Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

東日本大震災 13周年に寄せて

2024-03-11 21:29:57 | 社会・経済
2011=平成 23年に生じた 東日本大震災から 13年。改めて 2万人規模の犠牲各位への弔意と、まだ全面復興とは言えない状況下 今も避難生活を強いられるなど多くの被災各位へのお見舞いを表したい。

特に廃炉が決まった 東京電力・福島第一原発関連の処理が遅れている様だ。原子炉の冷却などに用いられた 処理済み冷却水の海洋放出など賛否はあろうが、国際原子力機関 IAEAも認めた方法に則っての安全な手法である事にも留意し、その上での早い復興を望みたく思う。

発災日でもあった今日午後は、全国で行われただろう黙祷(もくとう)に、TV画面越しながら拙者も加わった。加えて夕方前には、この元日生じた 能登半島地震に対する黙祷も行われた由で、過日被災の東北から ボランティアと共に復興の為のノウハウも共有されつつあると聞く。こうした連携が、叶う事なら全国レベルに広まる事をも望む者だが。以下 今日の様子を MBC南日本放送ネット記事を引用して、みて参る事に。

「東日本大震災から 13年 各地で犠牲者に祈り」

東日本大震災の発生から、きょう 3/11で 13年です。警察庁の発表では 先月時点で亡くなったのは 15900人、行方不明者は 2520人で、鹿児島県内には現在も 12の市町村に 80人が避難しています。3/11は 各地で犠牲者に祈りが捧げられました。

半旗が掲げられた 鹿児島市役所。震災が発生した 2:46pmになるとサイレンが鳴り、職員らが黙祷を捧げました。鹿児島市からは、これまでに 154人の職員が被災地での支援にあたっています。

(2011=平成 23年に宮城県利府町で支援 市街地まちづくり推進課・岩山和史さん)「何万という人が水を求めて(給水箇所に)来た光景は、今も強く印象に残っている」

(2022=令和 4年に宮城県気仙沼市で支援 道路建設課・吉元太朗さん)「(おととし震度 6強の地震で)修復しても壊れるのはあっという間なのだと強く感じた。二度とこのような大きい災害に見舞われないよう願いながら黙祷をした」。

同じ時刻、(JR)鹿児島中央駅前では
(高校 1年生)「(当時は) 3歳。社会の授業などで (当時の映像を)見る。
(見たときどう思った?)の問いに→こんな目にあいたくない」

当時、旅行先のアメリカで地震のニュースを見たという女性は
(60代女性・70代男性)「なんで映画の宣伝でもやっているのかと、ちょっと結びつかなかった」「(できることは)義援金ぐらいしかない」「(被災地が地震前と)同じような生活になれば」

(9歳の息子、母親)「(東日本大震災は知っている?)の問いに→知らない」「地震については非常時のことは伝えているが、そういうことがあったと伝えていきたい」

(鹿児島県)鹿屋市では、東日本大震災と能登半島地震での犠牲者を追悼するセレモニーが行われ、地元の松下保育園の園児などが「ふるさと」などを合唱しました。(参加者)「今年は 能登まで届くように大きい声で歌おうねと練習してきた。一刻も早く復興出来るように願っている」(引用ここまで)

他報道によれば、3万に迫るともされる東日本大震災での避難生活を迫られる方々が全国におわす事は聞いたものだが、南九州の鹿児島県下も例外ではない様だ。各自の今後の人生設計による所もあろうが、被災各地への帰還を望む方々に少しでも寄り添った復興措置が図られる事を願って止まない。

これも他報道からだが、各被災地の地元住民らとの意思疎通やその為の議論を図る努力をしない地域は やはり復調が芳しくない様にも聞く。前述の意志疎通や関連議論を心掛ける事で、その地域にとり「何が一番大事か」という所が良く見えてくる可能性もあろう。

回り道の様でも、そうした地道な取り組みが むしろ力強い復興に繋がる様にも見えるがどうか。政府も与野党もメディア勢力も そこの所は留意を願いたいが、スタンドプレーに走る一部の連中には無理か。今回画像も振り返り恐縮。一昨年訪ねた、ほぼ震災復興叶った様にも見える 岩手・釜石市内の様子をもう一度。通る線路は第三セクター・三陸鉄道線。
コメント
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