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Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

そこで凹んでいる人へ

2006-07-31 07:53:38 | 死・自死
やさしい人って凹みやすいよな。

やさしいから、人の痛みを自分の痛みとしてしまう。
凹んでる相手に上手い言葉をかけられないことで、
自分が落ち込んでしまったりする。

やさしいから、自分が凹んでいることで、
人に迷惑をかけてやしないかと、
気になって気になって更に落ち込む。


逆に考えてみようか。


凹みやすい人って、やさしいんだ。

自分がちょっとでも人に迷惑をかけてないか、
気にしすぎて凹んでしまうほど、やさしい。

自分が凹んでいても、
凹んだ人を励まそうと一生懸命になってしまうほど、やさしい。

自分が凹んでいるのは、自分のわがままなのではないかと、
ついつい自分を責めてしまうほど、やさしい。


やさしい人は、そのやさしさ故、強い自己主張をしない。

だから、やさしい人は社会の中で無視されがちです。

無視されるならまだいいのか、
別の生き物のような眼で見られたりする。

やさしいだけなのに、
まるで甘ったれかのように誤解される。

それはそれはとても寂しいことですが、
やさしい人たちはそれでも怒らずに我慢してしまう。

凹みやすい、やさしい人々には暮らしにくい社会だな。


だがね.....


そこで凹んでいるあなたへ。
そこで凹んでいるやさしいあなたへ。

そんな社会だけど、
死にたいとか言わないで下さい。
いや、言うのはいいです。
でも、死なないで下さい。

世の中からやさしい人が減ってしまいます。

あなたのようなやさしい人がいなくなってしまうのは、
とてもとても悲しいことです。寂しいことです。

これだけ紛争の絶えない世の中から、
あなたのようなやさしい人が一人でもいなくなると、
世界は破滅してしまうでしょう。

世界を救うと思って、生き続けて下さい。
決して大袈裟な話じゃないです。
ほんとに、あなたのようなやさしい人が必要です。

例えあなたが一歩も外に出なくても、
それでも、世に中にはあなたのようなやさしい人が必要です。

やさしい人には辛い世の中です。
それでも、死なないで下さい。


人は死ぬために生きている。
だからこそ、充実した死を迎えるためにも、
衝動的な死を選んではいけない。
いつか必ず迎える死の時を、充実したものにするために、
凹んだままでもいいから、そこに居て下さい。


今までも何度か書いて来ましたが、
自分にはすでに家族がいません。

でも、やさしい姉がいました。
そんな姉にも辛い世の中でした。
リスカも何度もしましたよ。
そして死んで逝きました。

 もう、これ以上、やさしい人がいなくなるのは耐えられない。
そこで凹んでいるやさしいあなた、
お願いですから、自分より先には逝かないで下さい。

ハハハッ・・・・・最後は結局本音が出ましたね。
そうです。
自分より先に逝ってほしくないのです。
やさしい人がいなくなるのはもうイヤだ。


やさしい人のことをもっと皆んなが受け入れてくれるといいんだがな。
やさしい人がもっと凹まないでいい社会になるといいんだがな。


お願いだから、もう誰もいなくならないでくれ。



明日は姉の詩でも載せようか。




姉のこと、家族のことは過去に書いており、詳しくは割愛。 http://blog.goo.ne.jp/zooquie/e/a0cc000522a56568c2fb875397fc024b http://blog.goo.ne.jp/zooquie/e/1215779a1b30fd1af4fae478b0e113dc

インド農民の自殺

2006-06-23 07:49:52 | 死・自死
経済成長だけをみると、既に先進国と言ってもいいインド。

しかし、貧富の差はあまりに広い。

長い歴史のカースト制度が表面上無くなったとしても、地方農民の意識の中には、以前根強く残る。
天候が思わしくない年、下層の農民には成す術が無い。
そんな中での借金。
貧困の暮らしに追い討ちをかける。
死ぬしかないのだ。
自殺をすることでしか解決できない、貧困。

