Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

後記~夏の行路

2007-08-30 22:47:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!

今年2007=平成19年8月も、後1日を残すのみとなりました。
今夏は、後半の超の付く猛暑が特徴的でした。特に当地近くの岐阜多治見にて、我国の歴史上の最高気温が1933=昭和8年以来74年振りに更新され40.9℃の新記録を生じたのがその事を象徴していると強く思います。在宅でありながら熱中症の犠牲となった方もあり、改めて近年の地球温暖化の良からぬ影響を肌身に感じた次第。又、夏にありがちな凶悪事件がやはり発生してしまい、あろう事か当地名古屋にて、金品目当ての犯人グループの罪業により、無辜の女性が落命させられるに至ったのは誠に遺憾であります。

容疑者が既に捕捉されているのが不幸中の幸いであり、考え得る限りの厳罰を願いたい所。それにしても昨夏の福岡にての、幼年3兄弟が犠牲となった飲酒衝突事故にても思った事ですが、夏と言う季節は、ただでさえ地に堕ちた日本人の倫理観念を更に底なしのレベルにまで貶める魔力がある様です。我々はこうした悪しき見本を良く見つめ、改めて襟を正したい所であります。

さてこの1ヶ月は、当地愛知と静岡西部の山間、そして長野南信とを結ぶ我が父祖ゆかりのローカル鉄道JR飯田線をメインに、今年初逝去した母方の祖父母の事共を交えながらの特集を綴って参りました。それも今回にて一区切りにしようかと思います。

祖父も、祖母も、それぞれに、又それなりに素敵だったと今は思います。
共に幼少の頃に片親を失い、我々の代よりは想像もつかない苦節を乗り越えて来た人々である話を母から聞いた記憶があります。
そうした波乱の人生模様を乗せて、飯田線は正にその人生そのものの様な、険しい山間を走り抜ける鉄道であります。
我が故郷、豊川稲荷の門前の利便を図るべく最初の区間の開通を見てから40年、戦後の電源開発、佐久間ダム構築に伴う経路変更を含めれば今の姿となるまでに、実に60年近くの歳月を要した飯田線。その総延長195.7kmに及ぶ長大な路線の事を語るには、たかが12回の特集日記では当然ながら到底事足りるものではなく、私の了見は随分甘かったかな、などと反省もしております。
その一方で優れた風光、地域の独得の気質など我々を捉えて離さない魅力ある路線であるのも事実であり、今回語り切れなかった事共はいずれ機会を改めて、取り上げたく思います。又来月は、この路線に関する拙写真帖新作の公開も考え中です。

最終回の今夜は、飯田線に関するとっておきの情景を申し上げておきましょう。
今から40年ちょっと前の我が幼少の頃、同線沿線の湯谷温泉の奥の豊川流域の川へ、親族10余名と共に泊まりのキャンプに出かけた事があります。
思えば今日に至るまで、この時の事が我が最良の夏の思い出となっています。
美しい渓流の対岸を飯田線が走り、日中は当時の急行「伊那号」や年季の入った戦前型電車による各駅停車が往来し、列車毎に乗降戸や側窓の配置が異なる車両の様にしばし見とれたものです。
又、現在は見られなくなった貨物列車も良く通り、大正生まれの英国製電気機関車や色んな形の貨車の編成を拝む事が、西瓜割りや川遊び、そして夜のキャンプ・ファイアーなどと並んで忘れられない我が記憶となっています。
当時はまだ、不慮の事故にて早世した叔父も健在であり、まだ壮年だった祖父母もこの集まりを心より楽しんでいる様でした。
ここは現在、ダム放流時の安全面に問題があるとかでキャンプは不許可となりましたが、日帰りの水遊び客でずっと賑わっている様です。少し川上の「愛知県民の森」の敷地にキャンプ宿営地が整備された事も大きい様ですね。

暑い中にも、秋の気配は日毎にはっきりして来ているのを感じます。
我国屈指のラテン音楽家、松岡直也さんの以前の楽曲に「踊りながら夏が逝く」と言う作品がありましたが、今は正に、暑さと涼しさの2つの空気の間にある夏が、盆の頃の猛威を弱めながら退場の機会を伺っている感じでしょうか。
板敷川と言われるこの河原の賑わいも、夏休みの終わりと共に再び元の静けさを取り戻すのかも知れません。

