後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

懐かしきイギリスのスポーツカーの写真をお送りします

2014年09月14日 | スポーツ
1960年にオハイオ州立大学に留学したのですが、そこで多くの学生たちがイギリスの華麗なスポーツカーを乗り回していたことに驚きました。
博士課程のアメリカ人の同級生のジョージ・オートンさんも下の写真のイギリス製のスポーツカーを持っていました。
彼は空軍大佐でにB29に乗って数十回も日本の街々の焼夷弾攻撃に来た人でした。
とても親切で、下の赤いイギリス製のスポーツカーに私を乗せて何度も彼の家に招待してくれました。彼とは終生の親友でしたが数年前に亡くなってしまいました。

このスポーカーは神経質な車で運転が難しそうでした。気難しい貴婦人のような雰囲気のある車でした。
先月の8月28日に河口湖自動車博物館に行きましたら、この懐かしい車が展示してありました。そしてオハイオで学生がよく乗っていた同年代のイギリスのスポーツカーも数種類展示してありました。
1960年代の大人のアメリカ人は豪華なアメリカ製の大型乗用車に乗っていましたが、学生たちは中古の1950年代の車か比較的安価なイギリスのスポーツカーの乗っていました。
私も1953年製のダッジ・コルネットという大きな中古のセダンに乗っていました。あれほど乗り心地の良い車には、その後乗る機会がありません。
下に昔、オハイオでよく見た懐かしいイギリスのスポーツカーの写真をお送りします。
8月28日に河口湖自動車博物館で撮った写真です。

ついでに1960年にオハイオで買った1953年型のダッジ・コルネットの写真を示しておきます。

そして1962年に帰国後、東京で買ったマツダ・クーペ360の写真も示します。

A級戦犯の靖国神社合祀後、昭和天皇は靖国神社の親拝を止めたお気持ち

2014年09月14日 | 社会・経済
「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白鳥までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」


上の文章は昭和天皇が1975年以降、靖国神社へ行っていない理由だと言われています。この言葉は当時の侍従長官の富田氏のメモとして2006年に公開されました。

こんどの昭和天皇実録公開ではこのお言葉は書いてありません。しかし「話があった」とだけ書いてあるそうです。
上のお言葉にある松岡は日独伊三国同盟を作った松岡洋介外務大臣であり、白鳥は三国同盟締結に狂奔した白鳥敏夫外務省顧問でした。
「松平の子の今の宮司」とは元海軍将校で靖国神社宮司の松平永芳氏のことです。彼がA級戦犯合祀を実行した宮司だったのです。
そして、筑波とは貴族院議員で松永宮司の前の宮司の筑波藤麿氏のことです。

昭和天皇は始めから日独伊三国同盟には強く反対していて、松岡洋介や白鳥敏夫を蛇蝎のごとく嫌っていたという話も戦後、世間に流れていました。

昭和天皇は日英同盟のような時代に戻したいと思っていたのです。ドイツやイタリアの独裁者と組むことに強く反対していたのです。

拙速な政策で300万人もの日本人の犠牲者を出したA級戦犯たちを憎んでいたのです。A級戦犯は欧米に対して犯罪を犯したのではなく愚かな政策の実行で300万人の日本人の犠牲者を作ったのです。この罪の償いはしなければなりません。
責任重大なのです。
昭和天皇は一般国民を大切に思っていたのです。国民を愛していたのです。

昭和天皇は昭和21年から29年にわたって、全国の津々浦々へ行幸なさったのです。
仙台市へいらした時は私は小学6年生の秋でした。小旗を振ってお迎えしました。
天皇は行く先々の各地の人々の群れに囲まれ、天皇の顔は明るく輝き、楽しそうでした。

この時ほど昭和天皇を身近に感じたことがありませんでした。
沖縄県以外は全国の都道府県をすべて巡幸されたのです。
沖縄県には一般市民を犠牲にした痛恨の思いがあったのですが、当時の政治情勢からついに行幸がかないませんでした。

そんなことを思い出させる最近の昭和天皇実録の公開でした。


以下に立川市にある昭和天皇記念館の写真をお送りいたします。
写真は2008年7月31日に訪問した時に撮ったものとHPから転載したものです。

なお展示室の右手上には6枚の大型液晶画面があり、87年のご生涯の映像が出ていました。

晩年にテレビ記者と会見したときのお元気な御声をかなり長時間聞くことができます。これは係の人に申し出ると見ることが出来ます。

展示室の中央には昭和10年から52年までご愛用になられた箱形ベンツ乗用車が磨きあげて飾ってありあす。たびたび新聞写真でみた懐かしい乗用車です。

詳しくは記念館のホームページ、http://www.f-showa.or.jp をご覧下さい。


日本民族の精神の強さと美しさ・・・良質な愛国心の薦め

2014年09月14日 | 社会・経済
最近、社会は急に右傾化し、軍備強化や集団自衛権の行使などの方向に走り出しました。
その結果、戦争が起きると恐れている人々もいます。

しかし、そう簡単に第二次世界大戦のような大戦争は起きないと思います。その理由は今や世界中は相互に大きな経済投資をし、外国に工場や支店を多数有しているからです。
この経済交流の深さが保険のようになっていて先進国同士の大戦争は起きにくい情勢にあるのです。

しかし最近、間違った愛国心が横行し、韓国や中国を悪しざまに非難している人々がいます。そういう行為は日本人の尊厳を傷つけ、日本人に対する国際的な評価をひどく下げているのです。

それでは良質の愛国心とはどういうものでしょうか?
善い愛国心は沢山ありますが、今日はその一つの例をしめします。

下に京都にある三十三間堂の写真を3枚示します。
一番目の写真の出典: http://buddy0104.blog38.fc2.com/blog-entry-624.html
二番目の写真の出典:  http://item.rakuten.co.jp/naka/61324/
三番目の写真の出典:  http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Sonota/33gendou.html

この三十三間堂にある千体の仏像は日本人の精神文化の象徴の一つです。
玄奘三蔵法師がインドへ旅して持って来た経典の教えが日本へ伝わり、日本人は連綿と仏教を信仰しています。

千年以上の長きにわたりお釈迦様の教えを信じることは日本民族の精神の強さと美しさを示しています。証明しています。
どんな迫害があっても佛教の教えをまもるというその精神は美しいものです。

迫害されても善いものを信じると言えば、江戸時代の250年間にわたる隠れキリシタンの揺るがぬ信仰心ももう一つの例です。

明治維新でフランス人神父が長崎に教会を建てたとき、隠れキリシタンが現れ、神父さんが日本へ帰って来るのを250年間待っていましたと言ったのです。このニュースは世界中に広まり、日本民族の精神の強さが称賛されたのです。

余談ながらこの隠れキリシタンの信仰告白は早すぎました。明治政府は江戸時代の禁教政策を墨守していたのです。長崎の隠れキリシタンは大勢逮捕され、本州の各地に流され、拷問に会いました。そして一部のキリシタンは各地で処刑されたのです。

それはさておき、日本人の仏教やキリスト教へたいする揺るがぬ信仰心は精神の純粋性とその強さを示しているのです。

このような日本民族の善い特徴を自慢することが一つの善い愛国心の実例です。そして精神力の強さを戦争の方向へ悪用しないようにすることも併せて重要なことです。
偏狭な愛国心は戦争への道です。他国を非難するのは戦争への道です。

もっと人間にとって普遍的なことで日本民族を自慢し、それを誇りに思っているかぎり戦争にはならないものです。
そんなことを考えさせるのは、最近の日本の右傾化現象のためなのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)