ITやらバイオやらで世界に進出する多くのインド人。
彼らはあくまでもエリートであって、一握りのインド人なんだろうな。

農村部は国土の7割以上。
そこでは借金苦の自殺が減らない。
そこでの貧困は改善されていない。

自殺者対策ってなんだ

2006-06-21 07:37:21 | 死・自死
日本の自殺者は8年連続で8万人を超えているそうだ。
政府が対策に関する法を作ろうとしているらしい。

以前にもこういう話題で色々書いたけど、やはり考えてしまうので、また書こう。

前の時にも書いたような気がするが、自分はかなり昔にNHKで放映された「冬構え」というドラマの主人公に共感する。

かなり心身に衰えを感じている笠智衆演じる老人が自分で生きることを終える準備をし、自ら命を絶つ。そういう話。
子供の頃に観たので、多少の解釈の違いはあるかも知れないことは断っておく。

自分はそういう形で死を選択することは、それはそれで一つの自由だと考えている。

自殺者のすべてが、生きることが苦痛で、社会生活を続けられずに死んで行っているとは限らない、という解釈。
それでも、生きることが苦痛で、社会生活を続けられずに死んで行く人も、きっと多いのだろうと思う。

自分の日々の生活を組み立て直すことも、相談することも、ひとり自分を省みる余裕さえ無くなってしまったとき、何を支えにしたらいいのだろう。
8万人を超す自殺者がいるのなら、8万を超す解決策が必要だということだ。

人の心の動きについて統計を出すことはできない。

だから、政府が自殺対策に動くとしても、統計や前例で簡単にマニュアルを作ったりしないで欲しい。

確かに人の心が追い詰められていくには社会的要因ももちろんあるだろう。政府が動くのも正しいと思う。

しかし、命を絶ってしまった人々から意見を聞くことはできないんだ。
残された周りの人々が自殺者のことを正しく語れるとは思えない。
意見を集めてマニュアルを作るようなことだけは、絶対に避けて欲しい。

「人」に必要なのは、マニュアルではなく 「人」なんです。


人の話を真剣に聞ける人。相手が求めるとき、いつでも、どんなに長い時間でも話を真剣に聞ける人。

仲間だと思える人。自分と似ている弱さを持っていると感じられる仲間。

信用できる人。自分が不安のままを語ったその扉の向こうで、その話を笑い話に変えて他人に話す声が聞こえたら、更に気持ちは凹み、誰も信じられなくなる。笑い話じゃなくても同じだけどね。第三者に話すなんて最低だよ。

ちっぽけな人。長年の社会経験で、自分に自信を持ってる人は、自信を失いかけてる人のことを無意識に見下したモノの言い方をする。逆に長年の社会経験で、自分がいかにちっぽけな人間か分かってる人には、話しをする気になるだろう。人の痛みを理解しようとしてくれそうだから。

ガーナの棺おけ

2006-06-13 07:41:08 | 死・自死
この間、Netでニュースを読んでおりまして、
非常に興味深いニュースを発見したワケです。


アフリカ西部のガーナの話なんですが、主題は「棺おけ」。

ガーナでは葬儀は特に重要な儀式という位置付けのようで、
1950年代から "芸術的" な棺おけが流行し始めたらしく、
「コカ・コーラの瓶」、「車」、「魚」、「聖書」など、
様々な形のカラフルな棺おけが、
年間所得さえ上回る値段で売られているらしい。
棺おけを製作する人に、亡くなった人の写真を見せたり、
生前の話をし、こと細かく装飾を指示する。

年間所得を上回る棺おけですよ。


文化や習慣、宗教によって、死者の弔い方も様々なのだなぁ、
と、あらためて認識した次第です。

旅行記 『オラ!メヒコ』より  -等しくすばらしい-

2006-05-12 07:48:22 | 死・自死
『オラ!メヒコ』
著者 : 田口ランディ + AKIRA

「生きていることへの優越感もあった。私は死んでない。生きている。もしかしたら選ばれた人間として……って。そして、そう思い上がっている自分のことを許せない自分がいる。その罪悪感。でも見て、この死者の祭を……。私の悩みなんて頭でっかちの日本人のたわごとだよね。生きていることも、死んでいくことも、メキシコの人たちにとっては等しくすばらしいことなんだよね。死ぬことは、負けじゃないんだ」

