楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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権現堂調整池と焙烙地蔵(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 33)

2014年05月09日 09時03分24秒 | ひとり歩き旅

(栗橋宿)
小右衛門の一里塚跡を過ぎて、
旧日光街道を進むと前方に高速道路の橋脚が見える。
(見える高速道路の橋脚)


地図に拠れば、この高架の下を抜けて右側にある国道四号線にぶつかり、
国道四号線の下をくぐって反対側に出なければならない。
旧日光街道は今まで右に国道四号線、
さらに国道の右手を権現堂調節池(行幸湖)がつながっているはずである。
(突き当たりは国道四号線)

(国道四号線をガードでくぐる案内図)

(ガードが見える)

(ガード)

(ガードを出たところ)


ガードをくぐって出ると見晴らしが良く、
正面に権現堂調節池(行幸湖)が見える。
(ガードを出ると見晴らしの良い桜と権現堂行幸湖の調節池)

(えんえんと続く桜並木と権現堂調節池)


日光街道はこの権現堂調節池(行幸湖)と左手の国道四号線との間の、
見晴らしの良い桜並木の道を何処までも歩く。
まもなく大きなビルに突き当たり、ビルを避けるように迂回すると、
東北新幹線の高架が見え、高架をくぐると車道で、
車は左へ国道四号線に入っていくが、
歩道は脇道に下りここでまた国道下を通り、国道四号線の反対側に出る。
(大きなビルを迂回する)

(東北新幹線の高架)

(高架を過ぎると左へは車道)

(歩道は脇道を下る)

(国道四号線をガードで反対側に出る)

(国道四号線のガード)


反対側に出たら右へ、国道四号線の方へ坂を登り、
国道四号線の左脇に「栗橋大一劇場」のところを、
旧街道は左の脇道に下っていく。
下り道は右へ曲がっていくが、曲がりきった所に神社がある。
鳥居の扁額に(香取宮 八幡宮)とある。
さらに進んで、左手に「会津見送り稲荷右」の案内杭があり、
進むと右手にお稲荷さんの赤い鳥居があり、近づくとお宮にでかでかと
「会津見送り稲荷」と書いてある。
(国道四号線に昇る)

(栗橋大一劇場)

(下りきった八幡神社)

(香取宮 八幡宮の扁額)

(会津見送り稲荷の案内杭)

(お稲荷さんの赤い鳥居)

(会津見送り稲荷と墨書してある)


説明板によると、
(江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、
会津藩の武士が藩主が江戸参向に先立ち、
先遣隊として江戸へ書面を届けるため、
この街道を栗橋宿下河原まで来た所、地水のため通行できず、
街道がどこかわからず大変困っていると、
突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれました。
お蔭で武士は無事面目を果たすことが出来たという。-中略。
のちになって、この老人が狐の化身であることが判り、
お稲荷様として祀ったものである。久喜市教育委員会)とある。

久喜市の教育委員会も大変苦労なさっていると思える。
これはボクの感想。

このあと旧日光道中は、また国道四号線に上がり、
すぐ下ってガードを潜り抜け、出たところを右折する。
旧街道らしく初めての草道で、これで正しいのかと思ったが、
草道はすぐ終り、ぐるっと左へ曲がると、
案内にある通り、三河屋衣裳店がある。
(二回目国道四号線への上り道)

(下ったところ)

(ガードをくぐる)

(草道)

(左へ曲がる草道)

(三河屋衣裳店)


ここから栗崎宿のようで、
街道は鉤の手になって道路は右に急回転している。
言い伝えでは、ここに関所があったという。
この衣裳店の真裏に当る所に、焙烙(ほうろく)地蔵はあった。
ほうろくとは、戦時中金属は、大砲や鉄砲のために全てが供出したために、
フライパン代わりに土で出来たフライパンと思っていただきたい。
豆を炒ったり、米を炒ったりした。
焙烙地蔵堂は、関所破りを火あぶりの刑にした人のを哀れんで作られた。
(焙烙地蔵堂)

(焙烙地蔵尊)

(焙烙(ほうろく)


この焙烙地蔵について、
(むかし、現在の利根川に関所が設けられ、
人の通行をきびしく取り締まっていた時代、
関所を通らないで川を渡った者、
あるいは渡ろうとくわだて事前に発見された者は、
関所破りの銃罪人として、火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。
処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったと言う。
こうした沢山の処刑者をあわれみ、
火あぶりになぞらえて、
その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祀ったものである。
今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見受けられる。
またエボ地蔵(エボ=イボのこと)とも言われ、
あげた線香の灰をエボにつけると治る、
と言い伝えられている。久喜市教育委員会)とある。

旧街道を進むが、目当ての浄信寺が見当たらないので、
杖代わりに乳母車を押して歩いて居るおばあちゃんがいたので、
お訊ねする。

「浄信寺へ行きたいのですが、ご存知ですか?」と訊くと、
「そこに鏡(カーブミラーのこと)があるだろう、
その先に旗がひらめいている所があるからそこだよ。
あんたは檀家さんかよ?」と逆に訊かれた。
「いえ、違います。ボクは旧日光街道を歩いて日光まで行く所です。
昔の人は、どんな気持ちで歩いたのかと思って」と答えると、
「どっから来ただ。」と言うから、
「今日は(幸手)からきて、(栗橋)まで歩きます。」と言ったら、
「大変だなあ,これ持ってけ」と飴をポケットから沢山取り出した。
折角出されたものを、いりませんとは言えず、
「では遠慮なく」と言ってひとつまみ上げたら、
「もっともってけ」と手のひらに、どっさり飴を乗せられた。
「ありがとう」と言って頂戴したが、遠慮すべきだったのか、
今でもよく判らないが、疲れていることも手伝って、美味しく戴いた。
(旧日光街道)

(紅白ののぼり旗)


しばらく歩くと、
紅白の幟旗がひらめいている所がある。
その下に案内杭が建っており、
浄信寺、顕正寺、深広寺、焙烙地蔵の案内がある。
浄信寺はこの紅白ののぼり旗がある場所にあり、
その正面、道路反対側に顕正寺はある。
(案内杭)


浄信寺にはご近所の婦人会の方か、沢山集まっていて、
明日始まる「呑龍上人」のお祭りの準備をしていた。
毎年4月に呑龍上人の祭礼が行われるが、
これは呑龍上人が貧しい子供を手厚く保護したことから、
「子育て呑龍」と尊敬された上人を浄信寺が、
大正時代から祀ったことから始まっているという。
(浄信寺でお祭りの準備をする婦人会の人たち)

(浄信寺本堂)





コメント (6)
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