さてこの河原、夜の星空も見事でした。その事を想起させる歌をご紹介して、今夏の特集日記を終わりたく思います。この曲は初めて耳にした時から「何と言う美しい旋律だろう」との想いが強く、やや気恥ずかしくなる歌詞と相まって、我が好みの日本の歌の1つ。今月も、誠に有難うございました。

「星のかけらを探しに行こう」

今宵 星のかけらを探しに行こう
舟はもう 銀河に浮かんでる
願い忘れたことがあったから
もう一度 向かい合わせで恋しよう

初めての出逢いみたいね こんなにときめいてる
夜空と街灯り 輝いてひとつになる
蒼いシリウスが目じるし はぐれそうになっても
抱きしめてこの手で この場所で待ってる

きっと近すぎて 遠すぎて
少しずつ見えなくなった
だけど今 素直になれる気がする

ふたり 夏の星座をくぐりぬけて
光の波間に揺られてる
話し足りないことがあったから
もう一度 向かい合わせで恋しよう

この宇宙を見上げていると 遠い記憶がうずく
生まれる前のこと 想い出しそうになる
こうして巡り会ったこと 偶然じゃないかもね
運命の導き 信じたくなる

ずっとそばにいる 愛してる
君だけを感じていたい
誰よりも大切だってわかった

今宵 星のかけらを探しに行こう
舟はもう 銀河に浮かんでる
願い忘れたことがあったから
もう一度 向かい合わせで恋しよう

だから星のかけらを探しに行こう
舟はもう 銀河に浮かんでる
願い忘れたことを届けたい
静かに見つめ合ってね

星のかけらを探しに行こう
舟はもう 銀河に浮かんでる
願い忘れたことがあったから
もう一度 向かい合わせで恋しよう・・・

Performed by 杏子*(地球)*

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夜空~夏の行路

2007-08-27 00:23:00 | インポート
ミーSAN今晩は。北の方もかなりの残暑の様ですね。どうかご健康に。
それと先日、貴サイトの「しりとりコーナー」にてちょっと失敗があり、済みませんでした。
知友の方皆で盛上げるコーナーである以上、他の方のご投稿の状況を見る必要があり、これは要注意ですね。今後の課題が1つ見えた様な気がします。

さて、貴女宛ての伝言の1通は今年もこのタイトルに落ち着きました。
今夏はご存知の様に、年初に相次ぎ逝去した母方の祖父母を偲ぶ特集として、我が゛先祖と縁の深いローカル鉄道飯田線の事を中心に記事を綴っています。
この路線の事は色んな文献やインター・ネットの情報にも取り上げられていて、そこから調査研究する事もできるのですが、やはり一番説得力のある見聞は、幼少から青春期にかけて頻繁に同線を利用していた母の話でした。

今月一度記しましたが、飯田線の全通は1937=昭和12年の夏。母の乗車の記憶はそれより少し前からであり、当時未開通の区間は川舟に乗り換えた記憶がある由。
最早、この時代からの乗車経験を持つ方はもう多くはないと思います。
この路線では勿論祖父母も用務にて何度も往来した訳ですが、中でも戦中戦後、列車にての食糧の搬送には苦労が多かった様です。
戦時中は食糧統制による配給制、終戦直後も同様で、祖父は憲兵隊による取締りをかわしながら妻子を養う為、少しでも多くの食糧を確保すべく奔走していた様です。
勿論中には捕捉され、没収されてしまうケースもある訳で、そうした苦労の片鱗しか知り得ない己が歯がゆくなる事もありました。

又母は、土砂災害による事故現場をも目の当たりにしています。
長野南信と愛知奥三河、それに静岡西部の山間を流れる天竜川は、地質の不安定な中央構造線に近い為しばしば深刻な土砂災害を生じ、為に飯田線が数ヶ月もの長期間不通となる事は近年でも時々ある様ですね。

最大の惨禍は1955=昭和30年の年初の夜間、今の飯田市の天竜峡に近い川下で線路を塞いだ落石に列車が衝突して脱線、更に天竜川へと落下して複数の犠牲を生じた事故であります。
山峡ゆえに生存者救出、その後の復旧にも困難を伴い、母の話によると「被災車両の搬出には、数ヶ月を要した」そうです。
今も事故現場近くの線路は、川岸の断崖にあり、小規模な災害でも運行に支障が出る程の険しい立地です。
これは対岸を走る県道も同じで、今も愛知県北東部のこの梅雨に生じた土砂災害の為、現在も寸断されたままです。