こんな風に考える人もいる。

小説 『スリーパーズ』 より

2006-03-31 22:28:36 | 死・自死
当時のアメリカ合衆国がここにある。

 やがてオハイオのケント州立大学でデモに参加した学生たちが殺されたり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやロバート・F・ケネディ上院議員が暗殺されたり、ジョージ・ウォレス知事が背骨に凶弾を受けたりといった大きな事件が、相次いで起きるようになる。
 アメリカじゅうの都市が熱い炎に包まれ、焼かれようとしていた。
 フリー・セックスがファッションのようになろうとしていた。
 麻薬が常習者だけの問題ではすまなくなろうとしていた。
 アメリカそのものが時限発火装置のついた爆弾になろうとしていた。

・・・・・・・・・・

 人生で簡単に手に入れられるのは死だけだ。それはヘルズ・キッチンで子供がまず最初に学ぶ教訓のひとつだった。



原題 : SLEEPERS
作者 : ロレンゾ・カルカテラ

死後硬直の過程

2006-03-19 22:17:55 | 死・自死
 人間は死んでしまうと、筋肉の大半が弛緩する。最初に弛緩する筋肉は顎の部分といわれ、死体の下顎はだらりと下がって口が開き、姿勢によっては舌も出てしまう。顔の筋肉が弛緩すれば表情は柔和になり、死者を見る近親者を多少なりとも安堵させる。しかし、その後に筋肉の収縮が始まると、顔つきは歪み、苦悶の表情に変化する場合がある。筋肉が硬化する死後硬直が始まる時間は個体によってまちまちだが、死後硬直によって完全に固まってしまうのが、一般的な死後の経過である。

引用です。何の本だか忘れました。

友人依存故の我儘

2006-03-14 22:00:48 | 死・自死
何をやっても上手くいかない時は、あれこれ考えても上手くいかない。それでもあれこれ考えてしまうし、どーしょもない。薬でどうにかなるうちはそれもアリだろう。(人は "ほどほどに" と言うだろうが...)

 でも、手首を切るのだけは止めてくれ。

どんなに凹んだMailをもらおうが、暴言を吐こうが、そんなことは構わない。
とりあえず生きてくことだけは止めないでくれ。
ちょっと落ち込んだだけならいい。
ちょっと衝動的になっただけならいい。
でも、そんな弾みでも命は止まることがある。
私のわがままなのは百も承知だが、頼むからいなくならないでくれ。それだけが怖いんだ。
何の責任もとれないけれど、自分は友人依存症なんだ。

とにかく、とりあえず、いなくならないでくれ。

友人依存

2006-03-13 23:07:42 | 死・自死
前にも書いたけど、今はもう自分には家族がいない。だから自分は友人依存症になっている。頼れる親類がいないから、何かあったら友人しかいない。普通の人が肉親に依存するだろう部分も、自分の場合、友人に依存するしかなく、それができないなら自分で解決するしかない。
でも、こんな性格だから、結局解決できずに凹むことばかりだ。だから精神的に友人に依存する割合が普通の人々より大きいのだろう。
相手がどう思っているかは分からなくても、自分は一方的にすぐに親友だと思っている。いなくなるのが怖い。
だからといってマメな方ではないので、電話もMailも手紙も書かないけど、でもやっぱりいなくなるのが怖い。
友人がいないと何も解決できないし、自分にとっては、みんなにとっての家族と同じくらい友人が大切だ。
一方的な依存ではあるけれど、居てくれないと困る。

 自分は友人依存症だ。

だから、いなくなられると困るのだ。
そんなに友達が大切なら、もっと友達の為にとか、相手を心配してとか、そういうことが出来ないといけないのかもしれない。
でも、自分は結局自己中心型の人間だから、自分の為にしかものが言えない。

