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“南無阿弥陀仏”と“神想観”・・・神想観とは結局”南無阿弥陀仏”を”観”において実現する行事であるのである。

2020-05-13 11:17:11 | 日記

“南無阿弥陀仏”とは

わたしたちが本来〝ホトケの子”であって、

仏子が如来なる親様を呼びこれに縋ることによって、如来と一体になる行事である。

イエスの「内なる神の許に往く」と

同じである。

神想観も‟神の子”が‟神”と一体化し、

神に一切を委ねる行事と言えるのである。

(参考 如意自在の生活365章 谷口雅春 日本教文社)

【法然上人は”南無”を”帰命”と解されて、〝南無阿弥陀仏”の称名念仏をみホトケに縋り帰依することばによって、わたしたちが本来〝ホトケの子”であって、仏子が如来なる親様を呼びこれに縋ることによって、如来と一体になる行事であると解されたのである。親鸞聖人は、さらに進んで”帰命”を「われに縋れ」「われに縋ってわれとひとつになれ」という如来からの勅命であると解されたのである。いずれにせよ、”南無阿弥陀仏”の称名念仏の行事において、内在の仏性が開顕して、本来ホトケであるところの人間の実相(ホトケの種子―神の子)が発芽する契機を見出されたのである。ここに神をもとめるわれらの最も重要な点に到達するのである。それは人間はすでに、実相においては”神の子”(仏子)であり、”神の子”というのは、ほかならず”神そのもの”(如来)であるということである。その重要なる一点を踏まえて、生長の家では神想観という実相顕現のための観行を修するのである。神想観とは結局”南無阿弥陀仏”を”観”において実現する行事であるのである。】

 


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