アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

「救う会」運動が克服すべき根本的な誤り

2007年11月24日 08時04分41秒 | 北朝鮮・中国人権問題
 まだまだブログに書ききれない事がある。次の話題もその一つ。久しぶりに北朝鮮・拉致問題の話題を、大分遅くなりましたがアップします。

 これは、少し前に、ある「救う会」関係者の方とメールで遣り取りしていた時の話題です。その方(仮にAさんとしておきます)は、横田滋さんの北朝鮮拉致被害者家族会・代表引退(飯塚副代表が次期代表に内定)のニュースについてひとしきり説明した後、今までの「救う会」運動を振り返ってみて、「昔と比べたら運動が大きくなったのは確かだが、失ったモノも大きかった」として、「救う会」、もっと広義には拉致被害者救出運動の「誤り」について、自分の思いを書き綴っていました。

 以下、そのAさんの思いを、要旨の形で抜書きしておきます。

●「救う会」は、事あるごとに「拉致被害者救出運動は国民運動である」と言っていたが、結局は保守・右派運動としての枠を超える事は出来なかった。だから、917直後の国民的盛り上がりを、その後もずっと持続する事が出来なかった。

●その原因は、中西輝政氏などの論調に典型的に見られる様に、拉致被害者救出運動を「保守ナショナリズム再生運動の象徴」として捉えてしまっている事だ。しかし、それでは保守・右派運動としての殻を打ち破る事は出来ない。そうではなくて、北朝鮮・拉致問題は、ナショナリズムの問題としてではなく、人権問題として捉えられなければならなかったのではないか。

●そうする事で初めて、北朝鮮問題を歴史認識や過去の植民地統治の清算問題から切り離して、普遍的な人権問題として国際社会に訴えていけるようになるし、左派に対しても、「日本の平和主義が、他国の独裁・人権蹂躙に対して、どこまで抑止力足りえるのか」「大国に寄りかかって戦争で解決するのでも、見て見ぬ振りをするのでもなく、自分達が理想とする平和・自由・民主主義を他国の人民も享受出来るようにするには、一体何が出来るのか」という新たな課題を提起できる、そういう運動になれたのでは無かったのか。

●「歴史問題は棚上げにしよう、まず被害者と、北朝鮮民衆を救おう、そのためには私たちも変わる努力をするから、左派の方々も反省すべき点は反省してともにやっていこう。保守だけではこれ以上広がらないんだから」と言う視線があったら、もう少し何か出来たかも知れない。

 私も、上記のAさんの意見には基本的に賛成です。寧ろ、これは今までも拙ブログなどで繰り返し言ってきた事です。この意見が今回、私の様な左寄りからだけでなく、「救う会」系で自身もどちらかといえば右派系のAさんからも出た所に、この意見の普遍性が見てとれます。

 但しその上で、Aさんの先の意見に一つ補足しておきますと、日本の平和主義は、「自国さえ平和であれば良い」というエゴイスティックな一国平和主義では決してありません。それは「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という日本国憲法前文の規定からも明らかです。

 そういう戦後の日本国民が本来持っていた平和・人権志向を、平和共存・核廃絶や民族解放やフェアトレードといった国際連帯の視野にまで高めるのではなく、その反対に、自国エゴやエコノミック・アニマルのレベルにひたすら貶め続け、戦後保守政治の支柱としてきたのは、他ならぬ日米安保体制や歴代自民党政権の方ではなかったのか。60年安保闘争から国民の眼を逸らさせる為に当時の池田内閣が提唱した「所得倍増政策」なんて、その最たるものでしょう。日本の戦後左翼がそれに抗する上で必ずしも充分ではなかった事も確かですが、主犯の米国や自民党がそれを口にする資格はありません。

 Aさんの言う「救う会」運動の「誤り」「失ったモノ」の話に再び戻します。
 私やAさんが言っているのは、別に「左派イデオロギーを受け入れろ」と言う事ではありません。敢えて逆説的な言い方をすれば、「救う会」が靖国や日の丸・君が代や9条改憲に賛成であっても別に構わないのです。要は、最低限、他のマイノリティー解放運動との連帯や、他の社会的弱者への共感の気持ちを持ち合わせているかどうか、です。元来は保守右派の国民新党が、何故左派系からも一定の理解(支持とまでは行かなくとも)を得ているかと言えば、そういう最低限のモラルは備えているからです(少なくとも外面だけでも)。

 「救う会や家族会にはそれが無かったのだ」とまでは言いません。「他を顧みるような余裕など無かった」というのが、正直な所だと思います。しかし、それが結果として「ヘイトスピーカーの跳梁跋扈を許してしまった」のは事実です。事ある毎に「ワーキングプアは自己責任」「格差など取るに足らない問題」「日本は弱者天国」「沖縄人はタカリ」云々など、ことさら他のマイノリティーの神経を逆撫でするような発言をする人物が、堂々と「救う会」の幹部やシンパに納まっている今の現状は、どう見ても異常です。そういう輩が、いくら慣れない口調で表向きだけ平和・人権・民主主義だの言った所で、全然説得力がありません。また、それは横田さんたち拉致被害者家族の気持ちとも相反するものです。

