極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

蔵入りのローイングマシン

2011年10月16日 | 国内外旅行

 

 

 

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【蔵入りのローイングマシン】

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"ローイング(ボート漕ぎ)"は日本ではマイナーなスポーツとみられている。
欧米諸国では長い歴史があり日常生活に組み込まれ生涯スポーツとして多く
の人々に愛好されているという。国際ボート連盟(FISA)は毎年、世界マス
ターズ・ボート選手権大会を欧米諸国で開催している。ところで、わが国で
も中高年ボート愛好者を対象とした大会(マスターズ・レガッタ)が各地で
開催されるようになってきているという。参加者が増えつつあるという。最
近は、日本ボート協会(JARA)が主催するマスターズ大会が開催されるよう
になり、学生時代にボートを漕いでいたが、長く水辺から遠ざかっていた人
々の参加が増えてきているという。



ところで、レガッタとは原動機のない船を使った、複数の人数によるボート
競技
。通常は漕艇によるボート競技を指すが、帆走やヨット競技もレガッタ
と呼ばれる。また水中翼帆走艇(Sailing hydrofoil)などある種の動力付
き船舶による競争もレガッタの名を冠されることがある。「regatta」とい
う語には競技に伴う周囲の慈善活動や広報活動も含意される。典型的なレガ
ッタは学生や社会人などアマチュアによるボート競技だが、高度に組織化さ
れスケジュールや進行に至るまで厳格にルールを定められた公的な大会もあ
るという。レガッタは港湾の祭典や河川でのイベントなどの際に、余興とし
て、あるいはボート競技のプロモーションとして行われるものもあるという。



ある形式のボートやある地域のクラブ・学校の選手権大会として、ヨットク
ラブ、帆走協会、大学や高校の学生ボート連盟などの主催により行われるこ
ともある。世界的に有名なレガッタには、イギリスのテムズ川で1839年から
毎年行われている漕艇の祭典・ヘンリー・レガッタ(Henley Royal Regatta、
Henley Regatta)がある。また最も古くから続くレガッタとされるものは、
1826年から毎年イングランド南部のワイト島でロイヤル・ヨット・スコード
ロン(王立ヨット艦隊)の主催で一週間にわたり行われるカウズ・ウィーク
(Cowes Week)である。このレースには900以上のヨットが参戦している。

ローイングは、健康の保持のために広く行われている多くの運動と違い持久
力と筋力のトレーニングの両方が組み合わされている。持久的な運動は酸素
摂取能力や乳酸性作業閾値を高め、ランニング・スイミング・サイクリング
などをより速く、より長く行えるような適応を引き起こしす。持久的なトレ
ーニングは筋量や筋力を著しく高めることでない一方で、筋力(レジスタン
ス)トレーニングは筋量と筋力を高
酸素摂取能力つまり持久力を高める
ことでもないといわれる。それでは、ローイングの利点とは、これら2つの
様式のトレー二ングが組み合わせ、老化による持久力と筋力の両機能の低下
を抑制することだ
。ローイングは肥満、2型糖尿病、動脈硬化、そして心筋
梗塞などを予防するなど多くの健康効果があるといわれる。

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クリックすると新しいウィンドウで開きます 樋口 満

 

 



高齢者にとつて、準備体操+ストレッチ体操+ローイングトレーニングは、
ランニングトレーニングより筋力、耐久力をとけようとすれば好ましいと言
う結果になっている。また、動脈硬化の防止力にもなるが、若年層のボート
選手の椎間板変性保有率が高いの要注意しなければならないこともこの本を
読んでわかった。我が家のローイングマシン、腰痛再発でお蔵入りになった
状態にあり、早くリハビリをしなければならないと、少々、あ・せ・る。

 

 

【仮想ローイング 宮ノ越宿】

ファイル:Hiroshige, A family in a misty landscape.jpg


さて、きょうは宮ノ越宿(みやのこしじゅく)。中山道36番目の宿場で、現
在は長野県木曽郡木曽町日義。歌川広重「木曽街道六十九次・宮ノ越」宿場
関連の史跡よりも、木曾義仲関連の史跡が多い。かつては木曽川の水を使っ
た用水が宿場内を流れていた.。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』
によれば、宮ノ越宿の宿内家数は137軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21
軒で宿内人口は585人であったという。木曽大工の故郷らしく、凝った細工
や彫刻「持ち送り」をほどこした家が往時をしのばせまるという(木曽福島
より10分)。

ここにある、義仲館資料館は、2歳の頃に木曽に逃れてきた義仲(駒王丸)
が中原兼遠の養育を受け、後に元服し木曽次郎 源義仲を名乗る。1180年に
後白河法皇より平家追討の命を受け、木曽の地で旗挙 げを行い、その後北
陸に進撃し、入京を果たし、征夷大将軍に任ぜられた。しかし、後白河法皇
の策略によって鎌倉軍に敗れ、粟津ヶ原(あわつがはら)で討死。31歳 の
短い生涯であったが、短くとも壮絶な生涯を、絵画や人形を使いわかりやす
く解説している。



日本橋が遠い、本当に。ネバーギブアップだが。えぇえい~ままよ。ジム
で気分転換だ。それにしても、暑いなぁ~この秋晴れは。

                              

 

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