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親子破産で家族崩壊の瀬戸際にあるのは私だ!

2016年06月05日 23時04分10秒 | 当ブログと私の生い立ち


 上記の「親子破産」特集記事は週刊SPA!6月7日号に掲載されています。社内不倫や熟女グラビアなどの三面記事が紙面の大半を占める雑誌の中で、この記事だけが妙に浮いていて、だからこそ余計に目を引いたのでしょうか。そのキャッチコピーに惹かれ、先日思わず衝動買いしてしまいました。

 そこでは、「親子破産」に陥る典型的な二つのケースが紹介されていました。一つは「高齢の親にすがらないと生きていけない」ケース。若い時にうつ病を患い引きこもりになった息子が、そのまま中高年になり、無職のまま高齢の親の年金だけを頼りに生きているというパターンです。もう一つは「ギリギリの生活でも高齢の親を支えないといけない」ケース。正社員をリストラされ非正規雇用になった中高年の息子が、自分一人が食っていくだけでもカツカツなのに、その上さらに高齢の親の面倒まで見なければならなくなり、介護離職で共倒れになってしまうパターンです。
 特に後者のケースなぞ、まるで私の行く末を暗示しているかのようです。その中では、親と同居する壮年未婚者が年々増加し(2000年の約150万人から2014年には倍の300万人に)、その壮年未婚者の失業率が同年代の中でも特筆して高い(世代平均4%に対し8~13%)事についても触れられています。同居未婚者の増加が、単なる偶然の産物ではなく、少子高齢化や正社員リストラへと向かう流れの中で、起こるべくして起こってきた現象である事が、資料からもはっきり読みとれます。

 私、この記事を読んで、思わず上記のようにつぶやいてしまいました。そうしたら、他にも同じような思いの人が大勢おられる事が分かりました。それは、わずか数日のうちに、上記のつぶやきにリツイート(回転矢印の数)が100以上、イイネ(ハートマークの数)が50以上も付いた事からも明らかです。私は決して一人で孤立していた訳はなかったのです。それが分かっただけでも収穫でした。



 その後、記事は具体的な事例紹介に入っていきます。まず最初に出て来るのが、上記のツイート(つぶやき)にある母子相互依存のパターン。郊外の一軒家で82歳の高齢母と暮らす48歳の引きこもりの息子。2ヶ月に一度入る20万円の障害者年金と約4万円の母親の年金だけに頼って生活しています。息子は4畳半のリビングにパソコンを持ち込んで、そこで一日の大半を過ごします。その息子の世話を焼いている母親も、いつ倒れてもおかしくありません。
 でも、その母親は、息子の自立を望みつつも、その反面「息子を養えるのは私しかいない」と、まるで「息子の世話を焼くのが唯一の生きがい」みたいな感じで、息子の自立を逆に邪魔しているかのように、息子の前に立ちはだかっています。父親は十数年前に蒸発し、近所の嫁いだ姉も経済的に苦しくて母親の面倒を見る事が出来ません。母親は、その寂しさを紛らわす為に、息子を溺愛してしまっているのでしょうか。その事で、息子のうつ病をさらに悪化させてしまっている事にも気付かず。

 そのような親子依存、親子共倒れの状況に陥らないようにする為に、敢えて実家に帰らず都内で単身生活を営む男性のケースが次に出て来ます。その男性も、ブラック企業でうつ病を発症してしまい、現在は会社を退職して、傷病手当金だけでどうにか生活しています。
 その男性は言います。「自分一人が生きていくだけで精一杯なのに、下手に親父と同居でもしようものなら、高齢の親父に自分の世話をさせる事にもなりかねない」と。そして、「自分の事だけで精一杯なのに、高齢の親父の面倒まで見切れない。本音では、親父には早くポックリ逝ってほしいと願っている」とも。この男性の言い分は、一見すると我がままで、言っている事が正反対のように聞こえます。しかし、前者の「親父に迷惑かけたくない」という言い分も、後者の「親父には早く逝ってほしい」という言い分も、全ては「自分の事で精一杯」という所から来ているのです。
 しかし、この男性が「自分の事で精一杯」な状況に陥ったのは、この男性だけに責任があるのでしょうか?この男性をボロ雑巾のように使い捨てにした会社や、そんなブラック企業を野放しにし、公営住宅も満足に作らず、民間住宅の高い家賃や劣悪なゼロゼロ物件・脱法ハウスを野放しにして来た政府・自治体には、責任は一切ないのでしょうか?