それにしても、こうした険しい状況下にて理解できるのは、立地面において自然環境への負荷は、鉄道の方が道路よりずっと少ないと言う事でしょう。
今は亡き紀行作家、宮脇俊三さんが生前ご指摘になっていた事ですが「道路は上下2車線で5.5m以上の道幅を要するが、鉄道は単線なら3.5mで済んでいる。この事からも、環境負荷についての両者の差は明らかである。」
勿論路線によって交通条件が異なりますから一概には申せないかも知れませんが、一般にこうした傾向は多くあると思います。
長野、静岡、愛知の3県の境を接する山間にては、こうした話が説得力をもって伝わって来る気がします。

それと先日、他の知友の方への伝言にても触れましたが、今夏はこれも先祖を育んだ流れ、天竜川の水源と河口も訪ねました。
ある意味、もう1つの飯田線の起点と終点の様に思われたからです。
この盆明け、再び天に帰った祖父母の霊を、穏やかな佇まいの天竜の河口より見送った思い出は、忘れ難いものがありますね。

最後に、昨8/26(日)にて拙特集日記に因む拙写真帖次回作の撮影を終わりました。
その前日の8/25(土)にも夜景を中心に撮りに参っていたのですが・・・。
この次回作、来月のなるべく早い時期にお目にかけられる様努めるつもりです。*(波)*
P.S 次回にて、ひとまずの終了と致します。

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これが「水源地」!

2007-08-25 00:53:53 | 日記・エッセイ・コラム

コナサン、ミンバンワ!約2週間ぶりの拙ブログです。今年2007=平成19年8月ももう終盤、処暑の時期にも関わらず、厳しすぎる残暑ではある。お互い何とか健康留意の上、次の9月に繋げたいものであります。

さて表日記にても綴っている様にこの盆期間中、岐阜の悪友と共に長野県下へ避暑に参ったのだが、その折に岡谷市の天竜川水源地を訪ねた。長野の名湖「諏訪湖」西岸に位置するこの場所は治水施設「釜口水門」と言う所でもある。湖が水源と言うのは小学生時分より知ってはいたが、まさかこんな街中とは夢想だにしなかった。

釜口水門自体は昭和初期からあるそうで、当時の発想と技術からすれば防災上止むを得なかったのだろう。現在の水門は1988=昭和63年に竣工した2代目で、魚道なども備えてはいるが、過剰設備ではないかと勘ぐりたくなるものがあったのは事実である。高度成長の頃は、諏訪湖も湖沼汚濁の問題に苦しんだ様だ。改善への取り組みは認めるべきだろうが、それでも生活廃水とかは流入している模様で、水面よりはメタンガスの発生している気配も感じられた。

諏訪湖の標高は約760m、同湖に流れ込む川もある事を考えると、ここを厳密に天竜川の水源と呼ぶには向かない面もあるのかも知れないが、それにしても正直やや落胆を禁じえなかった遺憾な光景であった事は認めざるを得ない。次回は天竜川河口の事に少し触れる予定です。最後に、釜口水門の模様をお目にかけます。

Img_0397

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仲間~夏の行路

2007-08-25 00:23:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!

今年2007=平成19年8月ももう下旬、処暑の時期にも関わらず、相変わらずの猛暑が続いています。晩夏の定番、ツクツクホウシや秋の虫の発声練習が聞えては参りますが、涼しい時期はまだ先の様ですね。
当Cafeの知友各位も、暑さにやられて体調を損ねている方もある様です。残暑も後少し、お互い健康留意と言う事で。

さて今夏の拙特集日記、10回目の今夜はローカル鉄道飯田線にて活躍中、もとくは過去に功労のあった電車などの車両の思い出に少し触れようかと思います。

明治年間の19世紀末、生計を求めていた士族の方々により興されたと言われるローカル鉄道飯田線。初期は勿論、蒸気機関車による動力だった様です。20世紀に入り後に名古屋鉄道へと飛躍する当時の愛知電気鉄道との相互乗り入れに際し、同鉄道の強い希望にて電化、電車による運転が本格化した後も、所謂SL、蒸気機関車は貨物列車牽引の使命を果すべく、終戦直後まで残った様です。

電車の方は長野の辰野町にて中央線と接続する当時の伊那電気鉄道にて走ったのが最初で、当初は道路と路盤を共有する路面電車だった模様。
その後北部は飯田方面へ、南部は新城(しんしろ)や湯谷温泉、東栄や佐久間方面へと伸び、昭和に入って200kmに近い当時は我国最長の電気鉄道の出現に至るのであります。

