Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

スイスのInstitute Le Rosey-1(80年代米国とイスラエルからイランに武器供与・武器商人アドナン・カショギ)

2024年04月17日 | 国際・政治

イスラエルとイラン、戦力差は 本格衝突なら中東全体に影響出る恐れ(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

イランが14日、自国の大使館が空爆されたことをめぐり、イスラエルに対してミサイルやドローン(無人機)による報復攻撃に踏み切った。イスラエルでは報復攻撃を求める声も上がっている。もし両国が直接事を構えた場合、中東にはどのような影響があるのか。

いずれも中東の軍事大国であるイランとイスラエルが本格的に軍事衝突することになれば、地域全体への影響は避けられない。  両国の戦力で際立つのは空軍力の差だ。英国際戦略研究所(IISS)の年次報告書「ミリタリー・バランス2024」によると、イスラエルの作戦機は340機、イランは265機。ただ、最新鋭のステルス戦闘機F35などを保有するイスラエルに対し、イランの戦闘機は1979年に革命で倒された王制の時代に購入した年代物も多い。

 イランはその後、経済制裁を受けて航空機の輸入も難しかった。近代的な空軍力の不足を補おうと、イランが集中投資したのがミサイル開発だった。現在、イスラエルを射程に収める弾道ミサイルや巡航ミサイルを含む数千発を保有しているとされ、抑止力の柱としている。

 

米国とイスラエルは80年代半ばに、イランに武器を売っていました。

イラン・コントラ事件 - Wikipedia

イラン・コントラ事件(イラン・コントラじけん、Iran-Contra Affair)は、アメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権が、レバノンでシーア派テロリスト集団に捕らえられているアメリカ人の解放を目的としてイランと裏取引をした上に、アメリカ国家安全保障会議から同国へ武器を売却し、さらにその代金をニカラグアの反共右派ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚するや、アメリカ国内のみならず世界を巻き込む政治的スキャンダルに発展した。イランゲート(Irangate)といわれた。

イランとの裏取引

イランアメリカ大使館人質事件
1985年8月に、アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった[注釈 1]。

人質を救出する為、共和党のロナルド・レーガン政権率いるアメリカ政府は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦っていたものの劣勢であったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束した。この様な状況下でのイランへの武器の輸出の提案は、ヒズボラおよび西欧諸国での爆弾テロを支援したグループに対する影響力を持つイランの歓心を買った。

しかし当時のアメリカは、イラン革命後の1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件によりイランとの国交を断絶しており、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていた上に、政治家や官僚、軍人による同国政府との公式な交渉も禁じられていた。さらにイランの敵国であるイラクとアメリカは国交があり、このことが明るみに出た場合アメリカとイラクとの外交上の問題となることは必至であった。

(中略)

この頃のイスラエルは、アメリカによる極秘裏の支援が開始される以前からイランを支援し、武器を密輸出していた。イラン革命の直後にイラクに攻撃されたイランは、国際的には敗北必至と判断され、実際に戦死者はイラクをはるかに上回っていた。

革命後のイランは「反イスラエル・反シオニズム」が国是であったが、戦争敗北の恐れから、イスラエルからの武器援助を快諾した。戦争時、イランの武器輸入総額は半分がイスラエルからのものであった。そのイスラエルが販売する武器は、友好国であるアメリカや西欧諸国の軍が使用する数多の最新兵器であった。

アメリカ政府はこれに目をつけ、人質解放のために、身代金としてアメリカの武器をイランへ輸出するように要請した。これは、イランとの武器貿易を公式にしたいイスラエルにとって望むところであり、アメリカはイスラエルによるイランへの武器輸出を承認し、密貿易は公式な間接貿易となった。これによって人質の一部が解放されたが、その頃からイスラエルはアメリカの代理人としてイランへ武器を輸出することを渋るようになった。そのため、アメリカ政府は直接、イランに対して武器を密輸出するようになったが、これが発覚してスキャンダルになってしまった。

(後略)

 

さて、イランについて調べていて、パーレビ国王のことを調べていたときに、スイスの寄宿学校「ル・ロゼ」に彼が留学していたことに気が付きました。

モハンマド・レザー・パフラヴィー - Wikipedia

抜粋:

上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校「ル・ロゼ」へ留学した。なお、同校においてはその後アメリカのCIA長官となるリチャード・ヘルムズら同級生からの信頼も厚く、多くの友人を作った

ル・ロゼ - Wikipedia

Institut Le Rosey - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ロールにあるル・ロゼのメインキャンパスにある封建制の城であるシャトー・デュ・ロゼは中世にまで遡り、学校の中央受付エリアが置かれている[15]。

1880 年、ル ロゼのキャンパスの場所は、「自然、歴史、田舎を愛する」学校の創設者ポール エミール カルナルによって選ばれました。 ロールにある学校のキャンパスは、有名なレマン湖に隣接しています。 1911 年、創設者はル ロゼの所有権を息子のアンリ ポール カルナルに譲渡しました。 1917年、学校はレマン湖に立ち込める濃霧から逃れるため、冬の間、ドイツ語圏ベルン州のグシュタードに通い始めた[16]。

1931 年、元国際赤十字会員でグランド ランシー城学校の元校長であるルシアン ブルネルが、アンリ カルナル氏の要望により、1949 年までロージーの指揮を引き継ぎました。 ディレクターのルイ・ジョアノートとヘレン・シャウブの世代がル・ロゼの所有権を引き継ぎました。 同じ所有権の下、ル ロゼは 1967 年に初めて女子を入学させ、別の女子キャンパスを開設しました。

1980 年に、現在のオーナーであるフィリップ・グダン・ド・ラ・サブロニエールとアンヌ・グダン・ドゥ・ラ・サブロニエール夫妻がル・ロゼの 4 代目ディレクターに就任しました。 ルイ・ジョハノートは1965年のライフ・マガジンのインタビューで、「私がいつも親に会って、親たちをもっとよく知ろうと努めている唯一の理由は、そうすることで子供たちを許すことができるからです。」とコメントし、かなりの注目を集めた[17]。

1つの国から来る学生は全体の10%以下であるという10%枠が導入される前は、ル・ロゼではさまざまな国籍の学生が大部分を占めていました。 1950 年代と 1960 年代には、学生の大半はアメリカ人、イタリア人、またはギリシャ人でした。 1970年代には大半がアラブ人かイラン人だった。 1980年代には大半が日本人か韓国人だった。 そして1990年代には大多数がロシア人であった[18]。


この学校で学んだ人の中には、武器商人のアドナン・カショギがいました。(ダイアナ妃の恋人だったドディ・アルファイドはアドナンの甥であり、彼もまたこの学校で学んでいました。)

アドナン・カショギ - Wikipedia

Adnan Khashoggi - Wikipedia


参考:

List of alumni of Institut Le Rosey - Wikipedia

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イランの動画・イランでもよ... | トップ | スイスのInstitute Le Rosey... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

国際・政治」カテゴリの最新記事