 そういう「自己責任論」や「寄らば大樹の陰」「出る釘は打たれる」「何事も分相応に」「下見て暮らせ傘の下」といった、日本国民が未だに引きずっている遅れた人権意識や保守的な感情にことさら阿り、それを恰も日本古来の「伝統」や「美徳」であるかのように取り違え、「保守再生運動」のエネルギーにまで昇華して、安倍・麻生・石原などの自民党タカ派政治家の提灯持ちに終始し、盛んに左派・リベラルを攻撃しながら(例:イラク日本人人質バッシング)、そのくせ当の自分達はと言うと、「我々は、自民党政権を叱咤激励する側、マジョリティー(多数派)の側に立っているのだ」「家族を取り戻したいという人間愛に満ちた活動なのだから、国民は自然と我々を支持してくれる筈だ」という思い上がりの気持ちが、在ったのではないでしょうか。

 しかし現実は寧ろ逆で、そういう遅れた反人権意識に阿っていたからこそ、政府側に見捨てられた途端に「家族会バッシング」を浴びる事になったのです。「イラク日本人人質バッシング」や「ジェンダーフリー・バッシング」などのバックラッシュ現象と「家族会バッシング」は全て同じ土壌から生まれたものですが、そういう問題意識や危機意識も「救う会」運動には殆ど皆無でした。

 北朝鮮・拉致問題解決を目指す運動に今求められているのは、単なる戦前復古運動から、本当の意味での人権や民主化を基調とする運動に転換を図る事だと思います。例えばビルマ民主化運動やクルド難民救援運動の様に。特定失踪者調査会の荒木和博氏が進めているバルーン・プロジェクトや、タイ・中国・ルーマニア人拉致被害者との連帯などは、ひょっとしたら、そういう元々の大衆運動としての原点に立ち返る上での萌芽的な動きなのかも知れません―但し、これは荒木氏の歴史観や政治的立場を肯定するものではなく、あくま大衆運動の一つの在り方として、という意味ですが(念の為)。

 例えば、北朝鮮取材を精力的にこなしてきた独立系左派ジャーナリストである石丸次郎氏の手によって、脱北者や北朝鮮住民の中から、金正日体制や朝鮮労働党の支配とは無縁の、本当の意味でのジャーナリストが生まれようとしている、というニュースなども(11月20日付産経新聞記事)、「救う会」としてももっと注目して然るべきではないでしょうか。

(関連記事)
・空気が読めず自分の身に即して考える事の出来ない人たち
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/1241212f1f136e43a7f5b3816ab6fa7a
・拉致問題を言い募りつつ、実際は北朝鮮解放に敵対するという自己撞着
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/afdafeaea30803c9953ff8d4daf892b2
・何世紀になっても人権感覚が19世紀のまんまの人たち
 これが「救う会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史認識・人権感覚。こんな土俵でいくら金正日と対決しても、傍から見れば「どっちもどっち」でしかない。
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d48e2f604284282138b12c606bc0b59a
・国全体がやらせ・格差社会の北朝鮮
 石丸次郎氏が育てた北朝鮮人ジャーナリストの事を取り上げています。
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/a76d040fb8eff684c67bad086ed1dd88
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勉強になりました (南雲和夫)
2007-11-26 04:29:25
賛同する点が多々あり、溜飲の下がる思いです。
いわゆる左翼の側も、元来は普遍的な人権、人道上の問題としてもう少し拉致問題をとらえ、取り組むという姿勢があれば、現在のような新自由主義的な潮流の中で、排外主義的なナショナリズムと「救う会」の「結合」を防ぐことができたのではないか、と考えます(もちろん、左翼が拉致問題に取り組んでこなかった、という意味ではありません)。

僭越ながら、拙著『どう見る韓国・北朝鮮問題ー日韓・日朝関係はこのままでよいのか』(本の泉社)では、救う会のイデオローグによる暴論を批判するとともに、北朝鮮政策を当方なりに打ち出してみました。ご高覧のうえ、ご批評をいずれいただければ幸いです。
目的は一緒でも、、 (平和と勇気)
2008-06-26 14:04:52
前半部分は納得し賛同します。

左とか右とか個人の政治的スタンス
保守か革新か、個人と国家、世界の捉え方、
などなどのイデオロギー的対立が、
拉致犯罪の解決、目的よりも優先され
ることが多々あったと思います。

しかし、できれば歩み寄りたいが歩み寄ることが
この犯罪の解決を遠ざからせるのではという
意識が一般的に大きいのではと思います。

たとえば、あなたがここで述べられているように、
拉致犯罪は人権問題という枠で捉えることで
問題意識を広げ、活動の幅は広がる一方
むしろそれが解決を遅らせる
のではという危惧があります。

なぜこの世界で常に起こっている虐殺よりも
拉致犯罪の解決を優先すべきと考えるのか。

私個人の立場では、私がやはり日本という国家の中で
生きていて、日本人というカテゴリーに属し
そしてその日本人の生命や自由が他国によって
脅かされたとき、それを守るべきなのは
日本人であるという認識からに他なりません。

より被害者に近い立場にいると
この犯罪を知ったときに考えれたかどうか。
その認識の違いが大きいと方法論の差異が
際立ち、衝突を引き起こします。

これを全人類的問題にまで広げて共感したり
解決に向けて努力する方が他国におられるのは
ありがたく、すばらしいと思いますが、私たちは
より当事者に近い側であり、より現実主義的
でなければならないと思いますがいかがでしょう。

全人類の課題のひとつに拉致問題があるではなく、
日本人に向けられた犯罪が、結果的に人権問題
であっただけだと。

左と呼ばれる人たち(右からの偏見も誤解もありますけど)が同じ日本人としての
当事者意識を持って取り組めるのでしょうか?

