函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

我が国は健全なのか

2021年06月16日 20時25分16秒 | えいこう語る

▼コロナ禍での五輪開催。医療関係者は総じて反対のようだ。そんな我が国は、健全な国家と呼べるのだろうか。古代ローマの風刺詩人・ユウェナリスは【健全な精神は健全なる身体に宿る】と言った。

▼この言葉は、中学時代に覚えたように気がする。当時故郷の海や山や川で、一日中遊び周り身体を鍛えていた時代だったので、その言葉は生活の中で十分理解できた。

▼武闘家で思想家でもある内田樹は【集団が存続するためには、相反する力が均等に働かなければならない。「多様化し離散する力」と「斉一化し統合する力」この二つが拮抗している時、集団は健全な状態にある。でも「集団の健全」は「政治的正しさ」をものさしにしては衡量できない。現実にその集団の成員たちが生き生きとしていて、知性も感性も霊性も活発に機能している状態が実現しているなら「健全である」と言える】。

▼開催をまじかに控えた五輪選手たちは、生き生きしているだろうか。健全な精神が健全な身体に宿ることの準備はできているだろうか。

▼そして我が国政だ。五輪直前に内閣不信任案が提出され、数の力で却下する。さらにその同日“戦争準備法案”?ともみなされる【重要土地規制法】が成立した。

▼野党も野党だが、与党も与党だ。【不健全なる政府は不健全な与野党にある】と言い換えてもいいようだ。

▼五輪は誰のために、何のために開催するのか。もはや国民も選手たちも健全ではない精神で、当日を迎えようとしているのではないか。

▼聖火リレーはどうなっているのか。ボランティアは確保できているのか。開催時のイベントは大丈夫なのか。

▼「五輪が待ち遠しい」などと言う感情は、国民の中から消え失せているのではないだろうか
。五輪の側面にある【国威発揚】など、すっかり色あせてしまっているのではないか。

▼開催中に選手たちに陽性者が出たら、五輪は中止となるのだろうか。五輪開催の諸条件が整わないまま突き進むのは、満州事変や太平洋戦争に突入した時代の雰囲気に、似ているのではないか。

▼そんな騒動の中での、安全保障上重要とみなす施設周辺の土地利用を規制する「重要土地規制法」の成立だ。

▼与党幹部からは「これ以上野党に譲ることは避けたい。強行しても世論の関心は高くなく批判は少ない」との発言も出る。スガ政権は、野党ばかりではなく国民をも無視しだしたのだ。

▼史上二度目の東京五輪。コロナ戦争勃発を好機とし、一党独裁体制を敷き【憲法改正】へとまっしぐらに進んでいるのではないだろうか。

▼私は完全に不健全な国民の一人になってしまったようだ。そこで、今日は内田樹の思想に頼り、ちょっぴり不健全さを修正してみたい。

▼【倫理の「倫」は「同胞」、「ともがら」ということだ。倫理とは人間が集団として生きるための「理法」のことだ。「単一」の原理に従って、全員が同じ顔つきで、同じ口調で、同じ言葉を話すという状態が「倫理的」の定義ではない。全員が同一の「正しさ」で統制された個体識別できない集団は、そうでない集団よりも生き延びるチャンスは少ない。集団が生き延びるチャンスを減殺するようなものは、その定義自身によって『倫理的ではない』ということになる】。

▼ということであれば、国民や野党をないがしろにする自民党は、倫理に欠け不健全な集団でしかないと私は理解する。

▼だが内田はこう続ける。【「なんだか意味が分からない事態」にぼくたちは頻繁に遭遇する。「どうしていいのか分からない」状態に放り込まれる。どうしていいか分からないけれど、とにかく自分で決めるしかない。その時の基準は一つだけだ。それを選択することによって、生き延びるチャンスが高まるかどうかだ】と。

▼ということで、少しは理解できたような気がするが、内田はこうも続ける。

▼【「正しいことと間違ったことの差が叡智的に区別できる能力」と「生き延びる確立とそうでない選択肢の差が直感的にわかる能力」は別のものだ。そしてどちらも人間集団にとっては必要だと主張する。

▼「コロナ戦争」と「五輪」と「憲法改正」は、一帯のラインではないかと、私は確信したい。自民党草案の9条改正では、我が国は集団として生き延びれないような気がするからだ。

      一本道が歩きやすい
              三等下。