演劇コース10期生 卒業公演
『コインランドリー マーメイド』
初日、行ってきました!
コインランドリーを舞台に
始まる話だけど、
服の記憶を中心に
場所や時間を越えて
様々な人の話が入り乱れ、
不思議な感覚に。
私たちは生きてる限り
いつかは消えゆく存在。
けれど残されたもの、
汚れや染みであったとしても
それはきっと唯一無二。
そう思うと愛おしくも感じられた。
…………………
誰がどの役というより
服を着替えるように
セリフが入れ替わったり
場面が繰り返したりして、
無限ループに
迷い込んだような感覚だった。
観劇していると、どこかの部分に
共鳴することはよくある。
けれど今回のは
宙に放り出されるような
感じだった。
幽体離脱して
その状況をみているような。
一人の人間として
何かに執着するより、
生命体のひとつとして存在し
やがて消滅していくような
感覚でもあった。
自然の摂理からいえば
もっともなことかもしれない。
けれど
後悔や怨念でもいいから
その人ならではの
何かがあってもいい。
観ているうちにだんだん
そんな気持ちになった。
葬式帰りの人が立ち寄る酒場、
というのがあった。
昔語りは、
時に不毛かもしれないけれど
心の染みも愛おしくなるような
場所のような気がして
何だかいいな…と思えた。
………………
10月半ば、
私の父が亡くなった。
やはり脳裏には
そのことがあって、
それ無しに観ることは
出来なかったと思う。
入院から1ヶ月半。
短い期間を嘆く気持ちもあれば、
長期に渡って壮絶な場面を
お互い経験せずに済んだ
という気持ちもある。
両方の気持ちはあれど、
すべて納得して
清々しい気持ちにはなれない。
結局どう転んでも、
どこかにそれぞれの場合の
悔いや悲しみは残る。
救いがないのは、
それを誰かと
完全に共有できないことでもある。
ある程度、
推し量ろうと努めたとしても
分かりきることは難しい。
家族のような
身近な存在だとしても、
同じ人間ではないのだ。
それでも
近づける要素がないかと思う時、
この舞台の中に見る服の記憶と
どこか重なるような気がした。
誰かが手に取り着てみたり、
その記憶をカタチにすることで
救われるものを感じた。
過去が変わるわけでもない。
相手は
時代も環境も背景も違う人たち。
けれどその体を通して
思いが紡がれることで
血が通うものを感じられた。
観る自分は
ほんのひととき。
けれど演じる皆さんは
創り上げる過程を共にしてきた。
別の人の
人生を演じるということは、
生身の自分が背負うもの、その上に
更に背負うものが増える
ことでもある。
その重さも
少しは分かるつもりでいる。
それを思うと
違う面からも胸が熱くなった。
人と人との違いをこえて
共に生きるために
何か出来ることは
あるかもしれない。
そんな希望も感じられた。
これから
新たな場所へ向かう皆さんと
共に一歩を踏み出したい。
そんな気持ちで
大きな拍手を送った。
ありがとうございました!
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