「熱闘」のあとでひといき

「闘い」に明け暮れているような毎日ですが、面白いスポーツや楽しい音楽の話題でひといき入れてみませんか?

第55回 YC&ACセブンズ(2014.4.6)の感想

2014-04-06 21:45:45 | 関東大学ラグビー・リーグ戦


東京セブンズから2週間開いてセブンズ三連チャンに突入。本日のYC&ACセブンズを皮切りに来週(4/13)は東日本大学セブンズ、再来週(4/20)は関東大学フットボール連盟のセブンズ・ア・サイド(通称リーグ戦セブンズ)と続く。「花の命は短くて」の如く、僅か1ヶ月でパッと散ってしまう大学生のセブンズだが、この1ヶ月に焦点を絞っているチームもあるので楽しみだ。

とくに今回のYC&ACは1週間前に香港で悲願の「コア15入り達成」に貢献した選手達も出場が予定されているだけに興味のタネは尽きない。ホストチーム(YC&AC)他の社会人に大学生のチームを織り交ぜた構成でサプライズも期待される。果たして、今年はどんなドラマが待っているだろうか。心配された天候も上空を覆っていた雲が晴れて回復してきた。



[予選ラウンド]

●日本大学 0-35 ○タマリバクラブ
○専修大学 28-12 ●YC&AC
●横河武蔵野 15-26 ○慶應義塾大学
●東海大学 5-31 ○PSIコストカッツ
○筑波大学 45-0 ●中央大学
●北海道バーバリアンズ 19-24 ○青山学院大学
●早稲田大学 19-24 ○和歌山県選抜
●明治学院大学 0-39 ○流通経済大学

注目チームはなんと言っても日本代表のジェイミー・ヘンリーを擁するPSI(購買戦略研究所)コストカッツ。ここに驚きの選手達が加わっていた。拓大で大暴れしリコーに入社した横山伸一&健一の横山ブラザーズだ。体型は大学時代と殆ど変わっていないように見えるのが気になるが、緒戦で早くも高いランニング能力を見せつけた。2人は元来セブンズでブレイクしたので完全復活を期待したいところ。でも、やはりこのチームはジェイミーの存在が際立つ。パワフルな東海大を一蹴してしまった。

日大とタマリバの対戦は、日大が福田恒輝や竹山将史を擁するタマリバの老獪さに為す術なく敗れた。そう書きたいところだが、オジサン軍団(失礼ながら)の方が気合が入っていてどうする?というちょっと情けない印象の試合に終わった。その後に登場した専修大学が元気溌溂で自信を持ってプレーしていただけによけいそう感じた。専修がパワーのYC&ACを振り切り見事緒戦突破を果たす。

慶應はセブンズへの取組方針を改めたのか、こちらも元気一杯のプレーで横河武蔵野を圧倒。昨年のリベンジに燃えた中央大はパワーアップした筑波に返り討ちに逢って完敗。北海道バーバリアンズ(トゥキリは出場せず)を破った青山学院はなかなかのタレント軍団といった感じ。和歌山県選抜は来年の和歌山国体に向けて結成されたチームだが、早稲田はチーム熟成度の差が出てよもやの敗戦という結果になってしまった。セブンズの星リリダムにパワフルなジョージとシオネを合谷が操る流経大は明治学院を寄せ付けず難なく緒戦突破を果たす。



[コンソレーション1回戦]

○日本大学 35-17 ●YC&AC
●横河武蔵野 12-33 ○東海大学
○中央大学 22-17 ●北海道バーバリアンズ
○早稲田大学 21-7 ●明治学院大学

去年もそうだったが、緒戦でうまくいかなかったチームはコンソレの1回戦で息を吹き返すことが多い。とくにジャージを替えて登場した日大が「別のチーム」になっていたのが印象的。本日はマイケルはベンチから声援を送る役割だが、かえってチームバランスが良くなった感もある。試合半ばからコンビネーションに冴えが出てきてYC&ACを翻弄し勝利を収めた。東海大は黄金のバックスリーにいい形でボールを渡せば社会人相手でも爆発できる。

中央大もアタックに積極性が出始め北海道バーバリアンズに競り勝った。昨年の本大会で鮮烈なデビューを果たしたスピードスターの住吉藍好のランが冴える。早稲田と明治学院の戦いはスコアからは早稲田が貫禄を見せた形だが、試合内容はほぼ五分。セブンズとしてのチームの熟成度は明治学院の方が上だった。早稲田がどのレベルの選手を出してきたのかは不明だが、東海や筑波に較べると体格差が際立つ(小さい)印象。

[チャンピオンシップ1回戦]

●タマリバクラブ 5-26 ○専修大学
○PSIコストカッツ 21-17 ●慶應義塾大学
○筑波大学 33-7 ●青山学院大学
●和歌山県選抜 0-59 ○流通経済大学

