私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

福崎町の金剛城寺と山町の多田廃寺?

2011-08-27 14:23:13 | ドライブ
 8月27日(土)  天気:晴れ 後 にわか雨  室温:33.4℃

 きょうは 福崎町の 高野山真言宗 七種山・金剛城寺に行きました。 新西国第30番霊場、播磨西国
第12番霊場・札所です。 この前の 「歴史教室」 の 奈良・平安時代に創建の古代寺院には 載ってい
ませんが 633年開山の古刹で 法道仙人伝承に関わりがあるようです。
 帰りに 白鳳期の播磨古代寺院のひとつ 多田廃寺(姫路市山田町多田)へ寄り 探したのですが・・・。

 9:11 出発。 姫路バイパスから 播但道に廻り 9:46 福崎北ランプを降ります。 きょうは
なぜか 播但道も車が 多かった・・。 ここまで 38.2km、400円。 左折して 西へ進み 辻川で
国道を横切り 福崎駅横の踏切を越え 県道406号線を真っ直ぐ進むと 金剛城寺の前に出ます。 田口
集落センター前の県道脇に 駐車場があります。 9:58 駐車。 ここまで 福崎北から 6.1km、
家から 44.3km。

 直ぐスタート。 金剛橋を渡ると 手前に 「七種山金剛城寺」 の碑が立ち 左奥に 仁王門が見えてい
ます。  仁王門は 大変豪華な建物で いろんな木鼻や彫り物があります。 仁王さんを見て 仁王門を
潜り 境内に入ると あまり 手入れが行き届かないようで 雑草が 茂っています。

 折角 お寺で パンフレットを 買った(100円)ので これを書かないと・・・パンフレットの「縁起と
沿革」によりますと
 推古天皇の御子、聖徳太子 自ら七種山に登りたまい 山容に霊気を感じて 「これ 三宝相応の地なり」
と讃嘆せられ 国家安泰の祈願所として 一寺を建立せんとの願いを抱かれたが 果さずして 薨じたもう。
・・・・高句麗の恵灌法師 渡来し 太子の遺志を継いで この地に 慈岡寺(しげおかでら)を創建した。

 法師の徳を慕う諸国の人びと 相競って 財物を寄進したので 七堂伽藍たちまちに竣工。 舒明帝
の五年(633)5月 法道仙人を供養導師として 開山の堂供養大法会を厳修した。 御本尊 十一面
観世音菩薩は 恵灌法師の一刀三礼の御作である。

・・・ 嵯峨帝の御代 弘法大師 播磨巡錫の途次 この寺に滞在して 真言密教の秘法を修したまえるとき
から 真言の法幢を掲げ 金剛城寺と称するようになった。 この頃より 当山 いよいよ隆昌、数十の僧坊
・・・・
 これより前 天平四年 焼失。 聖武帝の勅命によって再建。・・・・将軍足利尊氏公 当山に帰依 伽藍を再興。
・・・・ 更に 文明11年(1474) 三度 兵火の厄に遭い その後 久しく衰徴の一途をたどったのである。

 明治三年(1870) 廃仏棄釈の法難を蒙り 寺領は国家に没収され 伽藍 また将に 破壊されん
としたので 檀信徒は 急遽 阿弥陀堂と 住承院、地蔵院、正覚院の中の庫裏一棟を 田口の村中へ移築
し 御本尊を安置し奉った。
・・・・・・明治30年 国家を相手に 旧境内地七種山林百十余町歩 下げ渡しの行政訴願を起こし・・
明治35年 遂に 当寺の勝訴を勝取ったのである。
・・・・・・
 爾来 明治40年代より昭和30年代にかけて 本堂、仁王門、護摩堂、本坊、庫裡、大師堂など 建築
の槌音 絶える時もなく 現在見るような伽藍整然たる輪奐の美、輝くばかりの浄刹として 復興したので
ある。  ・・・・・・と 概略 このようなことが 書かれています。

 写真と文章が かなりずれて 読み難いと思いますが・・。 仁王門を潜ると 右に鐘楼がありますが
建物は やや貧弱な感じがします。 鐘には 四天王が 浮き出ています。 左へ行くと 十二支守本尊
石像があり 右から 千手観世音菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不
動明王、阿弥陀如来と並んでいて 手前に 子、丑、寅・・・と 小さい動物像も並んでいます。

