極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

現代大量虐殺史 Ⅰ

2015年08月18日 | 時事書評

 

 

  犯罪に理由は必要なのか? /  アーサー・ショウクロス

 

   


 【縮原発論 17: 核ごみ廃棄処理のススメ   

  目次   

  第1章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
  第2章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
  第3章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
  第4章 世界的なウラン産業の誕生
  第5章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈
  第6章 産業界のおぞましい人体実験
  第7章 国連がソ連を取りこみはじめた
  第8章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
  第9章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか 




   第6章 産業界のおぞましい人体実験

           「プルトニウム人体実験」と組織的50万人殺戮計画



  さて再び戦後のABCC誕生の時代に戻らなければならない。その背後で、恐怖の出来事
 が秘かに進行していたからだ……おそらく読者には信じられないだろうが。
  ニューメキシコ州で最初の原爆実験を成功させた’原爆の父”ロバート・オッペンハイマ
 ー
が、あろうことか「放射性毒物兵器による50万人殺戮計画」の書簡を、最初の核分裂連
 鎖反応を成功させたエンリコ・フェルミに対して送っていた。それもマンハッ
タン計画が進
 行中の1943年5月25日付
けでだ。

  機密解除されて暴露されたこの恐怖の殺
戮計画には、以Fのような文面があった。
  ――エンリコ・フェルミ様

  放射能で食品を汚染させる問題について報告します。私はすでにいくつかの作業を進めて
 います。……50万人を殺すのに食べ
物を充分に汚染できない場合には、計画を試みるべき
 ではないと考えます。というの
は、均一に分布させることができないため、実際に被害を受
 ける人間がこれよりはるか
に少なくなることは間違いないからです。 

                            ロバート・オッペンハイマー



  こうしてマンハッタン計画の首謀者たちによって、全米で「プルトニウムを体内に注射す
 る人体実験」がおこなわれたのである。このおぞましい事実については、1994年にピュ
 ーリッツアー賞を受賞した『プルトニウム人体実験』(アルバカーキー・トリビューン編、
 広瀬隆訳・解脱、小学館、1994年)で詳細に報告してある。広島・長崎に原爆が投下さ
  れる5ケ月前の1945年3月、マンハッタン計画の医療担当者がロスアラモス研究所で会
 合を持りた。そこでオッペンハイマーたちが、プルトニウムを
患者に注射する計画への協力
 を依頼したのである。そして翌月(1945年4月10日)、
テネシー州オークリッジのマ
 ンハッタン計画病院で、交通事故で重傷を負った黒人男性にプ
ルトニウムが注射されたのだ。

  この第1号患者以来、おそるべき科学がスタートした,終戦
後の1947年に至るまで、
 末期的癌患者など余命の短いとされる合計18人の一般市民が選
び出され、プルトニウムを
 静脈に注射する人体実験が病室でおこなわれた。被験者はプルト
ニウム注射後、必要もない
 のに内臓を切除されたり、死亡後の遺灰までも研究材料にされ、人間が文字通りモルモット
 の扱いを受けた。


  名もない医師がプルトニウムを注射したのではなかった。医学界の権威とみなされ、当時、

 ヒロシマ・ナガサキABCCを動かして放射能と生体との関係を結論づける委員会などで最
 高指導者のポストにめった人間が、患者たちを病室で担当していたのである。しかも彼らは、
 かなり以前から相互に関係を持っていた。なぜなのか・・・・・・
  というのは、マンハッタン計画には、有名な「原爆開発域」があり、マンハッタン計画と
 言えば、彼らだけしかいなかったと思われてきた。
  だが彼らだけでなく、実はマンハッタン計画の第二部門として、この人体実験に関与した
 「医学班」が存在していたのである。彼らが放射能の危険性を研究した部隊であった。つま
 りマンハッタン計画の従事者たちは、原爆の製造法を研究した時代に、ロスアーフモス研究
 所
で多くの者が重度被曝して、かなりの数の病人や死者を出していたため、放射能のおそる
 べ
き危険性に気づいていた。

 Human Experimentation, Plutonium, and Colonel Stafford Warren

  その医学班の最高責任者で、医療主任がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が、
 プルトニウム生体実験を認可した当人であった(先に述べたヒロシマ・ナガサキABCC設
 立
設者は、シールズ・ウォーレンであり、同姓だが別人であるので、混同しないように注意)。
  スタッフォード・ウオーレンは、”ニューメキシコ州アラモゴルドでおこなわれた194
 5年7月16日の”最初の原爆実験”で放射性降下物(死の灰=フォールアウト)を観測し
 た。そして、原爆作裂の様子を観察していたかなりの人間が一時的に失明し、多くの者がか
 なり大量に被バクしたことから、「放射性降下物によっできわめて重大な潜在的危険陛が残
 されている』と報告した。
 