 この親子依存の母子と親の介護を見捨てた男性の、二つの事例は、私にとっても決して他人事ではありません。前者の「親子依存」は、うちの職場のT君の場合とよく似ています。後者の「親を見捨てる」云々も、そのまま「毒親からの独立」を目指す私の場合によく似ています。違う所は、T君も私も今はまだうつ病を患っていない点と、そこまでは経済的に困窮していない点だけです。しかし、今のような状態が今後もずっと続くと、私もいつ、このようなケースに陥るか分かりません。



 その一方で、自分自身も生活が苦しい中でも、高齢の親の面倒を見ようとする中高年の息子の事例が次に紹介されます。でも、それらの事例も、これまでに勝るとも劣らないほど悲惨な結末が待っているような気がしてなりません。
 親父と急に連絡が取れなくなって実家に様子を見に行ったら、そこには認知症を発症し倒れて衰弱した親父が。何とか一命は取り止めたものの、要介護の父親を一人には出来ず、SEの仕事を辞めて実家で介護に。その中で、一足先に入院していた祖母が亡くなり、祖母の葬儀費用や実家の名義変更料が息子の肩に。年金暮らしの父親にはそんな費用を払う余裕はなく、息子が知人に借金してようやく工面。親戚とも遺産相続で揉めて、実家以外は何も手元に残らず。そうこうしているうちに、父親の容体がさらに悪化し、とうとう施設に預けるように。そのお陰で、ようやく求職活動を再開できるようになったが、離職期間が長かった為に再就職もままならず。これで父親が亡くなっても、もうこれ以上、葬儀代や実家の名義変更料に回せるお金もなく、もはや家を手放す以外にはなく。これも、同じ職場のS君のケースと非常によく似ています。

 この他にも、介護虐待やアルコール依存症、介護離職で地方にUターンしてみたものの、ようやくありついた職は最低賃金ギリギリの低収入。介護でクタクタに疲れても、施設に入所させるには最低でも月20万円も払わなければならず。もはや、そんな金はどこにも無し・・・。そんな事例が一杯、記事に出て来ます。

 なぜ、こんな事になってしまったのか?記事は最後に、次のような結論で締めくくっています。いわく、

―日本の社会保障は「昔ながらの助け合う家族」を前提にした制度になっているが、もはや、そんな家族像自体が時代遅れになりつつある。
 例えば、今まで生活保護を受給していた親が、実家に舞い戻って来た非正規雇用の息子と同居を始めた途端に、一時的に世帯収入が増えたとみなされて、保護支給を止められたりしている。この例なぞ、家族が逆に「足かせ」となっているのだ。
 なのに、政府は社会保障費を削る事しか頭になく、「まずは家族で何とかしてくれ」と、「自助」優先の姿勢を崩そうとはしない。
 しかし、今や総人口の4分の1が高齢者となりつつあるのに、家族だけではどうする事も出来なくなっている。今後は、家族任せにするだけでなく、社会全体で高齢者を支える仕組みに変えていかなければならない。

