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明知鉄道タイムトラベル

2021年11月23日 22時22分47秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
先週末の連休を利用して岐阜県の明知鉄道に乗って来ました。土曜日早朝に大阪を立ち、明和鉄道乗換駅の恵那には午前9時過ぎに着いたのですが、沿線の花白温泉がボイラー故障であいにく休業中。沿線には他に銭湯はなし。明智や岩村の街中にはあるだろうと思っていたが甘かった。後は1日数本のバスを乗り継いで山を越えた先に温泉が1軒あるのみ。そこで恵那峡近くの宿に日帰り入浴で立ち寄っていた為に、恵那駅に戻ったらもう昼過ぎになっていました。
 
昼食はコンビニのお握りとお茶で済ませ、食堂車が併設された大正ロマン号に飛び乗り、終点の明智まで向かいました。今の時期、食堂車ではキノコ料理が振る舞われていました。でも、松茸のフルコースならいざ知らず、普通の田舎料理しか出ない食堂車に乗るだけで、何故5500円も払わなければならないのか?私は食堂車は予約せず、千円の1日フリー切符で乗車しました。食堂を利用しない乗客は最後尾の普通車にしか乗車出来ません。
 
 
上記は明智駅構内に停車中の列車です。将来的にはSL(蒸気機関車)の動態保存も検討中だそうです。
 
終点の明智は製糸業で栄えた町です。近代化の波がいち早く及び、町中には洋風建築の建物が立ち並びました。それを保存して「日本大正村」として宣伝しています。明智では大正浪漫亭でコーヒーとパイのセットを注文し、漫画「鬼滅の刃」最終巻を流し読みした後、大正路地から大正村役場(旧明智町役場)、大正ロマン館(村にゆかりのある女優・高峰三枝子や力士の春日野部屋の遺品展示)、大正村資料館(大正時代の銀行蔵を改装)、大正時代館(大正時代の歴史・生活展示)を巡りました。
 
大正浪漫亭(左上)、浪漫亭の中の漫画コーナー(右上)
 
大正村役場(左上)、大正ロマン館(右上)
 
大正歴史資料館(左上)、大正時代館(右上)
 
漫画「鬼滅の刃」大ヒットの影響で、大正時代に世間の関心が集まっています。しかし、大半の人は「きらびやかなレトロモダンな服装がはやった時代」ぐらいのイメージしか持っていないのではないでしょうか。実は大正時代は、時代館の次の年表にもあるように、大きな歴史の転換期でした。(年号の元号は全て西暦に換算。…以下は年号記載の出来事に対する私のコメントです)
 
・第一次世界大戦勃発(1914年)…一国の紛争が最悪、世界戦争になる時代に。反戦世論も空前の広まりを見せるようになる。
・ロシアで社会主義革命(1917年)…8時間労働制や植民地の民族独立運動が広まるきっかけに。但しロシアでは共産党独裁に徐々に移行。
・スペイン風邪が大流行、死者2500万人(1918~19年)…今のコロナ大流行の先駆け。パンデミック(感染爆発)の教訓から何を学ぶか。
・関東大震災発生、死者・不明10万人以上(1923年)…今の阪神淡路大震災や東日本大震災にも多大な教訓残す。
・全国で米騒動、焼き打ち相次ぐ(1918年)…当時の新聞は当局の報道管制に逆らっても米騒動の事実を伝えるだけの気概をまだ持っていた。果たして今の新聞・テレビにそんな気概があるか?
・初の本格政党内閣の原敬内閣誕生・原首相暗殺(1919-21年)
・大正政変、民衆が軍閥政治倒す(1913年)
・普通選挙法と治安維持法の同時成立(1925年)
・吉野作造が「民本主義」を提唱、大正デモクラシーの理論的支柱(1916年)
…要するに、今まで財閥や軍閥に抑えられていた民衆が、次第に歴史の表舞台に登場してきた時代だったのです。
翻って現代はどうか?安倍や菅が公文書改ざんしてもお咎めなし。選挙の投票率も5割台の低空飛行。折角勝ち取った権利を再び手放すのか?今や安倍・麻生などの世襲議員が政界を跋扈。民衆が閥族政治を倒した大正時代の方が、まだよっぽどまともじゃないか。
 
