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世界の覚書

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常識としての軍事学

2008年02月06日 | 軍事・諜報
潮匡人(うしおまさと)2005『常識としての軍事学』中公新書

読みやすい。確かにこの程度の知識は、常識として認知されるレベルのものばかり。日本が公教育で(大学を含め)軍事学的素養を一切無視しているのは、まことに困ったものである(言い古された事だろうが)。

日本は軍事的実力こそ自衛隊として保有しているが、「戦力」かどうかは保留事項。憲法のこともあるが(当然、そこの制約から自衛隊の法的地位も生まれているわけだが)、戦力は多様な変数の積であり、変数には士気や国民の支持(これも士気の内)も含まれる。変な話、士気がゼロなら、いくら兵器や弾薬があっても戦力はゼロ。

政治の足枷(国会審議を経ないと、自衛隊の基本的な緊急行動が不可能だったりする)も大きい。国内のメディアも、左翼系だったり、中国のエージェントだったりする。自治体の協力も得られるかどうか怪しい所がある。「戦力」は総合的なものだから、日本は自衛隊の正面装備以外に、足りない部分がいっぱいあるというお話。

さて、直接の感想ではないが、軍事、諜報、外交は三本柱なんだなと思った。外交と軍事の類似性は、特権にも現れている。外交官は任地で不逮捕特権など、広範囲な外交官特権を持っている。軍隊も、軍事行動においては様々な超法規的行動(超主権的行動?)をとるが、それでなくても他国で活動する際には、地位協定のような形で兵士に様々な特権を持たせる。諜報が重要な要素である事は言をまたないだろうが、一番大事な点は、戦争が(本質的には)平時も継続していることだろう。

もちろん火器の応酬は期間限定だが、戦闘が停止した平時であっても、戦争は水面下で継続するものなのだ(日本は、本気で水面下も停戦したままだが)。正確に言うと、戦争は国家意思の強要ないし貫徹であり、武器を使わない、その種の行動もまた、国家の基本的機能、特性だということだ。諜報(情報活動)と外交は、その基本的ツールだ。日本は、帝国軍隊を解体したのはいいが、外務省を一旦解体しなかったのは、まずかったかも(笑

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