一方で右と呼ばれる人たちにとって
国家の体制、構造のほうが拉致被害者の救出
よりも優先される時があるかもしれないという
危惧も私はもっています。

互いに安易な妥協は必要ないと思う。
被害者を救出する。そして同じことを二度と起こらせないよう最大限努力する。そのために
どちらの取り組み方がより現実的なのかで
どんどん互いの主張を述べればいいと思う。
それを政府、国民一人ひとりが取捨選択し
できることを実行すればよい。

ただ、足を引っ張りあう必要はないですね。
平和と勇気さん (バッジ)
2008-06-27 19:09:14
拉致問題の解決は「全人類的な人権問題上の課題である」という我々の見解に異論を提出するあなたのご意見こそが「恣意的な線引き」の見本というものなのですよ!
「日本人の問題」を「全人類の課題」から線引きしてしまうことは、必然的に問題を果てしなく矮小化してしまう方向だからです。

ナゼか?
「全人類の課題」という捉え方が、あなたの言うようにもし非現実的であり当事者性が希薄になるというのであれば、拉致問題は新潟県民や一部の被害者家族の問題に過ぎず他の多くの日本人にとっては無関係な事であるというような非人間的な線引きも可能だからです。

拉致問題の解決を卑小な民族的・国民的課題に貶めるのは、かえってキム・ジョンイル一派の思う壺なのです。
拉致問題を二国間問題に矮小化してしまえば、ジョンイルたちは「内政不干渉」原則に対する第三者からの干渉だと強弁して国際世論の批判にも開き直れるのですからね。
優先順位 (平和と勇気)
2008-07-12 17:15:22
バッジさん、拉致問題は全人類の課題である。
ええ、YESですよ。

ただより具体的に話しましょう。

私が、たとえば、家族を何者かに拉致された被害者だとします。警察に頼みにいく、自分で探せる範囲探す
あるいは独自で接触する。様々な行動を必死で
とるでしょう。そのとき、
「これは、全人類の課題である」なんて
いう意識はまず持てないでしょうね。
また、そんなことを考えていて、アフリカの飢餓
いや、全世界で起きている様々な悲しい出来事
よりもなによりも、「優先して考える」
他の人は協力してくれるかどうかはわかりません。
ただ、まず何よりもこれは自分自身に向けられた
犯罪だと自覚するでしょう。
これが、当事者意識です。

その上で、これも世界で起きている全人類の
課題だと考えるかもしれない。
だけど、何よりもまず、これは
「自分に向けられた犯罪である」と考える。

あなたのように、
「拉致問題は新潟県民や一部の被害者家族の問題に過ぎず他の多くの日本人にとっては無関係な事であるというような非人間的な線引きも可能だからです」

そのような線引きが可能な人がおられるのは
仕方ないです。事実拉致問題よりも、まずは
日本の戦後補償が先だとおっしゃる方もおられる。

繰り返し申し上げますが、
拉致問題=全世界の人道的問題のひとつ
ではなく、拉致事件は当然「人道的問題」だが
それよりも、日本人として、当事者意識を
もつべきだというのが私の本意ですが、
あなたは、それは同意できないのかな?

人道的問題とか、全人類共通の課題なんてのは
あたりまえなんですよ。だけど、当事者に
より近い(国という共同体を守る限り)
日本国民にとっては、何よりも優先すべき
課題だと思いますが、いかがでしょう?

>「日本人の問題」を「全人類の課題」から線引きし>てしまうことは、必然的に問題を果てしなく矮小化>してしまう方向だからです。

線引きがあるとすれば、否定ではなく
大きなカテゴリーの中で優先順位を持つべきと
いいたかったのですが。当事者なのだから。
少なくとも私はそう考えますけど?
そんな単純なものでしょうか? (プレカリアート)
2008-07-14 19:34:26
 平和と勇気さん、遅レス失礼。

>私が、たとえば、家族を何者かに拉致された被害者だとします。(中略)そのとき、「これは、全人類の課題である」なんていう意識はまず持てないでしょうね。

 果たして、そんな単純に言い切れるものでしょうか? 実際は当事者も色々で、貴方のように考え行動する当事者も居れば、バッジさんの様に考える当事者も居るのではないでしょうか。また、同じ一人の当事者であっても、時と場合や時間の経過によっても、変わってくるのではないでしょうか?

 私事で恐縮ですが、自分の例で考えてみます。私は先日バイト先で、日払い派遣ワーカーの森という奴から、理不尽な暴力を振るわれるという経験をしました。私は何もしていないのに、いきなり森が襲い掛かってきたのです。この事件直後の時点での、私の森に対する感情は、「いきなり森のキチガイに暴行された」というだけのものでした。貴方の表現を一部拝借するならば、「全人類の課題などとは無関係に、相手に憎しみをたぎらせているだけ」の状態です。
 しかし、その後は次第に、「何故こんな事が起こったのだろう?」という思いが、頭をもたげて来る様になりました。そして色々考える中で、日払い派遣労働者の待遇や被差別感情についても、次第に思い及ぶ様になりました。

 これは、私に「当事者意識」が無かったからでしょうか? 断じて違いますね。逆に自分の身に現実に振りかかってきた事件だからこそ、必死に考えた結果、そういう事件の背景も見えてきたのだと思います。手前味噌でこんな事を言うのも、聊か恐縮ですが。
 その後に秋葉原通り魔事件が起こった時も、以前の私なら、ひょっとしたら「加藤みたいな狂人は、とっとと死刑にでもしてしまえば良いのだ」で終わりだったかもしれません。しかし、前記の森事件があった後は、もうそれだけでは済まされなくなりました。自分の身を守る為にも、「何故こういう事件が起こったのか? 一体何が背景にあるのか?」という事を、否応でも真剣に考えざるを得なくなりました。だから、秋葉原事件の後、「加藤のやった事は許せないが、そうなった気持ちはよく分かる」という書き込みがネット上にあふれた事についても、非常によく分かりますよ。私にもそんな気持ちが多々ありますもの。森に対する憎しみの感情とも並存しながら。