前にも書いたけど、姉も友人も自殺してる。自分は既に姉より長生きだ。

もうこれ以上自分の周りから人がいなくなるのがイヤなんだ。

意味の無い孤独

2006-02-26 18:32:52 | 死・自死
 自殺をする人がいる。
 「孤独だ」と言って死んでいく人がいる。

 その人がどんなに人気者だとしても、「孤独だ」と感じてしまうらしい。そして、死んでいく。皆がその人を慕っていても、それでもその人は「孤独だ」と感じる。自分の居場所が見えなくなっているのだろうか。大勢の人が慕っているにも関わらず、自分の存在に意味を感じなくなってしまうのだろうか。成功したように見える人、いわゆる有名人・著名人となり、人にチヤホヤされ、欲しい物を手に入れ、大金も手に入れた人。それでも孤独に耐えられないのか。
 人は元来孤独のはずだ。だれもが、日常の中で孤独を感じる事がある。それでも、その度に人が死んでいるワケではない。その孤独を孤独だと表現することに自己満足を覚えることさえあり、孤独を友人に吐露することで孤独を紛らわすこともある。
 それなのに、「孤独だ」と言って死んでいく人がいる。孤独でいることに疲れてしまったのだろうか。それとも孤独でいることが無意味に思えしまったのだろうか。
 人に孤独だ孤独だと吐露することにも飽きて、ひとりで孤独を噛み締めることにも飽きて、孤独でいることがつまらなくなったのだろうか。そして「孤独だ」と言って死んで行くのだろうか。

 自殺をする人がいる。
 「生きることに意味が無い」と言って死んでいく人がいる。

 その人がどんなに人気者で楽しい人に見えても、「生きることに意味が無い」と感じてしまうらしい。そして、死んでいく。皆がその人を慕っていても、それでもその人は「生きることに意味が無い」と感じる。自分がやりたかった事、やりたい事が見えなくなっているのだろうか。大勢の人が慕っているにも関わらず、自分の存在に意味を感じなくなってしまうのだろうか。
 生きることは元来意味のあることばかりではない。日常の中で意味が無いと感じる事もある。それでも、その度に人が死んでいるワケではない。その意味の無い現状を人に愚痴ることに自己満足を覚えることさえあり、つまらない自分を肯定することさえある。
 それなのに、「生きることに意味が無い」と言って死んでいく人がいる。意味が無いこと自体に疲れてしまったのだろうか。それとも意味が無いという状態に孤独を感じてしまったのだろうか。

 「孤独だ」と感じる人が、それ自体を意味が無いと感じてしまうと死にたくなるのか?
 「生きることに意味が無い」と感じる人が、そのことに孤独を感じてしまうと死にたくなるのか?

 きっと、「孤独だ」と感じることと「生きることに意味が無い」ことのどちらか一つなら、人は死を選ばないのかもしれない。もう一つくらい改善策が残っていそうな感じがするのかもな。
 でも、その両方が自分の中に根を張ってしまうと、どちらか一方がもう一方の背中を押してしまうんだろう。
 どちらか一方を手にしてしまった時、もう一方を手にしないうちに、自分を動かせるといいんだけどな。そんな余裕あるだろうか。

 人は死ぬために生きている。だから、生きることに不満足な死に方はしたくないんだよな。できることなら、気持ち良く死を受け入れたいものだが、無理だろうな。


 何だか、ワケの分からない文章ですな。支離滅裂。しかし、書きたいことを書くと決めたBlogなので、書きたいままに書いてUPしてしまいます。

肉をつくる

2006-02-04 02:04:03 | 死・自死
昨日の "肉を食べない" 話に関連して、
鶏を鶏肉に、牛を牛肉にする現場を取材した記事について。

あまりにも長い記事なので、抜粋も要約も不可能です。
本当なら、肉になる過程すべてをここに載せたいところですが、難しいので、実際に作業している方と取材した記者自身のコメントを中心に。


種鶏場から送られてきたコンテナかごの中で順番を待つ雌鳥をのぞくと、かごの中で卵を産んでいるものもいた。間もなく死ぬというのに、鶏たちはその瞬間も日常の「生」の営みを続けていた。

肉に依存した食生活の一方、その肉がどうやって生み出されているのか知っている子どもはほとんどいない。多くの大人も漠然と理解してはいても、故意にそこから目をそらそうとしている。あたかも肉は最初から肉として、そこにあったとでも言わんばかりに。そうやって「いのち」がどんどん見えなくなっていく。