戦前の国有化までは、電力方式が北と南で異なり、飯田近くの天竜峡にて南側は直流1500V、北側は直流1200Vの時代がかなりの期間続いた由。この為全線を直通できるのは、電車でも動力のない所謂付随車に限られ、動力のある電動車は天竜峡の駅にて、あたかも電気機関車よろしく交代をしていた様です。戦中の国有化以降は直流1500Vに統一された為、こうした光景には終止符が打たれる事になりますが。

私鉄だった頃の飯田線は、4社に分かれたそれぞれの会社が独自の車両を新造して運転していた様ですが、直通用の付随車は伊那電気鉄道の車両だった様です。この時代最後の新車は1942=昭和17年に竣成した豊川鉄道の運転台付制御付随車が2両で、当時の名古屋鉄道の車両に近い仕様だった模様。
戦後も暫くは飯田線にて活躍の後、四国高松の私鉄に移り、今世紀の初めまで元気だった話を聞きました。

戦後は旧国鉄の大柄な電車の活躍舞台となります。とりあえずは中間サイズの全長17mの車両から入り始め、続いて1955=昭和30年前後から、首都圏や関西などの大都市圏にて走っていた全長20mの大型車両が続々と姿を現します。
主に大都市の雰囲気を感じさせる片側3箇所の出入戸を持つ車両が多かったですが、一部に今の都市間快速列車を受け持った片側2箇所の出入戸の車両も見られ、その中には関西にて戦前から大人気だった流線型車両の姿もありました。この車両は正面窓が、他とは異なる4枚組だった為に遠目にも良く分り、強い印象がありましたね。
走行性能も、戦前製としては卓抜したものがあった様です。又、戦前勢独特の木部の多い車内は、乗っていて何か心安らぐものを感じもしたものです。又、一部の豊橋向きの先頭車にては、乗客と一緒に沿線住民向けの荷物や郵便物を運ぶ様も良く見られ、こちらも強く記憶に残っています。

私が成人する1970年代の終盤、昭和53頃まで飯田線の各停列車は戦前型の天下だった訳ですが、日に3往復の急行「伊那号」だけは特別料金を徴収する関係からそうも行かず、戦後製の長距離用、湘南電車が受け持っていました。山陽新幹線が初開通した1972=昭和47年からは後継の電車にバトン・タッチされ、その後空調も完備されてようやく急行らしくなりますが、1975=同50年の中央道路開通に伴う名古屋~飯田間直通バスの開業により、伊那号の利用実績は低迷してしまい、数年後には消滅してしまいます。

その後1982=昭和57年の東北&上越新幹線の開通が、飯田線の電車のあり様にも大きな影響を及ぼします。
まずこの年の秋、上記新幹線の開業に伴って転進した長距離電車165型が飯田線各停のサービス改善用に運転を開始、明けて1983=同58年は飯田線の国有化40周年の節目の年。この記念事業の一環として、国有化後初の新車が導入されました。今も主戦の地位にある119型であります。
これら新興車両の登場により、戦前製旧国鉄型は全量が引退、その後飯田駅より全線の施設を制御できる列車集中制御システムCTCも整備され、無人駅も大きく増えて今の飯田線の表情に近づきます。
新顔の119型電車には、JR移行の前後に空調が追加されて夏場の居住性も向上し、又南部の豊橋近郊では列車の短編成化に伴って増便が行われ、利便性も向上しています。

1996=平成8年には10年余運転が途絶えていた優等列車が特急「伊那路号」として復活、現状豊橋~飯田間を2往復しています。
又、昨年辺りから東海道線の快速仕様の新車が同線にも時折姿を見せ、一部の列車で運転されてもいる様です。
戦前製のレトロ電車と同じ窓・座席配置と全自動とは参らない乗降戸を有し、又基本的に最低1ヵ所の手洗室を備えるのも特徴的な119型ではありますが、時代の流れは意外に早く、もしかすると後数年で後継の新車が姿を現す事態も有り得るかも知れません。*(山)*

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流れ~夏の行路

2007-08-23 00:16:00 | インポート
だーSAN今晩は。盆を過ぎ、処暑の時期となりましたが依然猛暑が続きます。熱中症などの健康への悪影響も懸念され、又電力需要も大変大きく、先の新潟県下の震災にて原子力発電所の停止に追い込まれた首都圏では、電源調達に奔走させられた様ですね。
まあ夏場の産業には朗報でもあり、一概に嘆くべきではないかも知れませんが、やはりこれも近年の地球温暖化の影響かも知れません。