 この私の場合でもそうですが、当事者も色々であり、同じ当事者でも時と場合によっても違います。決して貴方が引き合いに出した様な思考回路だけで終わるとは限りません。

>拉致問題=全世界の人道的問題のひとつではなく、拉致事件は当然「人道的問題」だがそれよりも、日本人として、当事者意識をもつべきだというのが私の本意ですが、(以下略)

 この貴方の文章に対しても、私は逆に違和感を感じます。先の「当事者意識」の場合と同様に、誰かが作り上げたお仕着せの「当事者」像・「日本人」像の鋳型に、無理やり当てはめようとしている様な感じを受けます。

 今、「拉致被害者は一旦北朝鮮に帰国すべきだった」という加藤紘一・元自民党幹事長の発言が、各方面に波紋を呼んでいますね。私は、加藤さんのこの様な発言には賛同出来ませんし、この加藤発言に対して拉致被害者・家族が怒るの尤もだと思いますが、更にそこを飛び越して、「日本人として許せない」とか「日本人ならみんなこの発言に怒るべきだ」と謂わんばかりの一部のネット世論に対しても、「そういう受け止め方は何か違うんじゃないか」と思います。
 だって、他の外国人と同じ様に、日本人も十人十色で、色んな考えの人が居て当たり前じゃないですか。「加藤発言は許せない」という人も居れば、逆に「私もそう思う」という人が居ても、何らおかしくはない。そうであるにも関わらず、加藤発言のどこが怪しからんか具体的に指摘するのではなく、いきなり「日本人のくせに」云々なんて論法で来られるのは、戦前の「非国民」呼ばわりみたいで嫌です。

 最近の一部マスコミって、そういうのが特に目に付くでしょう。秋葉原事件の報道や、以前の光市母子殺害事件の時もそうでしたが、「被害者は、殺されさえしなければ、こんなに幸福な人生を歩めたのに」「それに引き換え、事件容疑者の性格・生い立ち・挙動がどんなに歪だったか」という様な取り上げ方をする番組やコメンテーターが、近年やたら増えた様な気がして仕方がないのです。事件の背景を深く掘り下げ、世論に問題提起するのではなく、ただひたすら被害者の復仇感情に媚び、居酒屋でオヤジがよく管を巻いている様な、単純な勧善懲悪論や自己責任論を一通りぶって、溜飲を下げさせてそれで終わり、みたいな。
 テレビ局としては、そういう番組の方が作りやすいでしょうね。コストも掛けず、事件の背景を追う手間もいらず、ただただ安直に、「殆どの人間はこう思うだろう」という鋳型に勝手に当てはめて、視聴者の受け狙いだけで番組を進める方が。ワーキングプアや慰安婦の問題を下手に取り上げて、自民党や財界から睨まれるよりも、遥かに楽ですから。しかし、そんな番組を度々見せられると、局の意向や手の内が図らずも垣間見えてしまったりして、もう白けてしまいます。
ということで (平和と勇気)
2008-07-20 21:00:09
 左、右という概念があるならば
お互い相容れない線がやはりあるようです。

左、右、どちらの掲示板でも、
書き込んだあとのレスでまず感じるのは
相手がどちらのスタンスに立つ人間か見極める
かのような線引きです。

ここに私が書き込んだ後の
バッジさんのレスにも、それを感じました。

バッジさん曰く「我々の見解に異論を提出するあなたのご意見こそが「恣意的な線引き」の見本というものなのですよ!」

いったい私がどのように恣意的に線引きしたのでしょうか?で、我々とはなんなんでしょう?

私は、拉致問題が人権問題であるとは
当然認めています。ただ、私にとっては
多くの人権問題の中で優先して解決すべき
人権問題であり、その理由は何度も述べた
当事者意識です。一人の人間の寿命にも
できることにも限りがあります。

で、拉致犯罪を優先して当事者意識を持って取り組む
というのが私の考えです。あなたのblogの
意見に感じたことを個人として書き込んだときに
右や左という概念は私にはありません。

だが、「我々の見解に異論を提出する、、」
というバッジさんのレスを見ると
結局私は「貴方たち」という自分とは違った
グループとの対話を始めたように感じてしまいます。
さしずめ、私はゆるめの右というカテゴライズかな。

「実際は当事者も色々で、貴方のように考え行動する当事者も居れば、バッジさんの様に考える当事者も居るのではないでしょうか。また、同じ一人の当事者であっても、時と場合や時間の経過によっても、変わってくるのではないでしょうか?」

もちろんです。だから、私も私なら
そう考えるといっているわけです。

その上で、当事者意識が薄い人がたくさんいて
問題解決に当たるのと、当事者意識を持った人が
問題解決に当たるのと、どちらが解決が
早いでしょうか。

時間の流れでも当然人は
さまざまな思考の変化をもつでしょう。
私はそれでも、やはり拉致事件を考えるにあたり
多くの人が当事者意識を持ってもらいたい。

ここは、どうしても「貴方たち」とは相容れない
ようです。 これは私が御仕着せられた
鋳型の日本人というカテゴリーに、他の人をすべて
押し込めたいからじゃありません。
私は自分を右だと意識したことも、いわゆる
マスコミやネットによって簡単に意識付けられた
愛国者意識で発言しているのでもないつもりです。