明智の日本大正村を見学した後は、その日泊まる予定の岩村に移動しました。岩村は古くからの城下町で、町並みも当時のまま保存されています。そのせいか、町の雰囲気もしっとりと落ち着きがあり、ハイカラな明智とはまた違った印象を受けました。岩村に着いたらすっかり日が暮れて、商店街もほとんどの店がしまっていました。その中でまだ開いている喫茶店を見つけ、夕食を注文しました。その喫茶店は純喫茶で、食事のメニューはありませんでしたが、ママがメニューには無い桜えび入りの焼き飯を作ってくれました。その素朴な味に魅了され、帰ってからも自分で作るようになりました。
 
岩村で泊ったのはゲストハウスです。本当はもう少しまともなホテルに泊まりたかったのですが、どこも満室で、もうそこしか空いていませんでした。ゲストハウスなので素泊まりのみです。バスもシャワーだけです。しかも、私が泊ったのは、その中でも最低ランクの一泊3千円の部屋だったので、エアコンもなく、電気ストーブで暖を取りました。岩村は標高500メートルの盆地にあるので、夜は結構寒かったです。
 
喫茶店で食べた桜えび炒飯(左上)、ゲストハウスの寝床(右上)
 
 
岩村城下町の町並み(左上)、岩村歴史資料館横の紅葉(右上)
 
翌日・日曜日の午前中は、町はずれの岩村城跡に上りました。岩村城は日本でも有数の山城で、標高717メートルの高地にあります。戦国時代のお城なので、守りを固める為に、山頂にお城を築いたのです。お城の建物は戦で全て焼けてしまい、今は城跡の石垣だけが残っています。
 
岩村城はまた、「おつや」という女性が城主をしていた事でも有名です。この「おつや」ですが、元々は遠山景任(かげとう)という人の嫁でした、ところが、景任が先に病気で亡くなってしまったので、未亡人の城主として城を治めていました。そして、織田信長の五男で、まだ5歳だった御坊丸を養子にもらったりしていました。
 
そこに隣の信州を支配していた武田信玄配下の秋山虎繁が攻めて来ました(1572年)。おつやは信長の支援を頼りに籠城作戦に出ました。ところが、信長はその当時、長島一揆の鎮圧に手間取り、岩村城に援軍を派遣出来ませんでした。籠城は3ヶ月に及び、城内の食糧も次第に底を尽きかけて来ました。これ以上の犠牲は忍びないと、おつやは虎繁と結婚する事を条件に、無血開城する事にしました。
 
おつやは虎繁の妻になってからも、善政を敷き、領内の人々から慕われました。しかし、長篠の戦で織田信長が武田勝頼を打ち破り、形勢は逆転します(1575年)。織田信長は岩村城にも攻めて来ました。信長もおつや・虎繁に無血開城を迫ります。おつやは、虎繁と自分の命を助けてくれる事を条件に、無血開城を受け入れます。ところが、信長は助命の約束を反故にしてしまい、おつや・虎繁を逆さ磔(はりつけ)の刑にして殺してしまいました。これが、岩村城の女城主「おつや」の悲劇です。
 
私は、麓の岩村歴史資料館を訪ねた後、岩村城跡を目指しました。朝が寒かった事もあり、秋の軽装で標高700メートル以上もの高所にある城跡に登れるのか不安でしたが、急坂を登るうちに身体が温まって来ました。当日は地元でスタンプラリー開催中なのか、ゼッケンを付けた老若男女が大勢登っていました。
 
城跡入口の急な上り坂(左上)、城内の井戸の一つ「霧ヶ井」。岩村城の別名「霧が城」の基になった。(右上)
 
城跡の石垣。六段壁(左上)と長局埋門(ながつぼねうずみもん)跡(右上)
 
山頂の城跡碑(左上)、そこから岩村の城下町を望む(右上)
 
そして岩村の市街地に戻り、朝モーニングを食べた喫茶店で昼食を食べた後、岩村駅で列車交換の様子を撮影。その後、駅で電動自転車を借りて、レンタサイクルで花白温泉と山岡の駅も撮影して来ました。1時間に1本しかないダイヤで列車撮影していたのでは、満足な写真撮影は出来ませんから。お陰で効率良く撮影出来ました。
 
山岡駅では併設の寒天レストラン兼資料館で地元の寒天製造の歴史を学び、寒天ラーメンを購入しました。海で採った寒天を何故、山間の山岡までわざわざ運んで寒天にするのか?山岡の寒くて乾燥した気候が、心太(ところてん)を凍らせ乾燥させ寒天にするのに丁度良いからです。寒天ラーメンもヘルシーで腹持ちが良いと聞いたので、醤油味と豚骨味のラーメンを土産に買いました。
 