  そのときの結果を、原爆実験五日後にウォーレンが指揮官グローヴスに報告したなかに、

 次のような事実が記されていた。

  ――実験当日と翌日の二日間にわたって、放射性物質の降下を観測したが、実験場の周囲
    には、半径120~160キロメードルの範囲にわたって住民のいることが確認され
    た。幸いにも、特に高い放射能が検出されたのは、無人地帯だけであった。
    観測班の人間は危険を承知で作業したが、多くの者がかなり大量に被パクした。
    3・2キロメートル以内で岐バクした人のなかには、死亡者または重症者が出るおモ
    れがある。調査した住宅地域では、場所によっては、放射性降下物によってきわめて
    重大な潜在的危険性が残されている。

  ここで指摘された”重大な潜在的危険性”は、実際、住民に甲状腺癌を含むさまざまな癌

 が発生して裏づけられてきた。その被害について、驚くべきことにたった今、2014年に
 アメリカ国立癌研究所によるてフモゴルド周辺住民の調査かはじまったぱかりである。
  そのスタッフォード・ウォーレンが、やはり原爆投下後の広島と長崎に姿を現わし、のち
 のABCCと共同で被バク者を、モルモットとして観察した人物であった。ウォーレンは、
 日本人が見るのと別の視点で広島と長崎の被バク者を生体研究の対象とし、さらに、南太平
 洋のビキニでおこなわれた原爆実験にも参加した。ここでも、目的は同じ人体の観察であっ
 た。

  スタッフォード・ウォーレンは1981年にこの世を去ったが、しかしモの医学者として
 の生涯履歴には、プルトニウム注射の「人体実験」を認可したことのほかに、なぜか「知恵
 遅れ」の研究について大統領特別補佐官の役割を果たし、「盲人」の研究においても権威で
 あったことが記されている。いずれも代表的な放射能障害である。広島と長崎の被爆者を調
 べ、核実験と人体実験を繰り返すうち、原爆が戦争に使えないほど危険な兵器であることに、
 人体実験医は気づいていたのである。人を殺すことには痛みを感じないが、自分が犠牲にな
 るときには逃げ出す人間たちの科学論が、核実験と原子力の最大の特徴であった。そのよう
 な”ある種の科学者”たちが、マンハッタン計画の原曝開発部隊に集められたあと、兵器開
 発と生体研究のそれぞれの担当者が密接に連絡を取り合って、組織的に殺人計画を実施して
 きた。

  それをわれわが”戦時中の狂気”として納得できないのは、彼らが戦後も核実験と人体実
 験に奔走し、その人脈がさきほど述べたように日本に受け継がれ、原発の放射能無害論を喧
 伝してきたからである。戦後は、同じ人間がさらに危険な冷戦を挑発し、罪もない膨大な数
 の死者を踏み台にして、巨額の利権をあやつってきたのだ。




               ハーヴァード大学でも組織的な人体実験が!

  ニューメキシコ州の地方紙”アルバカーキー・トリビューン”が報じた前述の『プルトニ
 ウム人体実験』のほかに、次から次へと人体実験が山のように報告され、明るみに出てきた。
  1947年9月には、カリフォルニア州スタンフォード大学のウィリアムーグルーリック
 教授が、ABCCと共同作業をするために来日すると、広島、呉、長崎、佐世保で、日本の
 児童、実に1000人にX線を浴びせ、原爆の放射線がどのような影響をもたらすかという、
 おそるべき実験をおこなった。この生体実験をおこなうにあたって、彼はスタッフォード・
 ウォーレンに相談したが、ウォーレンは、「X線の被曝量はわずかだから、よろしい」と許
 可を与えていた(東京新聞2014年8月2日夕刊)。