自分が得た情報を自分なりに考えて、どうあるべきか
考えるそれしかないです。

私は、結局自分は日本人というカテゴリーの中に
今いて、そしてより大きな問題を
考えるなら、まず日本から考えたいと思う。
その中で拉致事件を知ったとき、これを
解決できないなら、日本人というカテゴリーは
本当に無意味なものになるなと思うようになりま
した。

はからずも国家という概念があり共同体が
あり、それによって規制もサービスも義務も
自由も与えたり、与えられたりしながら生きているのが私です。
おそらく、管理人様もバッジさんも
いっしょでしょう。だが、その共同体が
他の共同体の権力中枢から拉致という犯罪を受け
それに対して共同体の参加者が当事者意識を
持てないようならば、その共同体はあまりにも
脆くて、また、限りなく利己的な集団の
共同体で、弱い結びつきだとは思われませんか?

私は日本という共同体の問題を解決して、
次のステップ(より大きく普遍的な問題へ)
に進むことが可能であると考えます。

これは、私なりの現実主義です。
あと様々な国内問題について、プレカリアート
さんのご意見、私は同意するところが多いです。
なぜなら、私もついこないだ、お客さんである
派遣社員の方と話していて、
(私もかつては、派遣社員だった)
政府の方針に疑問を感じました。
ですが、それは国内で解決すべき問題ですよね。

そしてあくまで、自由な議論と選挙など
一応保証されている民主主義の枠組みで、私たちが
解決すべき問題でしょう。

これは、拉致事件とは根本的に違うと思う。

拉致事件は共同体間でひき起こされた犯罪です。
ここは、やはり当事者意識を持った上でまず考えて
いただきたいのですが、、

右とか左の意識を持たず
1対1の連続として
貴方たち?一人ひとりと
又掲示板を通し意見交換できれば
「まず、相手をカテゴライズして否定する」
というスタイルからお互い抜けれるのかもと
思いますけど。

もっとも貴方たちはカテゴライズ
なんかしていないというかもしれないけど。

私は、やはり無意識にカテゴライズしてから
書き込んでいたのかもしれませんが。

でも、このような壁を右と左が組織として
互いに越えるのはそれこそ、普遍的で
大きすぎる難しい問題ですね。

どちらにしても、拉致事件の解決に
それぞれのスタンスで一人ひとりが
努力していければと
願っています。そして、国内問題も、、
世界の様々な問題も、、
目の前の生活と向かい合いながら、限られた
時間ですけどね。

様々な事件について (平和と勇気)
2008-07-20 21:27:33
いろいろな事件があります。

私はそれらについて、一つ一つ考えることも
考えないこともあります。ただ、すべての
事件についてそれぞれ背景も違いますよね。

その上で、ひとつ思っているのは、

無作為な第三者に向けられた犯罪については
犯罪者の理由を考える必要性に意義を感じない。
まして、それが殺人という行為に至ったときです。
それぞれ理由はあるでしょう。

それでも、私は、人間としてまず互いの生命に
危険を加えないという最低限の決まりごとがあり
それを守れない理由を考えるよりも
守らせるべく機能させなければならない、
それが守れない人については、自分に近づけない
よう最大限努力する、としかいいようがありません。

ひたすら、防衛本能です。犯罪者が犯罪を
起こす理由を彼らの立場や生い立ちにそって
考えるよりも、ひたすら守るという意識です。

犯罪者が死刑になって溜飲を下げるとかいう
気持ちはもー私はないですね。

だけど、彼らが本当に死刑という刑罰を
犯罪を起こす前に正しく認識し、
自覚できていれば、、また
それこそが、抑止力として機能したのでは
と思いますが、それでも犯罪を起こす人間は
いるでしょう。

そんな単純なもんじゃないんだというのは真です

でも、複雑に考えたからといって何がどうなる
というものでもないです。

人を傷つけないという大前提を共有できないならば
できない人と共に同じ社会で生きなくていいような
社会の枠組みに、私はしたいです。

平和と勇気さんへ (プレカリアート)
2008-07-22 22:25:21
>私は、結局自分は日本人というカテゴリーの中に今いて、そしてより大きな問題を考えるなら、まず日本から考えたいと思う。(7月20日付「ということで」)

 それはそれで別に良いのですが、私の場合はまた違います。私について言えば、「日本人として」より以前にまず「人間としてどうなのか」という立場で考えます。自分も含め、世界中の全ての人々が生きていて良かったと思えるような社会を目指したい。そう考えた場合、「戦争も差別も人権抑圧も全て嫌だ!」というのは、人間としてごく普通の感情ではないですか。別に「無いものねだり」でも「イデオロギー」云々でも何でもないと、私は思います。
 逆に私からすれば、「人として」より先に、いきなり「日本人・××人として」とか「日本人・××人のくせに」という発想が来る方が、よっぽど不自然です。戦時中の日本がそうであった様に、無理やり自分に言い聞かせて、それで無理やり自分自身に納得させているような感じがします。
 勿論、人によって受け止め方はそれぞれで、あなたのような考え方をする人が居ても一向に構わないし、それを私がどうこう言う事もないですが。

>当事者意識が薄い人がたくさんいて問題解決に当たるのと、当事者意識を持った人が問題解決に当たるのと、どちらが解決が早いでしょうか。
>時間の流れでも当然人はさまざまな思考の変化をもつでしょう。私はそれでも、やはり拉致事件を考えるにあたり多くの人が当事者意識を持ってもらいたい。(同上)

