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「神の国」とは心の一状態(意識の一状態)なのである。誰もが“自己の本体”としてもっているが、その事実を自覚した状態が「神の国」である。

2020-11-30 10:57:13 | 日記
「神の国」とは
心の一状態(意識の一状態)なのである。
心の状態の最上レベルなのである。
心の在り方を変えれば達することが
できるのである。
誰もが自己の本体としてもっているが、
その事実を自覚した状態が「神の国」である。
(奇蹟の時は今 J・Eアディントン著・谷口雅春訳)
【パリサイ人はイエスに対して“神の国は何時来るか”ということを話してくれるように求めた。そのときイエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(ルカ伝第17章20~21節)と答えたのであった。イエスはこれ以上に解りやすく答えることができたであろうか。彼は“神の国”の所在を示したのであった。言い換えれば、“今此処に”神の国は“われらの内”にあると言ったのであった。
J・B・フィリップ氏は聖書のこの部分を翻訳して次のように書いているのである。
「神の国はそれが来るのを期待して待ちのぞんでいることによっては決して来たらないのである。人は“此処に天国がある。“あれが”それである”ということはできない。神の国は汝の内にある」(ニューヨーク。マクミラン社1955年版 J・Bフィリップ著『福音』より)
 天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。そのことはこの偉大なる“主の祈り”に如何にもハッキリあらわれているのである。神はわれわれすべては同じ父を分ちもつのである。それだから“天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である、そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えることはできなくなるのである。】


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