 
RADIUM CITY 1987 Complete 102 min. Feature Documentary Film

  そしてABCCのヒロシマ原爆病院の被害者を調べて、陸軍長官直属の放射能被曝専門家

 として活躍していたオースティン・ブルースが、こともあろうにプルトニウム人体実験患者
 の症状を一方で追跡していたのである。
  先に紹介した映画『ラジウム・シティー』によれば、1948年には、原子カプロジェク
 トのため、イリノイ州にシカゴ大学が管轄するアルゴンヌ国立研究所の建設がはじまり、6
  800万ドルが投じられた。そして、かつて1920年代前後から夜光時計の蛍光塗料を塗
 布した被バク女工の”生存者”の追跡調査に着手した。これも一連の放射能の影響調査の一
 環であり、危険性を確かめることが目的だった。AEC(原子カエネルギー委員会)が資金
 を出し、この生存者たちは何の補償・賠償も受けないまま、激しい痛みを伴う骨髄検査にか
 けられ、その臓器や腫瘍などが詞べられたのである。この調査が終了するまでに、オタワ市
 出身の元女工の生存者205人のうち、驚くべきことに80%が癌に冒され、9%が死亡し
 ていた。

  人体実験の患者たちは、戦争が終ってからもプルトニウムを注射されていたが、初期のマ
 ンハッタン計画部隊は、戦後に一体何を考えていたのか。
  スタッフオード・ウォーレンは、1947年にはカリフォルニア大学ロサンジェルス校(
 UCLA)に医学部を創設して、自ら初代の学部長に就任していたのである。
  やがて1950年代に入ると、朝鮮戦争の勃発とともに西部ネバダ州での大気中核実験が
 大規模に開始され、ウォーレンはその全期間にわたって放射能関係の最高責任者をつとめ、
 死の灰について”世界一の権威”として君臨するようになった。そして彼が安全だと定めた
 基準に従って核実験がおこなわれ、死の灰が降りつもる風下地帯のセントージョージなどで
 は、膨大な数の住民がそのなかで生活させられ、殺されたのだ

  さらに1960~72年にかけて、オハイオ州シンシナティ大学病院では、82人の末期
 的とされる沸患者K致死量の放射線が照射されたが、うち61人、実に7割が低所得層の黒
 だった。このグループは、学校に通った平均年数が5年と短く、特異な選択を受けていた。
 200ラド(現単位2グレイ)の被バクで人間が死にはじめるが、患者には250ラドとい
 う強烈なX線が照射され、実験後、25人の患者が60日以内に死亡した。オークリッジの
 国立研究所でも、同様の実験がおこなわれた。この一連の人体実験の主導者となった医師は、
 後述するショゼフ・ハミルトンなので、名前を記憶されたい。

  多くの読者は、末期症状の癌患者に大量のX線を照射したからといって、それは治療の最
 後の手段であり、人体実験ではなかったのではないか、と疑問を持たれるだろう。しかしこ
 の照射室の床は木製で、X腺を容易に透過する構造になっていた。ここを開くとプラスティ
 ックのコードが縦横に走り、これらのコードには、実験用のネズミを入れたカゴが60個も
 ぶら下がっていたのである。患者は治療のためにX線を照射されたのではなく、データを集
 めるために、さまざまの測定器を装備されて寝台に横だわっていた。この人体実験中、医師
 たちは床を開いて被曝したネズミを取り出し、患者のそばを通って運び出しながら、水と餌
 を与えていたのだ。ネズミの糞便が治療室に同居していたのである。

  1992年来、アメリカでは大量の人体実験の記録が暴露されてきたが、特に重大なのは、
 ロスでフモスの原爆製造グループを指揮するグローヴス准将に対して、直接の政治的命令を

 伝える重要組織「国家防衛研究委員会この委員長をつとめていた毒ガス化学者ジェームズ・
 コナントが総長をつとめていた時代のハーヴアード大学における、組織的な人体実験であっ
 た。東部の町では、放射性物質をミルクや食べ物に入れて知的障害児に与える壮大な実験が
 おこなわれたことが明らかになり、ヒアリングが開かれ、全米の人びとを戦慄させた。19
 94年に開かれた公聴会では、ケネディー大統領の弟エドワード・ケネディー上院議員が議
 長をつとめるなか、膨大な数の人体実験が次から次へと明らかにされた。

  1940年代から50年代にかけて、放射性物質による人体実験は、全米で600人を使
 って800回実施されたと言われてきたが、1990年代にはその数が1200人とされ、
 さらに、楽に1万人を超える・フジウム被害者の報告が出された。
  アメリカ航空宇宙局(NASA)もまた、別の人体実験をおこなっていた。1963~7
 1年(もしくは73年)にかけて、ワシントン州とオレゴン州の131人の無期懲役囚にN
 ASAの依頼でAEC(原子カエネルギー委員会)が大量の放射線照射実験をおこなった。
  囚人たちは性器を露出させられ、最高600ラドの照射を受けた。これは局部照射のため
 囚人はただちに死亡しなかったが、全身被バク量が400ラドで半数以上の人か死亡するの
 だから、その1・5倍という想像を絶する大量照射を受けて、そのデータが宇宙飛行士のア
 ポロ計画などに参照されたのである。