味がよく、価格の高いサシ(脂肪)の入った肉にするには、牛の血統選びから始まり、飼料の種類や与え方など徹底した管理と工夫が要求される。それが動物の生理を超えると、機能障害を引き起こす原因になったりもするのだ。廃棄率も高いらしい。

銃撃場に引かれていく時の牛の目や、屠室で逃げ回る豚や、掛け金に吊るされる時の鶏の低抗は、我々が犠牲にしたいのちがその動物にとってかけがえのないたった一つのいのちだったことを物語る。

牛などを屠畜する仕事は厳しい差別にさらされてきた。「死」が表面化することによって心の平安が乱されぬよう、それを覆い隠そうと世間がする限り、この仕事への偏見は決してなくなりはしない。

屠畜の仕事に長年従事している被差別出身の男性
「私自身、缶詰工場と言われて入ったもんでね。もうすぐ(缶詰工場に)なると言われたけど、いつまでたってもなりゃせんかった。そういうことにしとかなきゃ、なり手のなかったとでしょう。動物のいのちを断つなんて夢にも思ってなかったもんだから、たまがったよ」

そうやってつくられた肉は、日本人の貴重な蛋白源、エネルギー源となり、戦後復興や高度成長を支えた。だが、その肉をつくっていた人々に、世間はひどい侮蔑の言葉を浴びせかけた。

汚水や悪臭防止などの環境対策は大きく進展し、衛生面でも厳しい対策が施されるようになったにもかかわらず。そこには目的など一切問わず、動物のいのちを断つ行為を「悪」であり、「穢れ」であるととらえる日本人に染みついた偏見が横たわっているのではないか。

人が生きるために他の生き物のいのちを奪うことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。その混同が差別や偏見を育て、混同に墓づく「死」の隠蔽が、食べ物を粗末にし、いのちをないがしろにする今の風潮や自然破壊的な文化を助長してきた。何の痛みも労いの感情も抱くことなく、思う存分他のいのちを浪費できる社会である。


"いのちの浪費" 恐ろしい言葉だ。
"もったいない = セコイ = カッコ悪い" という感覚。
"使い捨て = 金に糸目をつけない = パワーがある(その方向性が反道徳的であっても)" という感覚。
"いのち" はコンビニにもデューティーフリーにも売ってないはずだが。

肉を食べない

2006-02-01 22:21:10 | 死・自死
ある時、肉を食べることをやめた。

数年前、ある旅人が書いた中南米の旅の本を読んでからだ。

その旅人はとある田舎町で知り合った男性に、夕食へ招待された。せっかくの客人だからと、自分たちの飼う鶏を出すという。旅人は感謝した。そして庭でウロつく鶏が捕まえられ、絞められ、鍋に入れられ、羽をむしられ、調理される過程をこまかい描写で綴っていた。

私はその時思った。"自分だったら、その鶏が殺され、調理される過程を見た後で食べることができるだろうか?" 何故なら、その描写に対し、"かわいそう" & "気持ち悪い" という印象を持ってしまったからだ。
そして考えた。 "普段は肉を食べるくせに、肉が作られる過程はどうして気持ち悪いと感じるのか?"
そして分かったこと。普段はその "殺めるという不快な作業" に目隠しをしているからだ、と。
そして肉を食べることをやめた。 "殺めるという不快な作業" を意識しても、その尊い命が自分の栄養となってくれることに感謝しつつ食することができるようになるまで。

ペットを飼う人々。当然ペットの死は悲しい。殺したり、それを食べたりなんて考えられないだろう。"かわいそう" と思うだろう。それはそれでいい。しかし、豚や牛や鶏は日々殺され、精肉され、人々の食卓に上る。そこにもやはり命の終りがあるのだ。だからと言って、その死までも悲しむべきだとは言わない。ただ、人でもなくペットでもない生き物を、他人が殺したものなら、それを食べることに何の抵抗もなく、しかも残して捨てたりする。それはどうなんだろう?

