神社)

(小右衛門下組の石碑)


久喜市指定文化財としての一里塚跡について、
(慶長九年(1604)江戸(徳川)幕府は、大久保長安に命じて、
五街道を初めとして、主要街道に一里塚を築かせた。
江戸の日本橋を基点として、一里(約4km)毎に塚を築き、
その上にエノキなどの木を植えて道のりを表し、
伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、
旅人の休憩所にも利用された。
道中奉行が作成した「五街道文間延絵図」のうち、
日光道中を描いた「日光道中文間延絵図」にも、
この一里塚が描かれている。
この塚は幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあったものである。
現在塚の上には、昭和初期に付近から移築されたと言う
弁財天堂が建てられている。――以下省略。久喜市教育委員会)とある。
(お寺と弁財天堂らしき建物)


小右衛門村にあったため、
何時の頃からか「小右衛門の一里塚跡」と呼ぶようになったらしい。
説明にある、一里塚の上にエノキを植えたのは、
大久保長安が、
「どんな木を植えたら宜しいでしょうか?」と、
家康に聞いたところ、
「ええ木を植えろ」と言ったのが、よく聞こえなかったので、
エノキと言うことになったと言うが、定かではない。
(一里塚跡の弁財天堂)

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聖福寺と正福寺(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 31)

2014年05月01日 09時00分03秒 | ひとり歩き旅
(荒宿の信号)

(聖福寺の石塔)

(幸手宿4)
街道を進むと、(荒宿)の信号があり、
次いで左手に(聖福寺)の石塔が見え、
奥のほうにいかめしい山門が見える。

山門前に聖福寺について(埼玉県、幸手市)の説明板がある。
(聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)
と称する浄土宗知恩院の末寺で、
本尊は阿弥陀如来で観音像は運慶作と伝えられて言う。
徳川三代将軍家光が日光社参の折、
御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、
天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩した。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、
左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
また、ご朱印状により十石を賜っていたことが判る。―後略)とある。

勅使門の前に来ると、説明にあった「御殿所勅使門」の石碑があり、
菊のご紋の入った扉が付いている。
往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうであるが、
将軍と間違えたわけでもないと思うが、ボクが訪ねた時は開いていた。

(勅使門)

(菩提山の扁額)

(御殿所勅使門の石碑)

(門扉にある菊の御紋章)

(鐘楼と本堂)


勅使門右手に鐘楼があり、奥に本堂がある。
通りからは奥まっていることもあり、静寂に包まれていた。
聖福寺参道の右横に、芭蕉の句碑が建てられている。

・幸手を行ば栗橋の門     焦
・松風をはさみ揃ゆる寺の門  良

句碑左下の解説によると、
(江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、
さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、
芸術家も多くあったことであろう。

 『奥の細道』の旅を終えた俳人松尾芭蕉は4年後の元禄6年9月13日、
江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、
同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。

 時を経て、昭和62年4月10日付の新聞紙上、
埼玉の俳人鈴木一郎氏は、右2句を紹介しながら、
芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を
聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。
平成13年、日光街道400年を迎え、同14年、山門の改修工事が成り、
併せてこの句碑を建立し、往時をしのぶものとする。

                         平成15年 秋彼岸
                     聖福寺第二十八世 静誉康隆

 石碑の書体は、『芭蕉袖草紙』の原本を拡大複写して刻んだものである。)
とある。

(芭蕉句碑)


聖福寺を出て街道を進む。
道路正面に大きな石灯籠が見え、奥にお寺らしきものが見える。
旧日光街道はその石灯篭の前を右へ緩やかに曲がって行く。
石灯篭の奥に香水山正福寺(こうすいざんしょうふくじ)がある。
(大きな石灯篭)

(正福寺)


正福寺(しょうふくじ)は、先ほどの聖福寺(しょうふくじ)と字は違うが、
読み方が同じで地元の方は呼ぶのに困るだろうと思う。

いずれにせよ、埼玉県と幸手市が紹介する説明では、
(正福寺は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。
当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、
当時この寺は、四十九ヶ寺の末寺を持っていた。
また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っている。
境内には、県指定史跡の「義賑窮餓の碑」がある。
天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、
冷害も重なって大飢饉となった。
この時、幸手町の有志二十一名が金品を出し合って、
難民の救援に当った。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知る所となり、
顕彰碑を建てさせたという。
また、樹齢四百五十年、根回り五メートルもある槙の大木があり、
県の天然記念物に指定されていたが、惜しくもかれてしまった。
―後略)とある。

(義賑窮餓顕彰碑)

(史跡義賑窮餓の碑)

(道標の馬頭観音供養塔 左側面に見える左日光道中)

(枯れてしまった元天然記念物の槙)


説明板にもあったように、正福寺は古い寺院であるため、
無縁になった墓が多くなり、寺の経営にも影響するのであろう、
無縁の墓を一箇所に集め、新しい墓地を売り出したに違いない。
無縁になった供養塔を境内入り口に山のように積み上げて供養してある。
(無縁仏となった供養塔の数々)

(左へ曲がる旧日光道中)

正福寺を出て、旧道を行くとまもなく国道四号線に合流する。
その合流点の交差点を(内国府間)という。
権現堂川(中川)を挟んで手前が内国府間(うちごうま)、
橋を渡ると外国府間(そとごうま)になる。
奇妙な地名であるが、公民館などで訊いても、土地の年寄りに聞いても、
この変わった名前の由来を知っている人はいなかった。
(内国府間の信号で四号線と合流)

(信号機 幸手 内国府間 Uchigomaと読む)


この(内国府間)の信号を左折して、しばらく歩くと右手前方に、
ものすごい量の桜が見渡す限り続いている。
その量たるや圧倒的という意外に言葉を知らない。
さすが埼玉県随一の桜名所である。

(権現堂桜堤の圧倒的な桜)


桜に見とれて歩くと、左に八幡神社参道の石碑があるのに気づく。
参道の方へ左折すると、右手に神社の鳥居と本殿が見える。
この神社は、幸手城主一色宮内大輔の家臣、
遠藤石見清吉が帰農して開発したと言われている。
庚申信仰の対象となっていたという。
(八幡神社参道の石碑)

(八幡神社の鳥居と本殿)

(神社脇の庚申塔の数々)

(石碑には庚申塔と書かれている)

旧街道に戻って、少し歩くと、中川をまたぐ橋に出る。
行幸橋(みゆきばし)という。
行幸橋の少し下流で権現堂行幸湖(みゆきこ)が、
権現堂桜堤にぶつかる様にして、中川に合流して流れていく。
橋の袂に信号があり、右手が権現堂桜堤で奥までつながっている。
国道四号線(日光街道)は橋を渡って直進する。
右手には権現堂行幸湖が川のようにあり、それに平行して進む。
この四号線は権現堂行幸湖が氾濫しないように、
住民によって造られた土手であった。
ここから栗橋まで長い道のりを行く四号線は、
右手に見える権現堂行幸湖の堤であったようである。

(行幸橋みゆきばし)

(行幸橋から撮った中川)












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