  このような実験は、宇宙空間で作業する人間の安全性を調べるためのかなり特殊な分野に
 限られた実験で、医療部門のわずかな人間に責任がある犯罪だという印象を与えてきたが、
 実際に年表を組み立ててみると、弾道ミサイル開発部隊のNASAが、マンハッタン計画全
 体の構造に組みこまれた大がかりな人体実験だったことが明らかになった。

  人体実験は、妄想に取り憑かれた少数の医師の異常さが生み出したものではなかった。マ
 ンハッタン計画に参集した人間が組織的に、というより、むしろアメリカ合衆国の機関が中
 心となって、原水爆利権のために実験を続けてきたものであった。つまり人体実験の目的は、
 彼らが被バクのデータを握ることによって、他者の発言を許さない放射線の権威者となって、
 ”安全基準”を自由に榛ることであった。そのことが実証されたのは、このあとに登場する
 ICRPと国連の組織に彼ら自身が君臨したあとのことであった。

  この世のすべてを疑いたくなる、悪魔の世界が、ここにあった。”権力の回廊を歩こうと
 する人間たち”が、当初のマンハッタン計画の原爆開発の方向を、強引に原子力開発に向け
 直して、AEC・・・・・・ABCC・・・・・・ICRP・・・・・・IAEA・・・・・・WHO・・・・・・NRC(
 原子力規制委員会)……DOE(エネルギー省)といった組織を生み出し、放射能の”安全
 性”を宣伝する活動に一権威」として君臨してきたのだ。
  原爆より前に、一次大戦でコナントが従事した毒ガス兵器の開発があり、両者は本質的に
 同じ殺人計画であった。つまり、「毒ガス兵器」→「原爆製遣マンハッタン計画」→「放射
 性物質による50万人殺戮計画」→「原爆投下」→「広島・畏縮のABCC被バク者調査」
 →「原水爆実験」→「プルトニウム・X線人体実験」という、一連の”同じ流れ”が浮かび
 上がってくる。

  その同じ時代に、失敗したとはいえ、ナチス・ドイツも原曝開発に挑戦していたばかりか、
 アウシュヴィッツ強制収容所などで毒ガスを大量に実用し、”死の天使”と呼ぱれた医師∃
 -ゼフ・メングレらによる恐怖の生味解剖がおこなわれていた。日本人も、七三一部隊が中
 国大陸で生きたままの中国人、朝鮮人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人たち数子人民ペ
 スト、コレラ、チフスなどの細菌を植えつけ、生体解剖をおこなうなど人体実験を実施して
 殺し、これらの重罪戦争犯罪人が、戦後アメリカの占領軍によって免責されたのであった。
  この七三一部隊の残党が、このあと本書に登場する原子力の人脈である。



  第7章 国連がソ連を取りこみはじめた

            ソ連の原爆開発を成功させた二重スパイ集団がいた


  さて、かくするうち、ソ連も原爆の開発に邁進していた。ここからが本書の重要な点であ
 る。つまり、戦後に発足した国連には、西側の資本主義経済を柱とする自由主義国も、東側
 の国家紋削経済を柱とする共産主義国も、両方が参加していた。そしてその対立する米ソ両
 国とも核兵器を握って、全世界の核兵器保有国が共同で「放射能被バクの危険性」を民衆に
 
対して隠すという時代に突入していったのだ

  東西にまったく違いはなかった。それが、国
連を中心に被バクを放置するIAEA(国際
 原子力機関)を生み出すことになったのである。

  では、ソ連の原爆開発は、誰の手で、どのようにしておこなわれたのか。
  戦後の1946年、アメリカに続いて本格的な原曝の開発に乗り出した戦勝図イギリスは、
 オックスフォードシャーに独自の原爆研究所を開設した。そこで理論物理学の主任として任
 命されたのが、「マンハッタン計画で」すべてを知った男気ドイツの物理学者クラウス・フ
 クスであった。