岩村駅の駅名標・おつや人形・鉄じい(明知鉄道のゆるキャラ)(左上)、岩村駅での列車交換風景(右上)
 
花白温泉駅と駅前の温泉施設
 
寒天ラーメン(左上)、山岡駅と併設の寒天レストラン兼資料館(右上)
 
ところで、明智の地名は明智光秀の生誕の地と伝えられるからですが(他にも生誕地とされる場所は幾つかある)、それが何故、旧町名は明智ではなく明知になったのか?まだ調べ切れていませんが、私が思うに、時の権力者から、光秀と関係があると思われるのを嫌ったからではないか?
 
明智光秀は後に本能寺の変で織田信長を殺しています。その為に、日本人の間では謀反人のイメージがこびり付いてしまっています。実際は、織田信長の方が、比叡山延暦寺の焼き討ちで僧侶を大量殺戮する等、もっと酷い事しているのに。
 
ところが、日本人の間では、その後の権力者の印象操作によって、謀反人=無条件で悪人のイメージが広められてしまいました。その為に、わざわざ町村名を明智から明知に変えたのかも知れません。
 
ウィキペディアで調べたら、明治の市町村制施行で誕生したのは明知町で、それが戦後に明智町に改名されていました。その後、恵那市に吸収合併されて現在に至ります。明知鉄道だけが戦前の名称を引きずっているのです。
 
以上、土日と明知鉄道に乗って、大正時代(明智大正村)と戦国時代(岩村城下町)をタイムトラベル(時間旅行)で追体験して来ましたが、2日間とも盛況でした。
 
まず観光列車の大正ロマン号に関して言えば、土曜日は前2両の食堂車が満席、後1両の普通車も半分ぐらい席が埋まっていました。
 
日曜日は更に混雑していて、前3両の食堂車が満席の上、後1両の普通車もすし詰めの状態でした。それ以外の車両も、1両編成が基本ですが、私が見た限りでは半分ぐらいの座席が埋まっていました。
 
とても旧国鉄から切り捨てられ、県や地元市町村が経営を肩代わりする事で、ようやく経営を維持している第三セクター鉄道とは思えない盛況ぶりです。
 
しかし数字は冷酷です。地元市町村の下記データを見ると、第三セクターに転換してからも、ずっと利用客数の落ち込みが続いています。1986(昭和61)年には年間89万人の利用客があったのが、2017(平成29)年には38万人にまで減っています。如何に平日の利用が少ないか分かると思います。特に近年は通学定期利用客の落ち込みが目立っています。
 
 
通学定期利用の落ち込みは、少子高齢化の進展によるものです。こんなもの明和鉄道の経営改善努力だけでどうにかなるものではないでしょう。正社員を非正規雇用に置き換え、社会保障費や消費税もどんどん値上げし、結婚・出産も出来ない低賃金・長時間労働の拡大に、政府が有効な対策を打てずに来たからこうなったのです。はっきり言って、これは政府の責任です。
 
その中でも、2006(平成18)年以降は利用客数の下げ止まりが見られ、年によっては微増に転じたりしています。これは、大正ロマン号の運行が始まり、食堂車を使用する人が増えたからだと思われます。政府がデフレに有効な手を打てない中でも、鉄道会社の努力と地域住民の支えによって、実際に雇用を生み出し、住民生活の向上が図られているのです。
 
明和鉄道で名古屋に出るには、一旦恵那に出て中央本線に乗り換えなければなりません。それなら、岩村や明知から国道を西に下って名古屋に向かう方がはるかに便利です。明和鉄道自体も、山間地を縫う為に、急カーブや急勾配の連続で、列車のスピードアップもままなりません。
 
しかし、だからと言って、鉄道を廃止してしまったら一体どうなりますか?明和鉄道のディーゼルカー保有台数は計6台。内訳は定員94名のアケチ10系が4台、定員119名のアケチ100系が2台。駅のホームには4両まで停車できるスペースがありますから、94×2+119×2=最大426名まで一度に輸送する事が出来ます。これをもし廃止してしまったら、一体何台のバスが必要になるでしょうか。
 
最近は異常気象の頻発で、地球温暖化の危機が叫ばれています。サステナブル(持続可能)な社会を作り上げる為にも、地域の活性化の為にも、鉄道は欠かせない存在です。目先の利益だけで、明和鉄道が廃止されてしまわない事を切に願います。

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