さて予告通り、今夜は少し海の話をさせて頂こうと思います。尤も普段貴方が愛し、親しんでいらす海とは少し趣が異なるかも知れませんが、どうかご一読下されば幸いです。
その海とは、静岡は浜松市南区と磐田市の境の太平洋岸の事です。ご存知かと思いますが、ここは長野県下より南へ向って流れ下った天竜川が海へと消える地点です。
同川は長野南信の諏訪湖を源流とする第1級河川で全長約213km、水源標高約760m、流域総面積約5100平方kmはほぼ当地愛知県の面積と同じ、下流域の秒当り平均流量は約135tであります。
思えば天竜川こそは、我が父祖を育んだ恩義の川だと思います。又その名称は「天へと昇る竜」を連想させ、プロ野球中日ドラゴンズを愛好し応援する我々にとり、極めてゲンの良い川であると言えます。

この夏、亡き祖父母を偲ぶ意味もあって、同川の長野県下の水源地と静岡県下の河口を訪ねてみました。まず水源地へ終戦の日の8/15に参りました。
天竜川の水源たる諏訪湖は、決して高い標高と言う訳ではありませんが、途中の中流域が山間にかかる関係で大変流れの急な所があり、その為に早くから水力発電と水資源確保の標的となりました。
戦前の1935=昭和10年頃には早くも飯田市の南方の泰阜と言う所に、最初のダムが出現します。それを皮切りに戦後、そして高度成長の時期にかけ、静岡県の山間の佐久間ダムに代表される多くの治水施設が建設されました。
今月初めにも少し触れましたが、天竜川は永らく船便による交通路として利用されて来た歴史があり、泰阜ダムの完成直後に全通したローカル鉄道飯田線の存在が、天竜川の水資源開発を後押しした皮肉な側面があるのは事実だと思います。

水源地の諏訪湖は長野の地方都市、岡谷市の街の中。諏訪湖の西岸には釜口水門と呼ばれる治水施設があり、ここが天竜川の起点であります。その余りに俗化された様相は山間の水源地の神秘さとは程遠く、見なければ良かったかな、などと思ったりしている所。初代水門は前述の泰阜ダムとほぼ同時期の完成。今の水門は2代目で、昭和最後の1988年に完成しています。
水源の水質は決して良好とは言えず、沿岸の生活排水も流れ込んでいる様で、芳しくない印象を受けました。

次にその3日後、河口へと参りました。諏訪湖より200km余、同湖へ流れ込む川を含めれば250kmを超える距離を下った流れは、遠州平野での最後の約30kmの間は我国を代表する堂々とした様相を誇り、一気に太平洋を目指します。はるか以前のまだ幼少の頃、父の車にて当時最下流の橋だった掛塚橋を渡る時に、車中より河口の模様を眺めた事はあるものの、直に訪れたのは初めてでした。
川下の幅は約1000mはあるはずですが、その数値規模を感じさせない程、思いの他小ぢんまりとした印象の河口の佇まいでした。
水質は水源地より良い位で、多くの美しい支流が本流の浄化を助けている印象です。
河口左岸には竜洋海洋公園がありますが、河口周辺は意外に俗化されておらず、昔と変わらない素朴な印象を受けました。
地元の方々は良く訪れていらす様で、私が訪ねた時も、参った磐田市の側は釣りや散策、対岸の浜松市南区の側は水上バイクなどの水遊びや、バーベキュー会などの方々で結構賑わっていましたね。沖縄近海を進む台風の影響か、波はやや高かったです。

主要な川の河口にて危険な為遊泳は禁止ですが、盆にできなかった祖父母の霊の見送りの一礼を行うに相応しい、厳粛な光景だったと思います。
思えば私も幼少期を東三河にて過し、天竜の水の恩恵を受けて育って来ています。
その水の流れの終点たる河口。何か大きな物語の終わりの光景を見ている様で心が和み、こちらは行ってみて良かったと思っている所です。

ローカル鉄道飯田線の行路は豊橋寄りの区間を除き、その大半が同川沿い。時にスリルを感じる断崖を、又時に長閑なゆったりした川沿いを走ったりします。
私の一番の好みはやはり、天竜川に沿い始める浜松市天竜区の山間から飯田市までの中程の所でしょうか。もう少し、同川の水質が向上すればもっと良い、と思いますが・・・。*(波)*

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