その昔、生きるために直接自分で他の生き物を殺めていた頃、人はその命を意識することができていたのではないだろうか。精肉の過程が人の目に触れなくなり、スーパーでのパック肉しか目にしない昨今、そこに多くの生き物の命があったことを意識できなくなってしまったのだろう。だから簡単に食事を残し、テーブルが寂しいからと食べきれない量の追加注文をする。そんな命に対して無意識な日常では、自分と身近な生き物の命しか大切に思えない、他人の命を軽んじてしまえる人間になってしまう。

戦争と似た思考回路なのかもしれない。 (参考: "戦争とは" ↓1/12の日記) http://blog.goo.ne.jp/zooquie/e/29b49ef52dcdb7eb864358956bac59f1

私は、生き物を殺め食材となるまでの過程を意識しても、その尊い命が自分の栄養となってくれることに感謝しつつ食することができるようになるまで、肉は食べない。

授業 「自殺の仕方」

2006-01-24 21:37:22 | 死・自死
今思うと、恐ろしい小学校の先生がいた。

私の小学校5,6年の時の担任の先生は、時々科目の授業を返上して、"雑談" と称し、自分の大学時代の経験談とかをおもしろおかしくして話していた。

しかし、中にはかなり嘘も混ざっていたらしい。
例えば、
「自分の友人が入院しているときに、病院のそばを "アサリ" と "シジミ" を売る車が通り、大きな声で "アッサリ~シジメ" (←あっさり死んじめぇ) と言っていた」 とか。
当時、父にその話をしたら 「それは有名な落語だ」 と言われた。
子供なんて、そんなに落語に詳しいコなんていないから、自分のことのように話したってバレやしないと思ったんだろう。
それに、勉強しないで、おもしろい話してくれるから、生徒たちはみんな "雑談" が好きだった。

嘘ではないが、キョーレツなのは「自殺の仕方」を教えたこと。
子供なんて当然そんな知識はないから、なんでも興味津々で聞いている。
「一番確実に死ぬには手首を切るんだ」
「他のところではダメで、手首は動脈が出てるから、血がたくさん出る」なんて言っていた。

私の時代の小学生なんて、深刻に自殺を考えているコがいるなんて思われていなかったけれど、大人の見えないところで、イジメとかは既にあった。
当時は私も興味津々に聞いていたうちの一人だったが、今思うとソラ恐ろしくなってくる。

今でもあるのか知らないけれど、短大で教師になれる学校を出た先生で、2,3年の教師歴でまだ22,23歳くらいだった。
若いしスポーツマンだったので、生徒にも人気があり、ただただ突っ走ってたのかもしれないな。受け売りの情報を自分のこととして話してしまうなんて。

確かに、団塊の世代ほどではないにしても、私の前後の年代も生徒数が異常に多くて、校庭にプレハブ校舎建てたりしてましたから、先生も足りなかったのかもしれない。

大人になって思い返すと、あんなことを生徒に話していたなんて、と今更ながらビックリ。
あの先生もきっと今は40歳を超えているだろうし、まさか今でもそんな話をしてはいないだろうと、信じたいですがね。

それにしても、あまりにも大人になりきれていない、少なくとも生徒に道を逸らさないように心遣いのできる人間になっていない人をさっさと教師にしてしまって良かったのだろうか。
せめて、子供相手だからって嘘をつくような人だけは勘弁して欲しいですね。子供の時ってなんでも信じちゃうんだからナ。

今の子供たちの心を病んだものにしてしまってるのも、間違いなく大人たちのせいだと思うのです。

究極の自己チュー

2006-01-17 20:52:53 | 死・自死

とある新聞で読んでね、こんなことあるんだなぁと...

自殺防止の活動を続ける民間団体が
シンポジウムを開くという。
かなり前の記事だったから、もう終わってると思うけど。
夫を自殺でなくした女性らが体験を語ったらしい。
単身赴任の夫が電車に飛び込み、自殺した女性。
遺書らしきものには.....
"仕事ができない。全くできない。どうしようもない。
なんでか分かりません。どんどん遅れて全くできません"
「ごめんなさい」と「あかん」が何度も書かれていたそうだ。
周囲には「病死」と伝えていたが、
「なんでうそをつくの」と子どもに問われ、
それを機に「自殺予防につながるなら」と
講演の打診を引き受けたらしい。
弱い人間が勝手に死んだわけじゃない。
追いつめられたのだ。
社会問題として捉えないと、
同じ思いをする人は減らない....