 これはどういう意味でしょうか?「自分たちは当事者意識を持って拉致問題に臨んでいるのに、その他の人たちは、たとえばこのブログの人たちは、そうではない」「そういう人にも当事者意識を持って臨んでもらいたい」という事を言いたいのでしょうか?
 若しそういうつもりで上記の文章を書いたのであれば、私はそういう評価は断固拒否します。それでは「人それぞれ」ではなく「自分たちが一番正しいんだ、お前たちは間違っているのだ」という自己絶対化以外の何物でもありません。「相手をカテゴライズしているのは、寧ろあなたたちの方ではないか」と言いたくなります。但しこれはあくまでも、「そういうつもりで上記の文章を書いた」のであれば、という事ですが。

 あなたのコメントを読むと、「当事者(意識)」とか「日本人」とか「共同体」という言葉が頻繁に登場します。どうやらこれらの言葉に対して、相当深い思い入れがあるように見受けられます。それはそれで人それぞれなので、一向に構わない。但しその立場の一方的な押し付けは断固拒否しますが。
 
 勿論私とて、そういう「共同体」意識に近いものは持っています。聊か陳腐な表現になりますが、「家族愛」とか「郷土愛」とか「隣人愛」とかいうのが、多分それに該当するのでしょう。ただ私の場合は、「家族愛」云々とはまた別の次元で、それらが時の為政者によって都合の良い様に利用されてしまわないか、という警戒心も、同じ程度に持っています。だから私は、あなたほど頻繁にこれらの言葉を使う気持ちにはなれません。

>ひたすら、防衛本能です。犯罪者が犯罪を起こす理由を彼らの立場や生い立ちにそって考えるよりも、ひたすら守るという意識です。(同日付「様々な事件について」)

 上記コメントは、私が遭遇した例の森事件や秋葉原通り魔殺人事件に準えて書いたものですね。これは別にあなただけに限った事ではなく、私も含めて、誰でもそうですよ。だから、例の森事件に際しても、一番最初に私が会社に要求したのが「森の永久追放」だったでしょう。自分の命在っての物だねですから。私は生活費を稼ぐためにバイトしているのであって、殺される為に会社に来ているのではないですから。
 ただ、それはあくまでも最低限の緊急避難(狭義の再発防止策)でしかありません。その次には広義の再発防止策として、事件の背景についても次第に考えるようになります。「現実主義」云々という事も書かれておられますが、そうであれば尚更の事、現実を直視し分析する必要に迫られる筈です。しかし、それが何故「複雑に考えたから」云々という事になるのでしょうか。私の言っている事、別に「複雑」でも何でもないと思うのですが。

>あと様々な国内問題について、プレカリアートさんのご意見、私は同意するところが多いです。
なぜなら、私もついこないだ、お客さんである
派遣社員の方と話していて、(私もかつては、派遣社員だった)政府の方針に疑問を感じました。
ですが、それは国内で解決すべき問題ですよね。(7月20日付「ということで」)

 派遣労働の問題についての上記コメントですが、単に「国内で解決すべき(出来る)問題」でしょうか?
 勿論、第一義的には、日本政府なり自公与党なりによる、今の様な「使い捨て」的な働かせ方は「人として」どうなのか(拉致問題と同様に)、という「為政者としての姿勢」がまず問われているのは確かです。その為にも、派遣会社や派遣先大企業による各種不当労働行為の事実上の「隠れ蓑」となっている現行派遣労働法を、如何に労働者保護法として改変するか、という事が問われているのです。
 しかし、「国内だけで解決出来る問題」でもないでしょう。何故ならば、派遣労働が蔓延する背景には、世界的な新自由主義グローバリゼーションや情報化の進展が、その背景にあるからです。
 情報化によって、企業の多国籍化や海外進出が、今までとは比べ物にならないほど進み、瞬時にして情報や労働力や資本の移動が可能になるのが、今のご時世です。「日本人が文句をいうならば、いつでも低賃金・無権利の第三世界の人間に、雇用を切り替えるぞ」というのが、今の政府・財界の論理です。この際はっきり言いますが、「日本人」とか「共同体」とか「国益」とかいう言葉は全て、それらの実態を誤魔化す為の煙幕にしか過ぎません。
 そんな中で「日本人が」「中国人が」と反発していたら、それこそ政府・財界の思う壺じゃないですか。そうではなく、欧米日や中国・北朝鮮・その他第三世界の「全世界の労働者・人民・貧しき者の連帯で」解放を勝ち取るべきではないのか。情報化社会・グローバル化社会だからこそ、逆にそういう可能性も広がっているのです。「ベルリンの壁」崩壊が回りまわって、ネパールでは封建王制打倒の発火点になった様に。世界社会フォーラムの運動やトービン税・フェアトレードの試みに見られる様に。

 つまり、今はもうそういう時代なのです。政府・財界による「ごく一部の資本家の金儲けの為の新自由主義グローバル化」か、それとも全世界プレカリアートによる「人民による公正で民主的な社会を目指す為のグローバル化」か。そういうのが問われているこの21世紀の情報化社会にあって、何を好き好んで「日本人」云々とかいう枠組みに敢えて拘るのかが、私には全然理解できません。
 今さら江戸時代の鎖国や幕末の尊皇攘夷じゃあるまいし。それで小泉に騙され安倍に騙されても、まだ性懲りも無く次は麻生か平沼か、ですか。しかしそれじゃあ、ネットウヨクやB層と何ら変わりない。

 逆に言えば、そういうグローバル時代だからこそ、北朝鮮民主化の条件も、今までになく広がって来ているとも言えるのです。いくら北朝鮮と言えども、先述の情報化・グローバル化とは無縁では在り得ないのですから。現にネパールで起こった革命がそうじゃないですか。私の言っている事、そんなに「複雑」ですか?