  フックスの父はドイツの著名な神学教授だったが、ナチスに対して激しい反対運動をおに

 なったため強制収容所に入れられ、娘は夫をドイツから脱出させたあと自殺を遂げるという 
 悲劇を招いていた。それがクラウス・フックスの親と姉妹たちの運命であり、それを目にし
 た彼自身は、ナチス・ドイツからフランス、イギリスヘと脱出して、大戦中の1941年に
 物理学者としてイギリスでバーミンガム大学の原爆研究開発グループK参加した。やがて自
 分がどれほど重大な問題虻取り組んでいるかを知ったフックスは、青年時代に共産主義を学
 んだ自分の姿を忘れず、秘かにソ通の情報機関との接触をはかった。

  この当時、二次大戦中の「アメリカ・イギリス」と「ソ連」は、”連合国”として手を組
 んでいたので、敵ではなかった
  そのため二次大戦中にアメリカがソ連に送りこんだ戦闘機の数は、実にほぼ1万機に達す
 るほど膨大な数であり、イギリスもまた4千機以上を送りこんでゾ遅の軍事技術を支援した
 のである。米英軍から供給されたこれらの一万数千機の実物機体は、ウラル地方におけるゾ
 連の軍需産業にとって、いかなる設計図にもまして、その後の重大な機密資料となった。

  部品の交換や修理・改造を含めて、その内部設計や金属材料、さらには設計技術者の養成
 に至るまで、西側のほとんどの基礎的な技術がソ連の手に涙ったのである。こうして大戦中
 に築かれた情報ルートを通じて、極秘資料がNKGBと呼ばれる国家保安人民委員部(後年
 のKGB)に流入した。
  連合国同士のこのような交流作業が続けられるうち、フックスはやがて、アメリカの砂漠
 の真ん中につくられたロスアラモスの極秘原爆開発センターに、すぐれた物理学者としてイ
 ギリスから派遣され、設計から製造まで一切の機密を知ることになった。その結果、このマ

 ンハッタン計画によってフックスの頭のなかに入ったものが、クレムリン首脳に伝えられ、
 ソ連が原爆製造法の秘密をそっくりつかんでしまったのである。

  やがて、広島と長崎に原爆が投下され……翌年、1946年にフックスがイギリス原爆開
 発の主任となった時点で、ソ連の科学者には、原爆についての技術の基本設計がほとんど分
 っていた。さらに有名な国際的スパイ事件の主役として、イギリスの″ケンブリッジーサー
 クル”と呼ばれる二重スパイのグループがあった。これは、イギリスの諜報組織に所属する
 4人の最高幹部のスパイ・エージェントーキム・フィルピー、ガイ・バージェス、ドナルド・
 マクリーン、アンソニー・プラント――が、名門校ケンブリッジ大学を中心に秘密組織をつ
 くり、ソ連のスパイとして活動していた、という奇想天外な事実であった。4人目の人物ア
 ンソニー・プラントの身許が割れたのは、実に1979年という戦後30年以上もあとのこ
 とであった。ところがこのケンブリッジ・サークルには、”第5の男”が存在している疑惑
 が深まり、1986年には、4人組の全員と親しかったひとりの人間が、国家機密法のもと
 でイギリス議会の査問会に召喚された。



  ロンドン・ロスチャイルド銀行の会長ヴィクター・ロスチャイルド男爵であった。トルー
 マン大統領が、かつて「世界一のスパイ摘発専門家」と絶讃したヴィクター・ロスチャイル
 が、実は。ソ連に内通するスパイであった・・・・・・


「プロトニウム人体実験」についてはわかっていたつもりであったが、目をそらしたくなる状態
が続いた。ドイルの「アウシュビッツ」、日本の「七三一部隊」、そして、米国の「マンハッタ
ン計画」の連関図が明らかになるにつれ、「悪魔の本質・実体・現象学」という言葉が浮かんだ
。これは「愛国心とは悪党どもの最後の拠り所」などを遙かに超えている『現代大量虐殺史』だ。
さて、次回も第7
章のつづき。


                                    この項つづく

 ● 今夜の一曲 


   More than the greatest love the world has known

   This is the love I'll give to you alone
   More than the simple words I try to say
   I only live to love you more each day

   More than you'll ever know my arms long to hold you so
   My life will be in your keeping, waking, sleeping, laughing, weeping
   Longer than always is long long time,
   But far beyond forever you'll be mine

   I know I never lived before and my heart is very sure
   No one else could love you more

   I know I never lived before and my heart is very sure   
   No one else could love you more


                                
More  
 
                                             Music  Riz Ortolani 
                                       
Words Norman Newell

 

 

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