こんな感じの記事です。

私が思うに、"予防" と言ってしまうと、
ちょっと違う方向に行ってしまうんではないかと、気にかかる。

生まれって選べない。国籍、家庭環境、血液型、性別。
1/2の確率の性別さえ選べない。
性同一性障害とかあるし。
生まれ持ったそうゆうもので悩んでるひとも多い。
たぶん性格もそう。 "三つ子の魂百まで" だし。
だから、"死" くらいは選びたい。

そーゆー選択した上での自殺と
突発的に感情的に自殺するのとはひと括りにはできまい。
だから自殺自体を "予防する" という考え方はどーかと。

"選択した自殺" の場合は、熟考の上だし、
その人の生きる苦痛は他人にはなかなか解らないものだから、
"死" くらいは選びたい。 ...そーゆー人もいるだろう。
わかった風な口で相談に乗ると言われても困る。
ただ、それが発作的に行なわれないようにと祈るばかり。
二度ととり戻すことのできないものだから。

後者の場合は、突発的なことが多いから、
たとえ事前に定期的に相談に乗ってもらって、
ある程度落ち着いて行ったとしても、
あるきっかけで一気に気持ちが凹んでしまえば、
そのまま自殺行為に進んでしまえるもんだ。
だから、その瞬間に手を差し伸べることが出来なくては、
事前にどんなことをしてたって、何の意味も無くなってしまう。。。
どんなに沢山のカウンセリングを受けていたとしても、
その瞬間に留守電になってしまうのでは何の意味もない。

上述の記事で言うなら、
当初、周囲に「病死」と言っていたと...、
それって、相手のことを理解しきれていなかったのでは...
と思ってしまう。
それじゃ、確かに、当人が死にたいと思った瞬間に、
手を差し伸べることは難しいんじゃないだろうか。
言ってることキツいですかね?

残された人は確かに辛い。

自殺って究極の自己中だから、
当の本人が死んだ後、周りに迷惑とか精神的負担とかかかる。
それ考えてたらなかなか死ねないね。
だからこそ後者の場合は瞬間が大事なんだよね。
カウンセリングをする側(医者とか)も、すると決めたなら
24h留守電になんかしちゃダメだし、
心療内科の先生は寿退職なんてしちゃいけないよ。

自殺って究極の自己中なんだから、
それを受け入れられるおっきな器がどこかになくちゃ、
減らないんじゃない?

あの・・・そおゆうシンポとかを批判するつもりで書いたワケではないので、気をつけて書いたつもりですが、ヒドイところあったらご指摘下さい。

でも、どうしても書きたかったので、書いてしまいました。


死に至る日々を綴ってみたい

2006-01-10 23:49:11 | 死・自死
自分の死に向き合うとはこうゆうことなんだろう。

APより要約
ロッキーマウンテン・ニュース紙の名物コラムニストの老記者ジーン・アモールさんは25年間、男っぽい文体で、西部の古き良き時代を懐かしみつつ、ロッキーの乱開発に対する怒りの記事などを書き続けていた。
心臓病が悪化した2001年10月末、「死期が近いようだ」と紙面で告白し、それでも週に6本のコラムは休まなかった。
「死に至る日々をつづってみたい」と読者に告げて、死を直視する姿勢を貫き、体力、視力が衰えてゆく歯がゆさを病床からユーモアあふれる筆致で伝えた。
その彼が、2002年5月12日に亡くなり、最期のコラムが13日掲載された。78歳だった。
死後に掲載される予定の最終回もきちんと書き残してあった。
「記者として今までずいぶん小言を書かせてもらったが、もう逝った。さようなら」。 絶筆。


これは "強さ" なんかではないのだろう。
最後の最後まで生きた "美しさ" ではないだろうか。
涙。