 私のこの物言いについては、根っからの「救う会」シンパにとっては余り耳障りの良い内容ではない故に、人によっては「ただ救う会を貶しているだけじゃないか」と捉える向きも無きにしも非ず、なのかも知れませんが。私としては、寧ろ逆に「敵に塩を送る」つもりで、ヒントになりそうな事も含めて、色々と書いているつもりなのですが。「北朝鮮・拉致被害者救出運動が917当時の高揚から次第に停滞してきたのは何故か」「再生の目があるとすれば、それはどういう形でか」という事も含めて。

 その一例として、「チベット人権運動の高揚の中に、ひょっとしたらそのヒントがあるのではないか」という事も書きました。チベット人権運動が、何故あのような国際的な広がりを持つに至ったのか。アムネスティが運動推進団体の中で主要な位置を占めているのが何と言っても大きいのですが、それは取りも直さず、運動を進める側が、「人権」や「民主主義」を名実共に正面から掲げているからではないでしょうか。
 だから中国政府の唱導する「中華愛国主義」に対しても、道義的正当性を獲得し得たのではないでしょうか。あれが若し「救う会」の様な「××人」とか「保守文化の再生」の狭い枠組みだけで臨んでいたとしたら、今の様な国際的な広がりは無かったでしょうね。

 以上色々と書きましたが、これはあくまで私の見解であって、それを人に押し付けるつもりはありません。逆に人からの意見の押し付けも、同様に拒否します。しかしそうではなく、「別個に進んで共に撃つ」というのであれば、どんな意見でも歓迎します。
 そして、それらの意見を忖度するのは、あくまで北朝鮮・拉致被害者救出運動の当事者が決めることであって、私ではありません。ただ、いつまでたっても「日本人」だとかいう事にばかり拘っているようでは、北朝鮮・拉致被害者救出運動は今後もずっと、所詮は「ヌクヌク保守」限定の運動に止まるでしょう。
「日本人・当事者」論の持つ傲慢さ (プレカリアート)
2008-07-24 22:34:47
 平和と勇気さんへ。先に書いた事とも重複しますが、標記の件について改めて補足しておきます。

>私は、拉致問題が人権問題であるとは当然認めています。ただ、私にとっては多くの人権問題の中で優先して解決すべき人権問題であり、その理由は何度も述べた当事者意識です。
>拉致犯罪を優先して当事者意識を持って取り組む
>拉致事件は共同体間でひき起こされた犯罪です。ここは、やはり当事者意識を持った上でまず考えていただきたいのですが、、

 上記のご主張について。例えば、失業し家賃も払えず、ホームレスやネットカフェ難民になる寸前まで追い詰められた人が、ここに居たとします。その人にとっては、拉致問題よりも、今日・明日の食い扶持の確保や、生活保護が降りるかどうかといった問題の方が、よっぽど切羽詰った重大な問題でしょう。しかし、それは果たして責められる事なのでしょうか?貴方は、そういう人に対してまで、「格差・貧困問題なんて、その他の様々な人権問題のうちの一つにしか過ぎない」「同じ共同体で生活する日本人であるなら、そんな問題よりも拉致問題の事を考えろ」と言い放つ事が出来るのでしょうか?

 勿論、運動推進者の立場からすれば、そういう人にも「どうぞお願いですから、拉致問題の事も考えて下さい」という事は言えます。或いは「あなたと同様に、必死に生き延びようとしている北朝鮮の人々にも、どうか貧者の一灯を」という訴え方も、一つの例としては在り得るかもしれません。しかし、幾ら何でも「そんな問題よりも拉致問題の事を考えろ」というような物言いは、それは無いのでは。

 そう言うと、多分あなたは「そんなつもりではない」と答えるかも知れません。しかし、上記の様な物言いでは、そう受け止められても仕方がないと思います。それがどれだけ異常な事なのかは、逆の立場で考えて見れば直ぐに分かります。

 例えば、私は格差・貧困問題について、より多くの人に考えてもらいたいという気持ちを持っています。況してや「この日本に格差なぞ存在しない」とか「貧しいのは当人の努力が足らないからで、自己責任・自業自得だ」という人を見ると、尚更の事「何も知らない癖に何言ってやがる」と思います。

 しかし、それを大衆の目の前で、当の運動を進める側が言ってしまったら、その時点でもうその運動は終わりでしょう。自分たちの至らなさや運動の未熟さを棚に上げて、「拉致問題よりも貧困問題の方が重要じゃないか=そう捉えないお前の方が悪い」なんて事を言ってしまったら。

 確かに、反貧困運動の場で「貧困問題に取り組まない政治家なぞ要らない」というスローガンを掲げたりする事はあります。しかし、それはあくまでも、運動を鼓舞する為のスローガンでしかありません。実際に署名活動等で街頭で対話する段には、そんな不遜な態度は普通は取り得ません。貧困問題とその他の拉致問題や環境問題・ジェンダーフリーなどの問題とを切り分けて、「常に前者が後者に優先する」などという発想も、少なくとも私の頭の中にはありません。