 十二支像を見て 左へ進むと 弁天堂があり 奥の神社への道へ出ましたが 大師堂は? 阿弥陀堂
の手前に 大きな宝篋印塔があります。 大きな木の陰で 暗く写真写りが悪いのですが 後ろには 安
永三年とあるので 1396年? 東屋の裏に 石造地蔵菩薩像があり 安永六年(1399)の刻銘があり
福崎町では 最も古い在銘石仏で これは 町の重要文化財。 高さ121、幅96、厚さ15cmの三角形
状の石英面岩に 菩薩像が 刻まれています。 地蔵菩薩より 宝篋印塔の方が 古いのに・・・。
阿弥陀堂に お参りし 本堂にも お参りしました。 本堂正面の額には 歌があり ”金剛の をしへの城の
みめぐみの つゆ慈岡や 七ぐさのさと”とあります。 誰か 有名人の歌でしょうか? 本堂の前に 手水
舎がありますが 水は 涸れて カラカラ。 山から 水が豊富に 流れているので 水を引けば いいのに・・。

 右にある本坊も立派な建物です。 山の上に建物が見えます。 本堂の左から 階段を上がると 護摩
堂がありました。 展望台のようになっていますが 眺めは・・。 一通り見て 帰ろうとすると 庫裡から
女の人が出てきました。 グッドタイミング! パンフレットは ありませんか?と尋ねると あります とのこ
と。 奥から出して いただきました。 入口にあった説明板は 風化して 文字が 読みにくくなっています。
よかったァ・・ これで このページも 文字を埋めることができました。

 11:00 車に戻りました。 この県道脇から 北に山が見えますが 七種山か槍は 見えるのでしょう
か? まだ 早いので 姫路市山田町多田の多田廃寺を見に行きましょう。 県道406号線を戻り 福
崎駅の踏切を渡り 国道312号線に出て南へ。 播但道の船津ランプの前を 1kmほど東へ行き 細
い道を曲がり 北へ行くと こんもりとした森が見えます。 あそこが 諏訪神社でしょう。

 11:23 諏訪神社脇の空き地に 車を停めました。 金剛城寺から 13km。 この森は 盛り土をした
丘のようになっています。 後で 分かったのですが 前方後円墳跡でした。 境内は 滑り台や鉄棒が
設置され 公園になっています。 奥へ進むと 鳥居があり 諏訪神社の境内であることが 分かります。
鳥居を潜り 境内に入ると 左に手水舎があり 手動式の井戸ポンプがありますが 完全に干上がって
いて 掛けてある 白いタオルが むなしい感じです。

 「諏訪の石穴」(兵庫県指定重要有形文化財・史跡) の説明板に 市川流域の左岸段丘上にあって
ほぼ東西方向に 主軸を保つ 全長40mの前方後円墳である。 多田古墳とも呼ばれる。 後円部の
側面には 片袖式の横穴石室としては 古式のものである。 六世紀前半と推定されるが 出土遺物
は 不明である。 諏訪神社は この石室を神殿として 石室内に 石祠を置いて 建御名方の神を祀っ
ている。 石室羨道の入口前面に拝殿が 作られている。 ・・・とあります。

 多田廃寺については 何も書いてありませんが とりあえず 神社に お参りしました。 神社の手前に
あった注連縄の岩が 心礎だったのでしょか? 前方後円墳の丘に上がり 廃寺の痕跡を探しますが・・・
草はらを歩いていると 瓦の破片がありましたが なんか まだ新しそうで 白鳳期のものとは 思えません。

 この古墳の周辺は 今は 木が茂り 古墳の全体を見渡すことが できませんが お寺を建てるスペース
は あったのでしょうか? 当時この辺りに住んでいた豪族・有力者が 多田寺の建立に 尽力したのでしょ
うか? 探しまわって 神社の拝殿に戻り 立ててあった立札を見ると 裏に 下の写真の説明が・・。
 塔心礎は 池の西から 運ばれてきた? ということは お寺があったのは 池の西? 運ばれてきた 二
つの心礎は どこに? なにも 分かりません。

 納得はいきませんが 多田廃寺塔心礎の説明板があり 一応 痕跡を見付けたということにして・・・。
12:00 車に戻り 帰路につきます。 2.2km走って 12:06 船津ランプから 播但道に入り
途中 豊富PAに寄り カレーを食べ 姫路バイパスを走り 13:16 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:44.3km 諏訪神社まで 13.km 復路:36.6kmで
計:93.9kmでした。

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