極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

北斎から千波へ

2011年05月06日 | 国内外旅行

 

一日で 稼げる程の 信濃路は 車溢れる 端午の節句  

They can earn enough in one day
Too many cars on Shinano's free-way
It's a Kid's Day today

信濃一天賺到足夠的汽車充滿男孩






【梓川から小布施へ】



白骨温泉から松本市を経由し、長野自動車道に入り、暫くして梓川サービスエ
リアで休憩を取り、展望台からの北アルプスを背景に二人の記念撮影を撮る

梓川SAは上下線とも北アルプスの大展望台。北アルプス、中央アルプス、南ア
ルプスを同時に展望できる貴重な存在で有名である。今日は端午の節句という
こともあり、鯉のぼりが雄々とアルプスと梓川が織りなす安曇野の美麗眺望に
泳いでいる。立ち寄った販売場では朝早くから連休の行楽客で混雑している。
NHKの朝の連ドラ『おひさま』の便乗土産がたくさん売られていた。



ファイル:20081207浅間山噴煙と富士山Tagged.jpg

また、暫くして上信越自動車道には入り、須坂長野東インターを出て小布施に
向かう。千曲川が北上する長野平野を後背とし、北から黒岩山、朝日岳、谷川
岳、佐武流山、白砂山、白根山、浅間山などが黄砂も晴れ見事に眺望できた。
なんとも見事な眺めと感心しながら、小布施町は‘おぶせミュージアム・中島
千波館’の駐車場に到着する。そこで高井鴻山記念館、北斎館の共通入場券を
購入し鑑賞することとなる。小布施のマロンアイスクリームが食べたい、この
彼女の一言ではじまったドライブも一歩町並みに足を踏み入れて、この千曲山
河より生まれ育まれてきた郷土文化を、高井鴻山・葛飾北斎・中島千波の三者
の足跡を知ることで少しは理解できたように思えた。

【千曲川と鴻山の郷土文化】



高井鴻山は葛飾北斎の門人。本姓・市村、名・健。俗称・三九郎。字・士順。
信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商、高井家は、営々と酒造業
で富を築き上げ、天明の大飢饉時に、蔵を開放しその巨万の富を困窮者の救済
に当て、幕府に認められ「高井家」の苗字帯刀を許可された。
鴻山は、文政3
年(1820年)、15歳の時、京都へ遊学。以降16年に亘って、書を貫名海屋に、
絵画を岸派の岸駒、岸岱親子と浮世絵師の横山上龍に、国学・和歌を本居宣長
派の城戸千楯に儒学と漢詩を摩島松南に師事、漢詩人・梁川星巌に入門、また、
九条家と接触。その後、天保4年(1833年)星巌とともに江戸に移住、昌平黌
の佐藤一斎に朱子学を学ぶ。この時、佐藤一斎門下の佐久間象山や大塩平八郎
らとも交流を持ち、鴻山も、攘夷論、公武合体論を説き蘭学も研鑽。3年後の
天保7年(1836年)の大飢饉に際し、小布施に帰郷し窮民のために蔵を開き救
済する。



天保11年(1840年)、父・熊太郎が病死し鴻山が当主になるも経営・理財は不
得意であったいわれる。葛飾北斎と交遊が始まり、天保13年(1842年)の秋、
北斎が83歳の時、初めて、小布施の鴻山(37歳)を訪れ、鴻山は、北斎の卓越
した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建て厚遇し、北斎に入門。
北斎は、この時、1年余りも鴻山邸に滞在した。鴻山は、北斎を「先生」と呼
び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合ったという。
明治4年(1871年)
に、高井家を息子・辰二に譲り、後妻・ふじ、次男・孝太郎、三男・辰二、兼
次郎と別居、秋、文部省に出仕。明治8年(1875年)に破産。明治16年(1883年
)78歳で死去。墓所は小布施の祥雲寺にある。




【中島千波】 

中島千波は、1945年に日本画家の中島清之の三男とし、長野県の上高井郡小布
施町にて生れる。1965年東京芸術大学美術学部日本画科に入学。1969年の第54
回院展 (東京都美術館) に初出品し初入選。続く1970年神奈川県美術展 でK
氏賞を受賞。代表的な「桜」画をはじめとして花の描写が得意な画家として知
られる。個人的な作品に限らず挿絵、壁画や天井画を手がけている。



『東京藝術大学デザイン科描画系「ShinPA!!!!!」』

会    期:平成23年5月20日(金)~7月26日(火)
開館時間:午前9時~午後6時
入 場 料:一般500円/高校生250円/中学生以下無料
     (身体障害者の方は半額、20名以上の団体1割引)
主    催:おぶせミュージアム・中島千波館/小布施町教育委員会
後    援:信濃毎日新聞社/SBC信越放送/NBS長野放送/TSBテレビ信州/abn長野
     朝日放送、須高ケーブルテレビ/須坂新聞社/北信ローカル/FMぜんこ
     うじ

 
【葛飾北斎】



葛飾北斎(1760年10月31日?-1849年5月10日)は、日本の近世にあたる江戸時
代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を
代表する一人。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも
著名な画家。森羅万象を描き、生涯に三万点を超える作品を発表し、若い時か
ら意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。北斎の絵師とし
ての地位は「富嶽三十六景」の発表により不動のものとなっただけでなく、風
景画にも新生面を開き、その業績は、浮世絵の巨大な高峰であったが、達者な
描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見いだせる。読本・挿絵芸術の独創性や、
絵本を多数発表。毛筆による形態描出に敏腕を奮う。1999年に、米国の雑誌『
ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」と
して唯一ランクインする。




ファイル:Dream of the fishermans wife hokusai.jpg

天保13年(1842年)秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねる。
この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて北斎を厚遇した。天保
15年(1844年)には、信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで
滞在。『怒涛図』などを描く。嘉永2年4月18日(1849年5月10日)江戸・浅草
聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句
は「人魂で 行く気散じや 夏野原」。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南
牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。

北斎の生きた江戸文化として浮世絵があるが、嘗て中沢新一が「官能か技工か」
と題して文化論を展開した小論文の「半導体製造技術の基礎は版画制作の分業
システムにあった」との問題提起を、この北斎館の精緻な展示品を見せられ、
再確認するとは予想もしていなかった。



高井鴻山記念館にある見事な花水木が印象的で思わずシャッターを切っていた
が町の街路樹としても美しく咲き誇っていた。花桃、菜の花、辛夷、木蓮も美
しく競い咲いていた。昼食には盛りそばと栗おこわを頂き、土産に栗かな子、
ブルーベリーのドライフルーツ、キャラ蕗などを買って帰る。下の写真は横断
歩道をみて、ビートルズの‘アビー・ロード’のレコードジャケットを思い出
し咄嗟に、ふざけてポーズをとって撮したもの。驚きながらも彼女がシャッタ
ーを切ったので上手くいかなかったが町並みの雰囲気がよくわかるのではない
かと思っている。



ドライブの往路のサービスエリアの人だかりはすさまじく、交通渋滞に巻き込
まれることも屡々。帰りの中央自動車道のサービスエリアの駐車場も満車状態。
売店の年配女性の店員にそのことを話すと、嬉しそうに‘きょう一日だけよ’
との返事が帰ってきた。窓の外では花吹雪が舞っていた。



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