 その様な発想に立ったが最後、その時点から運動の堕落が始まると言っても、過言ではないでしょう。活動家のそういう物言いの中にある一種の傲慢さを、大衆は敏感に感じ取ります。このブログでのこの間のあなたの主張というのが、とどのつまりは、そういう事ではないでしょうか。

 それともう一点、あなたのコメントの中で気に掛かる箇所があります。

>無作為な第三者に向けられた犯罪については犯罪者の理由を考える必要性に意義を感じない。
まして、それが殺人という行為に至ったときです。
それぞれ理由はあるでしょう。
>ひたすら、防衛本能です。犯罪者が犯罪を起こす理由を彼らの立場や生い立ちにそって考えるよりも、ひたすら守るという意識です。
>そんな単純なもんじゃないんだというのは真です
>でも、複雑に考えたからといって何がどうなるというものでもないです。
>人を傷つけないという大前提を共有できないならばできない人と共に同じ社会で生きなくていいような社会の枠組みに、私はしたいです。

 「その他の事件やニュース」には、これだけ冷淡な反応しか示さない人から、幾ら拉致問題についてだけ「もっと当事者意識を持て」と言われても、果たして一体何人の人が耳を貸すでしょうか?

 「一人の人間の寿命にもできることにも限りがあ」るのは確かですが、それでも「世界で常に起こっている虐殺」や「様々な人権問題」「色々な事件」にそれなりに反応するのが、「人間として」のごく自然な姿ではないでしょうか。たとえ個々の反応に濃淡の差はあったとしても。幾ら何でも「拉致問題だけが全てで、その他の問題は全て二の次」という様な機械的な切り分けは、常人の感覚からは少しずれているのでは。

 また、そういう冷淡な反応しか示せない人の言う事に、一体誰が耳を貸そうという気になるでしょうか。例えば、先に私が例示したホームレス・ネカフェ難民一歩手前の境遇にある人が、あなたのそういう物言いを聞いて、果たして拉致問題にも、「当事者意識」を以って本気で当たろうという気になるでしょうか。
「人権問題の切り分け」など現実には在り得ない (プレカリアート)
2008-07-27 08:33:19
 平和と勇気さんからの新たなレスがないままで、私ばかり一方的にレスを返すのは、聊か気が引けるのですが、あともう少しだけ。

 ここでの北朝鮮・拉致問題に関する私の主張は、「この問題は、保守イデオロギーや日本人論・国家論の問題としてでなく、あくまで人権問題として捉えるべきではないか」というものでした。
 それに対して、平和と勇気さんの主張は、「それでは、当事者意識の薄い人まで拉致被害者救出運動に抱え込んでしまう事になる」「拉致問題は、あくまで日本人として、他の人権問題よりも優先して捉えられるべき問題だ」「あなた方も是非、当事者意識を持って、一人の日本人として、この問題に臨んで貰いたい」というものでした。

 そして、両者の間で、この間やり取りが続いてきた訳ですが、その中で、平和と勇気さんは「どうもここでは、私は”ゆるめの右”とカテゴライズされているようで、相容れないようだ」という事も書かれておられます。
 私も、今まではその様に思っていたのですが、最近は「それも、どうも違うのではないか?」という気がしてきました。つまり、平和と勇気さんのスタンスというのは、実際の「右翼」とか「左翼」とも一切無関係の、ネット世界の住人が勝手に作り上げた仮想の「ウヨ・サヨ」像に沿って、書き込みをしているだけではないか、という事です。聊かきつい言い方になりますが、もうそれ以外に解釈しようがないので。

 実は、当該エントリー記事に登場する自称右派の「救う会」関係者の方からは、今でも時々メールが来て、たまにやり取りもしているのですが、この方は何と最近、東京・山谷の日雇い労働組合にも、幾ばくかのカンパをなさったそうです。
 日雇い労働者やホームレスの支援者と言えば、世間ではとかく新左翼系とカテゴライズされがちですが、実際には右翼の人も、左翼に比べたら少数ながら、そういう支援の輪に加わったり、独自で支援活動をしているのだそうです。それは「この日本国内で、路上で人が行き倒れになるという事など、あってはならない事だ」という一点から、そういう活動に取り組んでいるからだそうです。

 それとは逆に、左翼の方からも、例えば、辻元清美などが主催しているピースボートの会員からも、「救う会」にカンパが寄せられたケースがあるそうです。その理由も「拉致なぞという蛮行は許せない」という一点からのものだそうです。これも、先述の「救う会」関係者の方が、以前別のメールで仰っておられた話です。

 斯様に、現実世界では、平和と勇気さんが言われるような、「数ある人権問題にいちいち優先順位をつけて、拉致問題が最優先で、その他の問題は二の次・三の次」といった「人権問題の一律・機械的な切り分け」など、あまり在り得ないのではないかと、思うのですが。それよりも寧ろ、「人間として」ホームレス問題にも拉致問題にも心動かされるという方が、よっぽど自然な感情ではないでしょうか。
 勿論、人によってそれぞれ濃淡の違いはありますよ。この「救う会」関係者の方も、本職は北朝鮮・拉致問題なのですから、ホームレス支援の方は、あくまで余力がある限りで、という事でしょう。

 しかし、平和と勇気さんが言う様な「最初から優先順位まず先に在りき」で、「拉致問題こそ最優先で、その他の問題は全て拉致問題に道を譲るべき」という様な態度は、仮想現実やカルトの世界ならいざ知らず、現実世界では殆ど在り得ないのではないでしょうか。 

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