<ジュディは生まれ育ったカリフォルニアの街に強い愛着を持っており、一度、“ふるさとの記憶”というものについて話してくれた。それを持っているのが人間だったか、ふるさとの土地のほうだったか定かではないが、とにかく簡単にいうと、人は家族とともに育った土地が一番居心地がよくて、やがてそれを自分のものにするということだった。人間や土地がどんなに変化しようと、そこがいちばん居心地がいい。そこに立っていること。その場にいること。・・・・・メアリーはひとり微笑んだ。家に帰る。ふるさとは、ジュディが描写するような岩がごつごつとした山だったり、涼しい森林だったりしなくてもいい。コンクリートの場所でもいいだろう。汚れて、砂じみた、つまらない、ごちゃごちゃとした、ガムが吐き捨ててあるサウス・フィラデルフィア。そこで遊び、笑い、学校に通って幼年期を過ごしたのなら、街中の一区画だってふるさとになりうる。ほかの人々と同様に、ふるさとの記憶を持つ権利がある。>
リザ・スコットライン高山祥子訳「代理弁護」P127~128より
最後の<ふるさとの記憶を持つ権利がある>には、ちょっと大げさすぎる感じです。ふるさとはだれでも終生持っているものである、と〆る方が自然なような気がしました。
遊び、笑ったりべそをかいたり、学校に通っていた幼年期を、小学生までに、過ごした土地はどうでした?自分には、ふるさとが ABCDEF の六つもある…
多いということは、きっと人より多くの記憶を持っているということでしょうか。でも、持っている記憶写真の数は、ふるさとが一つの方と比べ、容量や時間の関係で、あまり変わらないような気もします。
ふるさとの記憶は、自然発生的で、皆が持つ資産と言えるでしょうね。ふるさとの記憶は権利、自分の証、ともいえるのかな ー スコットラインさんのい方でよかったのかな ー
ふるさとの記憶は、マイナンバーより大切なものかもしれませんね・・・
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