夜の九時からテレビでスウェーデンの映画を見た。
父親と母親、それに10歳になる娘と5歳くらいの息子、4人の平和な家庭。ところが父親が、職場の同僚と関係を持っていることが発覚し、家庭が激変する。激怒する母親と、我が道を進む父親。そんな夫婦の仲を一番嘆くのはその娘だ。多感で何が家庭の中で起こっているのか、ちゃんと分かっているのだが、それでも何も知らないフリをして両親の仲を取り戻そうと努力する姿がとてもけなげ。相手の女性とその連れ子を巻き込んだドラマが展開していき、最終的には、父親はその女性と結婚し、子供は交代で面倒を見ることになり、子供同士も義理の兄弟となっていく。そして、それぞれが現実を受け入れて、お互いを認めあっていくというストーリーだ。バラバラになっていく離婚する家庭を、子供の視点から描いたという点でとても新鮮だった。
スウェーデンの離婚率は50%に近いが、ということはかなり多くの人々が両親の離婚を経験しているということだろう。夫婦の仲がマンネリ化し、できごころが出てくるのが結婚して10年目くらいとすれば、子供がちょうど物心ついた思春期の時に親が離婚をするという家庭も多いと思う。映画のなかでうまく描かれていたが、父親と母親の間で宙ぶらりんになってしまう子供の姿がとても哀れだ。父親と一緒に過ごしたくても、新しい“お母さん”をどうしても受け入れることができず、父親に当たり、逆に母親と過ごしたいと思っても、母親は子供を人質を取るようにして父親から遠ざけようとするから、今度は母親に当たってしまう。結局、子供にとっての居場所がなくなってしまう。
両親に心を打ち明けられなくなった娘の相談相手は学校の養護の先生。両親が再び仲良くなって、父親が家庭に戻ってくれることをまだ諦めきれない娘はこう言う。「お父さんは、新しい女の人とイチャイチャして幸せそう。それなのに、お母さんは今じゃ独りぼっち。」 それに対して、養護の先生はこう答える。「分かんないよ。お母さんだって、新しい人を見つけるかもしれないよ。」 ゴタゴタの渦中で嘆いている娘に対して、とても無神経な発言と思ったが、離婚率とともに再婚率も高い社会では、そういう言い方も許されるのかと思った。
それにしても、両親とは週交代で代わる代わる会わざるを得ず、相手の女性やその連れ子とも人間関係を築いてやっていかなければならず、もしかしたら将来、新しい“お父さん”と同居することになるかもしれない。そんな世の中で生きていく人々はとてもたくましく成長していくのだろうと思う。『安心社会と信頼社会』(中公新書)の中で、アメリカ社会と日本社会が比較されていた。ゲームを使った興味深い実験の結果に分かったことは、アメリカ人は一般的に、はじめて会う人とでも短い会話を通して相手がどの程度信頼できるかを見抜き、自分との距離感を上手にはかりながら人間関係を築いていくことができるのだそうだ。それに対して、日本人ははじめて会う人間の心ををなかなか見抜くことができず、たとえ信頼できると判断してもだまされてしまうことが多いそうだ。いろいろなスウェーデン人の学生を見てきたが、彼らはまさに前者だなと思った。誰にでも相手の人間によって得手不得手があるものだが、不得手の相手でも会話を通してなめらかな人間関係を彼らは作っている。それは、このように常日頃からいろいろな人と忙しく接する中で、人間関係における“護身術”が備わってくるからだろう。
それと同時に、彼らには甘えられる場所がないのではないかと思う。無条件で愛情を注いでくれる肉親以外の“他人”が常に家庭の中にいるのだから。大人になってから精神的に参ってしまって、道を誤ってしまう人々の中には、幼少期に親の愛情を受けられなかったり、甘えることができなかった人々が多くいると思うけれど、スウェーデンのように多くの人々がこのような環境で育っている社会では、一人一人が大人になったときに社会現象として問題が起きないのか、不思議に思う。
ちょうど一週間前、スウェーデン人の友人の実家を訪ねたが、ちょうどその晩は家族と一緒に夕食をした。同席したのは友人とその弟、弟のガールフレンドと母親、そして母親のボーイフレンドだった。そして、次の日は弟の誕生日ということで、朝から家族が集まったのだが、朝食の席にいたのは、前の晩と同じく、当の弟と、そのガールフレンド、もちろん母親、そして、今度はそのボーイフレンドではなくて、実の父親だった。つまり“元”の家族が集まり、誕生日を祝ったのである。その弟には家族のそれぞれからプレゼントが贈られたが、その中には席にはいなかった実の父親のガールフレンドからのプレゼントもあった。(面白いことに、父親のガールフレンドの名前は、母親、つまり元の妻と同じKirstin(シャスティン)だった。)
それから、別の友人の場合は、彼が小さいときに親が離婚し、すぐ後に母親の新しいボーイフレンドが家に移り住んできて、それ以来、彼が高校を卒業して家を出るまで、ずっと家族さながら生活してきた。いまでも、休みになり実家に帰るとそのボーイフレンドが一緒に住んでいる。その友人は彼のことをHasse(ハッセ)と下の名前で呼んでいる。何度か実家に遊びに行ったが、Hasseは彼の父親さながらだった。で、実の父親はどうしているかというと、同じ町でそれまた別の女性と住んでおり、その女性には連れ子が二人いて、年齢がその友人とだいたい一緒。クリスマスだとか夏至祭には、実の父親の“新しい”家族とともに過ごし、義理の兄弟とも仲良くしているのだそうだ。
そうやって、家族の中に“家族でない人々”が出入りして、家族と他人の境界がだんだんなくなってくる。そうなると、実の肉親も半ば他人として扱うようになってくるのではないだろうか。こうなってくると、日本で生まれ育った僕には訳が分からなくなってくる。
そうそう、映画のタイトルは ”Alla Älskar Alice”「みんなアリスを愛している」 最近はスウェーデンの映画もWOWOWなどで日本語字幕で放送するようになってきたから、日本でも見られるかもしれない。2002年製。日本でのタイトルは不明です。
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