―それと同時に、国民の方でも、「家族との向き合い方」を変える必要がある。親子破産や共倒れを防ぐ為にも、世帯分離をして、中高年の息子は何とか自分で生計を立てながら、高齢の親については「公的福祉制度のお世話になるのがむしろ自然なのだ」というように、国民の意識を変えていく必要がある。
 その中では、「これからは家族と言えども他人と同じように扱わざるを得ない」「どこかで見捨てるという覚悟も必要になる」かも知れない。この物言いは一見残酷なようだが、もはやそこまでしないと、「家族の絆」だけに頼っていては、救われる者も救われなくなる。
 その為には、介護で苦しんでいる当事者自身が、「家族だけで何とかするのはもう無理だ」と、思い切って声を上げていくべきだ。でないと、今の中高年の息子が高齢の親と同じ歳になった時に、本当に目も当てられない状況になる。

 数年前にベストセラーになった「下流老人」の著者でNPO法人「ほっとプラス」代表の藤田孝典氏や、「派遣労働で搾取されるぐらいなら、むしろ戦争でも始まって世の中がひっくり返った方が良い」(「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。)と言って数年前に物議をかもしたフリーライターの赤木智弘氏などが、記事の中で上記のような事を仰っていました。
 本来なら、介護保険制度も、「家族の絆だけでは、もはやどうにもならない」から始まったのに、政府はいまだに「まずは家族で何とかしろ」という姿勢に固執し、「財源がない」という口実で給付金を出し渋るばかり。その為に、保険料ばかり取られ、いざという時には全然使えない制度になってしまっています。そのくせ、オリンピックやリニア、カジノなどの無駄な公共事業や、法人税減税、自衛隊の軍事費、米軍の思いやり予算や、故障続きで危険と隣り合わせのプルサーマル(原発再稼働の為の核燃料再利用)事業には、国民の税金を湯水のように使って。
 おまけに、自民党は憲法改正についても、「今の憲法は権利保障ばかりで国民の義務規定が少ない」と、「伝統的家族観の復活」まで唱えています。実際は、今でも「人権は絵に描いた餅」で、「政府にその気が無い為に、憲法に定められた権利が一向に保障されていない」にも拘わらず。

 「保育園に落ちた日本死ね!!!」のブログが話題になった時も、自民党の政治家は最初「そんな事が本当にあるのか」としらばっくれていました。それに対して、「保育園に落ちたの私だ!」とみんなが声を上げたからこそ、安倍政権は渋々、形だけでも保育所増設、待機児童解消に取り組まざるを得なくなったのです。実際は、保育所定数を水増ししただけの、とんでもない「対策」でしたが。
 同じように、我々、中高年も、「親子破産で家族崩壊の瀬戸際にあるのは私だ!」と、声を上げなければならないと思います。それ抜きに、たとえ公的年金の不足を個人年金で補おうとしたり、いつまでも正社員や結婚にばかり固執して自助努力で頑張ろうとしても、福祉削減政策を推し進める今の自民党政府を甘やかす事にしかなりません。その下で、介護虐待のような悲惨な事件や、貧しい老人を食い物にした貧困ビジネスの横行などが、今後ますます増えて行き、最後には取り返しのつかない事になるでしょう。
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2 コメント

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Unknown (cpd )
2016-06-06 02:20:44
いい情報をありがとうございます。spaを読んでみます。
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更に衝撃的なタイトルの書が出た (プレカリアート)
2016-06-08 21:54:54
宗教学者・島田裕巳氏が覚悟の提案「親を捨てるしかない」
NEWS ポストセブン 6月6日(月)7時0分配信

