Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

先の震災・・この海自艦と乗組み各位の 救助での活躍を覚えておこう

2024-03-13 22:17:01 | 国際・政治
先の震災、東日本大震災関連の事に もう少し触れさせて頂きたい。 それは、宮城・石巻の住民各位の救助に貢献した海自護衛艦と乗組み各位の事である。

恥ずかしながら、この事実は拙者初耳であった。 しかしながら、今後の自衛隊の国家的地位保全を図る意味では決して看過できない事だろう。 以下 昨日の読売新聞ネット記事を引用して、みて参る事に。

「『たすけてくれ(て) ありがとう』園児から海自護衛艦に手紙・・135人救助が艦の『誇り』」

13年前の東日本大震災発生直後、海上自衛隊の護衛艦「たかなみ」(基準排水量 4650t) は 神奈川県横須賀市の横須賀基地から宮城県の石巻湾へ急行し、幼稚園児ら 135人を救助した。 ただ、今では世代交代も進んで 当時を知る乗組員はいない。 艦長の 西川瑠美 2等海佐は「万一の災害時は被災者のために、強い使命感を持ってほしい」と災害時の任務、記憶や教訓の伝承に力を入れる。

「たすけてくれ(て) ありがとう しごとがんばってね」

フェルトペンでメッセージが書かれた色紙や卒園式の写真が、「たかなみ」の艦内に大切に保管されている。 当時 石巻みづほ第二幼稚園(現在は廃園)の園児が贈ってくれた感謝の証は、艦の「誇り」でもある。 昨春から年末までは 多くの乗組員の目に留まるようにと、食堂に置かれていた。

震災発生翌日の 2011=平成 23年 3/12午前、「たかなみ」の乗組員がゴムボートで沿岸を捜索中、津波に襲われて孤立した園舎で助けを求める園児 11人と教職員、保護者(ら) 13人の計 24人を発見した。 屋上で一夜を過ごした園児らは、お遊戯会で使った 赤色のサンタクロースの帽子をかぶって体を震わせていたが、艦内で昼食を取って風呂で温まると 安心して眠りについた。

西川艦長は当時、補給艦「おうみ」の乗組員として 長崎県の佐世保基地から東北沖に派遣され、到着直後は 海上を漂う遺体の収容を担った。 その後 避難所に届ける物資をヘリコプターに積んだり、小型艦艇に燃料を補給したりする任務に就いた。

東京電力・福島第一原発の爆発事故後は、原子炉への注水などを担う「オペレーションアクア」への参加を命じられ、(同)原発から 20kmほどの沖合で、水の運搬船に給水する任務もこなした。

放射能漏れの影響が不明とあって、下船を命じられた 10人の女性乗組員は「納得できない」と上司に強く申し出て 参加を認められたという。 「信頼する仲間と一緒に立ち向かう心境は 平時から変わらない。覚悟を決める貴重な経験ともなった」と振り返る。

東日本大震災の教訓や経験は、自衛隊内でも共有されている。 能登半島地震では 海上からの物資輸送などに生かされた。 西川艦長は 後に続く若い乗組員に「災害がなくなることはない。派遣の度に ノウハウはアップデートされる。 自衛官としてのやりがいも感じてほしい」と語りかけている。

■海上自衛隊は 東日本大震災の発生当時、横須賀地方総監の 高嶋 博視海将を指揮官とし、それぞれ艦艇 60隻、航空機 100機、隊員延べ 16000人ほどを派遣し、人命救助や遺体の収容、救援物資輸送、入浴支援などの任務にあたった。 (引用ここまで)

前出の震災時、当然三自衛隊が 直ちに救助へ向かった事は薄々存じてはいたが、改めて当時の記事に接すると その大変さが少しだけ見えた様な気にもなる所だ。 西川「たかなみ」艦長のお言葉にもある様に、救助救援活動で得られた経験や教訓が 新たな知見となって積み重ねられ、隊の技を磨く一助にもなっている事だろう。

遅れはしたが、護衛艦「たかなみ」とその乗組み各位による この重い事実を̪確と覚えておかねばとも思う所。 「左」の連中はスルーかもだが、こうした自衛隊各位の命を懸けた活躍に報いる為にも 憲法上での地位保全が強く求められなけければならない事だろう。 やはりそれを実現する為には、現行憲法の改正は 避けて通れない事と強く思う。 今回画像は、 先月訪ねた当地東郊の愛知・静岡両県境近くの浜名湖畔を西へと向かう JR東海道本線下り貨物便の様子をもう一度。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする