函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

言葉の用い方

2017年03月21日 10時27分03秒 | えいこう語る
▼もはや我が国は、森友学園と豊洲問題で、翻弄されているようだ。しかしこの事件、あらためて日本民族とはどのような民族かを考えさせられる問題のように思う。これらの報道で、普段聞きなれない「忖度」という言葉が出てきた。相手の心中をおしはかるという意味だが、相手を思いやるというのであれば、日本語の中でもっとも日本人らしい言葉ではないか。だが、公平中立な役人が、自分の地位を利用し便宜を図るためのものとして、この言葉が世間を賑わしている。
▼だが「忖度」は、一般的に使われていないので、理解しにくいということもあってか「おもんぱかる」という言葉が使われてきた。普段私は「おもんばかる」と言っていたので、濁音がつくのは田舎臭い言い方かと思い広辞苑を開いたら、どちらでもいいとあったので安堵した。これらの言葉の意味、自分のことばかりではなく他人のことも考えるという、日本人の美徳に属するものと思っていたが、悪いことに手を貸すという意味に取られ、今後は、このイメージが植えつけられ、そのようにしか使われないのではないかと心配する。
▼この二つの問題で、総理と知事の心中には「自分を疑うのはおかしいのではないか」という、考えを持っているのが、答弁の端々に感じられる。巨大な権力を持てば、謙虚さを失ってしまうのが人間の特性なのだろう。その先に見えるものは「自国の優位性」で「他国への配慮のなさ」だ。そして「寛容」が為政者の辞書から消えた時、戦争という言葉が台頭してくるに違いない。「アメリカン・ファースト」という言葉を笑っていれない状況に、我が国も差し掛かってきているのではないかと考える、森友学園と豊洲問題だ。
▼さて話題は大きく変わるが、いまだ病弱の身の私だが、春らしい日差しに誘われて、庭に出てみた。木陰に雪は残っているが、黄金色に輝く福寿草が花を咲かせ、春の訪れを告げている。雪が融けたところには、おびただしい鹿のフンが散らばっていた。植木は食べられた跡はないので、我が庭が気に入り遊びに来ていると思えば、なんだかうれしい気もする。鹿のフンは、ビー玉のように丸いので、弾丸が散らばっているようで、戦場を想像したりする。そうなるとPKOの派遣問題を連想するので、鹿のかわいい目だけを想像することにする。
▼鹿と福寿草。「鹿と花」。「しかばな」という、葬儀に使用される花を連想する。ふと、私の手術が、万が一失敗していたら「しかばな」が飾られたのだと思う。家に戻り「しかばな」は「死花」と書くのかと広辞苑を開いたら「死花花=かみばな」とあった。花が二つも重なり、葬儀にふさわしい漢字だと思う。昨今の葬儀には生花が使われるが、戦後、等しく貧乏だった時代、紙で作ったものを使用していた。それを作っていたおじさんも、墓石を作っていたおじさんも、私の村には居た。葬儀にはたくさんの人が集まり、火葬場への長い行列があった。
▼もう、私の記憶の中では、遠い昔のかすかな残像に過ぎないが、それでも、正しい記憶だ。ちょっとした前の出来事でも「記憶にないと」いうが、記憶にないのではなく、思い出さないほうが自分にとって都合のいいことだからだ。日本民族の良さが、言葉から薄れていくようで、輝く春なのに、なんだかちょっぴり寂しい気もする。

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