自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

風呂敷

2012年05月24日 | Weblog

 学生の時、中国文学の若い先生・高橋和巳の講義に出た。三ヶ月と続かなかったが。(小説家・高橋和巳を知ったのは後である。)
 その和巳先生が本を風呂敷で包んでわりと早足で歩いているのを思い出した。風呂敷の長老の先生は二人はおられたが、和巳先生はまだ30代後半だった。
 ところで、風呂敷という言葉が気になった。なぜ風呂敷というのか。調べてみた。風呂敷とは風呂の敷物であった。もともと日本の風呂は湯船がある風呂ではなく、蒸し風呂で寺院にあった。前者は湯と言い、後者を風呂と言った。風呂に入るには礼を失っしないように、一定の着衣を要した。その脱衣を包むのが風呂敷であった。他人の物と間違えないように家紋や家号の類を染め抜き、又、浴後にはそれを敷いて座したと言われている。しかし、風呂敷という名前は江戸時代以降の事で、それ以前は平包、古路毛都々美などと言ったそうだ。が、形は四角形のままだった。風呂敷で物を包むということは、包んだ物を運ぶという機能と、その物を大切に扱うという人の心の現われである。
 因みに、「包」という字の成り立ちは、勹に己と書く。勹は母体を意味し、己は自分を表す字である。つまり、「包」は母体が子を宿し育むことを意味する字である。僕らは母体に包まれ命を宿し、生まれた後は、もともとは、自然に包まれ、四季の風情を愛でて生活してきたはずだった。近頃は、包まれるという事を何処かに置き忘れて忙しく生活している。風呂敷という言葉の由来を調べていて、考えさせられるところがあった。