今日は、月の出をすぎても、雲がどかず…ダメかなぁと、心配していましたが、今外をみたら、お月様が挨拶に今夜も出てきてくれました。こんな具合に・・・
「えっ、せっかく出たと思ったのに、隠れちゃうの~~~」と声をかけると、お月様が笑いながら姿を現してくれました。
そして、この今日のお月様にズームしてみると、こんな星も一緒に見えて来ました。
あらっ、ブレてしまっていますね。でも、雲が切れてくると、肉眼でもしっかり見つけられるほど明るい星でした。星と言っても恒星ではなく、実はこれ、地球の兄弟星の「惑星・木星」だったんです。
さあ、みなさん雲がうまく切れたところで、「月からこぼれた真珠」といった感じの木星も、今日は見つけて下さいね。時間が経過すると位置が少し変化するので、「あれっ?」と思ったら国立天文台の「今日のほしぞら」を参考にして確認してみて下さい。どんな風に変わるかは、自分で調べる方が楽しいと思うので言わないでおきましょう。
ところで、今日、私は去年亡くなった叔母の1周忌の法要に日蓮宗のお寺に行ってきました。そこで、ご住職が叔母が女性なので、「南無妙法蓮華経」の38ページの〇〇のところから一緒にご唱和下さいというので、意味を手繰りながら読んで行ったのですが・・・読んでいて、目が点になりました。
と言うのも、(女性は、成仏するのに問題がある。でも、女性は〇〇の理由で速く段階をへることができて、男に変わっていくことを経て仏になれる???)短時間で難しいお経の言葉を理解できなかったけれど、何だか女性差別から一転して男性に変身して女も救われるというようなことが書いてあるようだったからです!
そもそも南無妙法蓮華経の南無は何で南で無いのだろう???「南」って何か特別な意味があるのだろうか。これまで、眠たくなるままに、お経を聞いている時は目をつぶってやり過ごしてきたのですが、急に疑問がフツフツと湧いてきて、帰宅してさっそく調べてみました。
すると、「南無」については、敬意、尊敬、崇敬をあらわすサンスクリット語の間投詞「ナモ(नम namo)」を音写したもので、「南」の意味はないようでした。(ココから)
そして、女性問題に関しては、資料があちこちから出てきて、例えばココでは、長かったので大変でしたが、非常に面白く説明がされていました。
NHKの教育番組で駒沢大学田上太秀名誉教授が話ていらっしゃるのですが、ちょっとだけ抜粋してみました。
>本来は男女関係なくブッダになれる。『涅槃経』もそのように仏性というものを通して説いてきているんですけれども、この新しい『涅槃経』は、釈尊が男女差別なく成仏すると説いたもの、それを仏性を説いて行道したのに、この『涅槃経』を創った人、いわゆる自分で書いた人が手を加えて、女性を差別するような、当時のインド社会における女性の蔑視、あるいは差別、そういうものの観念からこういうような言葉を入れているところがあるわけです。
そうか、最初は差別がなかったのに、インド社会の現実が仏教を歪めていったのか・・・。
>女性蔑視を象徴するような内容のもの、あるいは表現が仏教の中にも出てまいります。そういうのがいわゆる「女人五障(にょにんごしょう)」というものなんですが、女性には五つの障りがある、という考え方ですね。(中略)
女性はブッダ(阿羅漢(あらかん))になれない。あるいは帝釈天(たいしゃくてん)になれない。転輪聖王(てんりんじょうおう)になることもできない。魔王(まおう)―魔と言っても神々の上の方ですが―なれない。あるいは梵天(ぼんてん)になれないとかという、五つのそういう身分、地位になれない、というふうに説くわけです。その中に、「ブッダになれない」というのがあるんですね。こういう五つの身分、地位になれない、と言って、それを女性蔑視したのは、女性は本来生まれた時から男よりも劣るものである。
あっ、私が今日唱えた「女性は成仏できない理由」として書かれていたのは、確か5つ挙げられていたから、これだったのかもしれない!
>でも明らかにそういう考え方というか、差別は、仏教が一番基本的に大事に多分きっとしているであろう「誰でも仏になれる」ということとは、当然矛盾するわけで、つまり女性も成仏できるのだ、ということで、いろいろ考えられてきた
>男にならないとできない。仏になれない。成仏できない。つまりブッダになれない、というんであるから、これができないのであれば、女性はまったく無縁のものかというふうになります。釈尊の説法は、じゃ、無意味である、というふうになります。そこで考え出されたのが「変成男子(へんじょうなんし)」(男子に変身すること)
どうやら、私の読んだお経では、女性差別をしないために、この辺のことを(女性は成仏できないのではなく、ちゃんとできる)という説明をしていたのか~と分かった。(ちゃんとステップを踏めば、女性も男性に変身して、目出度く成仏にいたる)、そんな話の運びで終っていた。
>女性はどんなことであれ、究極的にはブッダになれるんです。何故なら、仏性があるから。ですけれども、そうは言っても、これを女性の身体というものをもっている限りは、ブッダにはなれません。(中略)究極には、最後には成仏できますけれども、女身を持っている限りはダメです、と。ですから、その「女身を」と言った時に、どうするかと言った時、頭を丸刈りにする。男心を学ぶという、こういう変身。(中略)女の身体のままでいいんですか、と言った時に、これはそうはいきません、と言って、そこで条件を付けているんですね。
他の色々なサイトを見ても、女性信者のために一端差別の考えが入り込んでしまった仏教界で、女性差別を徐々に取り払おうとして努力だんだんされて来た。そんな経緯が読み取れるお経に、今はなっている。そういうことが、分かって来ました。
確かに、仏教界ではどこの国でも僧侶は男性のようです。女性は「尼僧」になることはありますが、その時は頭を剃る。瀬戸内寂聴さんがそうだし・・・と何だか非常に分かってきました。と、言いたいところですが(男子に変身しないと成仏できない)という考えには納得しかねた私でした。尼僧になるために頭を剃った寂聴さんに、その辺をどう考えたのかを、機会があったらお聞きしたいと思いました。
さてさて、黙って目をつぶって眠っていては気が付かなかった男女差別の痕が強く残るお経。今日は目をつぶらず括目してみたおかげで、仏教についてひとつの流れを理解することができました。
黙って目をつぶっていては、日本の社会もどのような差別や問題のある社会になるとも分からない昨今です。下手したら、「セクハラは犯罪でない。女性記者がハメタのではないか」と平気で発言する大臣が居座る社会が現実です。「女性は、目をつぶってなどいられない!」と再認識した私です。男性も女性も、しっかりと今何が起きているのか、注視して行きましょう!!!
<男女に限らず、国、人種、生まれ、あらゆる差別がなくなった時に、初めて人間は本当の幸せを手にすることができる>
私は、そう信じています。あなたのご意見はいかがですか?