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我が家の畑と庭に咲く花


我が家の畑と庭に咲く花を撮った。
育てる苦労はあるものの、癒やされるから止められない。
のどかで静かな春の1日。
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大田区にある新田神社


今回の東京散歩は大田区にある新田神社だ。
JR蒲田駅から東急多摩川線で「武蔵新田駅」に行く。
南に歩いて5分ほど、目指す神社があった。

この神社は、新田義興の怨念を収めるため村人が墓前に祀ったのが始まりという。
義興は義貞の次男にして、南朝の復興を目指し勇猛に戦った。
恐れを成した敵将足利基氏は竹沢右京亮・江戸遠江守らに命じて卑怯な計略をめぐらす。
竹沢・江戸は味方を装い、多摩川の中流で義興軍勢の舟を沈めた。
あわてふためく義興軍に、竹沢・江戸は切り込んで、義興は自刃したという。

その後、義興を裏切った人たちは次々と狂死することになった。
また、怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、村人たちを悩ました。
そこで村人によって墓を築き祠を建てて新田大明神』として広く崇めることとなったという。
この物語は、江戸時代、平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」となった。

神社に入ると大きなけやきの木が目立って存在する。
樹齢700年に及ぶというこの大木は、江戸時代の落雷でも枯れなかった。
昭和20年4月の東京大空襲の爆弾で社殿や町も全焼したのに、この木は枯れなかった。
しかも、古木上部には、とても珍しい「宿り木」もついていて、早春に淡黄色の花が咲く。
そのため、この御神木に触れると「健康長寿・病気平癒・若返り」の御利益を授かるという。
熱心に拝み、触っているご婦人(推定50歳)がいた。
若返りを願っているのだろうか。親父は健康長寿を願い、ご神木に触らせていただいた。

神社の右手に伏見稲荷の分社があり、江戸時代の村人は五穀豊穣を祈ったのだ。
今、この辺りは都会化され、田舎とは言えない。

神社左手には、うなる狛犬があり、謀略した足利基氏家臣の畑山一族が通ると唸るという。
その側に、コンクリート製の卓球台があり、誰でも使えるらしい。
近所の人たちにも親しまれていると思われる。

御祭神の御塚後部には、源氏の白旗を立てたものが根付いたという篠竹が生えている。
雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという。
江戸時代には、平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守」を作り、広く勧めた。
これが破魔矢の起こりという。以来、この神社で授与している。2本授かり、1本を奉納し1本を魔

除けとする。
若返りを祈願していた先程のご婦人が、買い求めようと祢宜さんを呼んだ。
しかし、破魔矢は年始にしか授与できないと言われていた。

時間があるので、浅草まで足を伸ばし、隅田川の桜を見に行った。
多数の外国人がレンタルの着物を着て写真を撮っていた。
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館林市鶴生田川の桜


暖かさに浮かれて、ひとり館林市鶴生田川の桜を見に行った。
5分咲きくらいだろうか。
何だかうきうきした気分になる。
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今回の東京散歩は、洗足池と本門寺


JR山手線五反田駅から東急池上線に乗り換え、洗足池駅で降りる。
中原街道を挟んで、駅の向かいが洗足池だ。
案内図に従い、右回りに池を巡ることにする。

池月橋という朱塗りの太鼓橋を渡ると、そこは千束八幡神社。
安房国から鎌倉へ向かう途中、源頼朝がこの地に宿営した時、たくましい野生馬が現れた。
この馬を「池月」と名付け、後に戦功を成したという。

池の北に弁天島があり、朱塗りの弁財天がある。
池の守護神ながら長い間池の中に没していたのを昭和9年に再建されたという。

水生植物園を過ぎると桜広場だ。
開花宣言はあったものの、まだ寒く、サクラは蕾。
気の早い人たちが花見の宴を開いていた。

すぐ近くに西郷隆盛の留魂碑なるものがあり、右隣には勝海舟の墓があった。
明治維新後、池を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したという。

妙福時に立ち寄る。
古くからこのあたりの地名は「千束」だった。
しかし、後に日蓮が池の畔で足を洗ったことから千束の一部が「洗足」となったという。
日蓮が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残る。
境内に日蓮上人の銅像もあった。

時間があるので、洗足池駅から池上駅に行く。
前にも訪れた本門寺に向かう。
前回、力道山の墓に立ち寄らなかったのが心残りなのだ。

長い階段を上り、まっすぐに力道山の墓に行く。
関係者なのか、ご婦人(推定50歳)がお参りに来ていた。
神妙なので声をかけず、本堂や日蓮聖人の墓など見て帰途に着いた。
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