 家計を圧迫する介護費用や、徘徊老人による鉄道事故の賠償責任など、老いた親を持つ子供に降りかかるコストとリスクは大きな社会問題となっている。この難題に対し、「親を捨てる」という衝撃的な問題提起を行なったのが、宗教学者の島田裕巳氏だ。
 島田氏は新著『もう親を捨てるしかない』(幻冬舎新書)の冒頭で、2015年11月に起きた「利根川心中」に触れている。
 埼玉県内を流れる利根川で81歳の妻と74歳の夫の遺体が発見され、47歳の三女が「母親に対する殺人、父親に対する自殺幇助」の疑いで逮捕された事件だ。三女は認知症の母の介護に疲れ果て、病気で働けなくなった父から「一緒に死のう」といわれ、一家心中をはかったと供述した。
 この事件がテレビや新聞で大きく取り上げられることはなかったが、そのことに島田氏は強い危機感を抱いている。
「同種の事件があまりにも頻繁に繰り返されていて、しかも解決の目処が立たない。だから世間は見て見ぬふりをしている。この事態は極めて深刻です。
 家族という単位が資本主義社会の中で相当に疲弊していることが原因で、その歪みが介護殺人、介護心中という“親殺し”として現われている。そんななかで、いくら家族主義を唱えたところで無駄。人類は家族を形成することで生きてきましたが、今の私たちは歴史的な岐路に立たされている」(島田氏)
 島田氏は家族主義の限界を指摘するが、国の方針はまったく逆だ。高齢者の急増と対応する施設や人員の不足から、在宅介護を推進している。だがそれは子供の介護負担を増大させ、介護離職による経済的困窮をも生み出している。
 こうした絶望的な状況下でも介護殺人に至らないために、島田氏は「人という非難を覚悟」のうえで「親を捨てる」ことを提案したのである。では、「親を捨てる」とは具体的にどういうことなのか。
「もちろん、すでに体の自由が利かなくなった親を放り出すのはひどい振る舞いだし、現実的には難しい。だから子供はそういう事態に陥る前に、親との関係に決着をつけておく必要がある」(島田氏)
 生物学的にいえば、自立した子供が親を捨てるのは当たり前のことだ。進化によって生物は複雑な形態をとるようになり、人間に至ってはまったく無力な状態でこの世に生まれてくる。それでも子供はやがて成長し、大人になっていく。
「今の成人式は意味不明なものになっていますが、かつては日本の社会でも“親捨て”“子捨て”が行なわれていた。例えば地域の若者たちは一定の年齢になると家を離れ、『若者組』のなかで生活しました」(島田氏)
 家制度の中でも、長男は将来その家を背負う者として厳しく育てられ、親に甘えることは許されなかった。そして次男以下の男子は、家に残れば「部屋住み」としての一生を余儀なくされるため、自ら家を出るしかなかった。
「戦後になっても、多くの若者たちが“上京”という形で親から離れていきました。ところが今や状況が一変。都会に生まれた若者には上京という選択肢はなく、就職後もなお実家暮らしを続けてしまう。非正規雇用で賃金が低いため実家を出ていくことができず、結果、生涯未婚率が増加。いったん家を出たものの、仕事を辞めて実家に逆戻りするケースもあります。
 いずれも親の経済力に頼っているので、親が高齢になって働けなくなれば、子供は親の年金をアテにせざるをえない。行き場がないなかで親が要介護状態に陥れば親子共倒れになり、子供は完全に追い詰められて介護殺人予備軍になってしまうのです」(島田氏)

※週刊ポスト2016年6月17日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160606-00000003-pseven-life&p=1

 「ここに書かれている事に全面的に賛同できるか?」と問われれば、「できる」とは断言できませんが、さりとて全面的に否定する気にもなれません。判断に迷うところです。
 しかし、少なくともこれだけは言えるでしょう。
 自民党や日本会議などの改憲右翼がもくろむ「伝統的家族観の復活」なぞ強行したら、親子破産や介護虐待が今以上に激増し、そのうち「秋葉原無差別殺傷事件の老人版」みたいな事も起こるようになるでしょう。
 その責任はもちろん、貧困・格差を拡大し、今日の事態を招いた自民党や改憲右翼が全面的に負うべきです。そして、保守派の高齢者も、今すぐ安倍・自民を見捨てなければ、最後には「今日の格差社会化を招いたA級戦犯」として、自分達自身も実の息子から見捨てられる日が来るでしょう。
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