緒戦で元気いっぱいのプレーを見せてYC&ACを破った専修だが、実力はホンモノであることがはっきりした。この大会に向けてしっかり準備をしてきたことでは同じだったはずだが、専修のコンビネーションの方がタマリバを上回った形。準決勝に期待を繋ぐ形で専修がタマリバを圧倒して勝利を収めた。慶應は本当に惜しかった。17-14と勝利を目前にしたところで今やジャパンの看板スターの1人となったPSIのジェイミーの一発に沈む。ジェイミーが自陣でボールを持った段階で前には慶應の選手が5人くらい居たが、すべてタックルを弾かれて70mくらい走られて涙を呑んだ。ただ、PSIは横山ブラザーズという武器はあってもジェイミー頼みの部分が多く流経には苦しいかもという印象を抱かせた。

筑波は専修や(コンソレの)日大のような洗練されたコンビネーションで勝負するチームではないが、プレーの堅実性と身体を張る泥臭さが魅力のチーム。個々の判断がすばらしくそれがチームとして共有されているためディフェンスに綻びが出ないのが強み。才能集団の感がある青山学院を1トライに抑えての圧勝で調子が上がってきた。流経大の看板スターはリリダムだが、誰も止められないジョージ・リサレも凄い。去年よりさらに進化し、既にとてつもない選手になっている。そこに相手ディフェンスを自由自在に切り裂く合谷が居るのだから59-0のスコアも納得。



[コンソレーション準決勝]

○日本大学 26-22 ●東海大学
●中央大学 7-19 ○早稲田大学

加藤HC体制になってから一度も東海大に勝っていない日大だが、コンソレになってから一気にチーム力を上げてきた。専修に刺激されたわけでもないが、接点を作らずにパスを繋ぐコンビネーションで東海大を翻弄する。対する東海大はパワフルな選手が揃っていることが裏目に出る形でちぐはぐ。個人頼みとなってしまい決勝を前にあえなく敗退した。トライの場面をひとつひとつ切り取っていけば惚れ惚れするようなランではあるのだが、ディフェンスになるとあっさり抜かれるシーンが多く反省点がたくさん出た内容だった。

前半の中央大は幸先良く先制して早稲田を圧倒する勢いだった。1人1人が自信を持ってプレーできるようになってきたのが大きい。ひとつ惜しまれるのは、住吉がディフェンスを切り裂いてゴールまであと10数mというところで(ノールックで後ろに)ボールを離したこと。フォロワーが居ればトライになった可能性が高い。ここで勝利がするりと逃げてしまったように思えた。

[チャンピオンシップ準決勝]

○専修大学 24-19 ●PSIコストカッツ
●筑波大学 12-19 ○流通経済大学

コンソレの準決勝あたりから雨が激しくなり、ついに土砂降りの状態に。そんな中でも、専修の磨き抜かれたパスワークが冴え渡る。PSIのメンバーにジェイミーが居なかったことがラッキーだった面はあるにせよ、攻撃の組立ではPSIを上回っていたことは確か。とにかく専修がボールを持つと観ていて楽しい。流石に元セブンズの日本代表監督が率いるチームだけあるが、それだけではなさそう。大雨で身体は冷やされていくが、芯から身体が温まってくるような熱い試合だった。

筑波と流経は双方の日本代表と代表レベルの選手達のマッチアップで見応えのある試合(事実上の決勝戦)になった。リサレやリリダムに対して3人で止めに行っても余らせない筑波のディフェンスが見事。筑波ではどうしても福岡や竹中に注目が集まるが山下など好選手がたくさん居る。専修の洗練したスタイルもいいが、筑波のような泥臭さと個々が精神的な絆で結ばれている乱れない組織も魅力。シンビンが出てしまうなど、最後は流経大の圧倒的なパワーの前に屈した形だが、今年の筑波は去年以上に強くなりそうな予感がする。



[コンソレーション&チャンピオンシップ決勝]

○日本大学 12-5 ●早稲田大学

予選ラウンドでどうなることかと危惧させたことがウソのように自信をつけて決勝に臨んだ日大が早稲田のディフェンスを翻弄して勝利を収めた。日大の(ポイントを作らない)パスラグビーは専修よりも徹底している。丁寧にパスを繋ぎながら相手のディフェンスに綻びが出るのを待ち、一気に勝負を仕掛ける。ここにマイケルが入ったらパワフルなアタックが完成という感じがした。逆に言うと、あえてマイケルを入れないでこの形を作ることがこの大会の目標だったのかも知れない。どうしてもFWのことが気になるが、今年の日大は期待していいかもしれない。早稲田は準備不足だったのかも知れないが、アタック、ディフェンスとも消化不良という印象が残る敗戦となった。

●専修大学 19-62 ○流通経済大学

すっかり雨が上がり晴れ間も見える中での決勝戦。圧倒的な攻撃力を誇る流経大の優位は動かない結果になってしまったが、自陣からの丁寧なアタックでゴールラインまで3つボールを運んだ専修大のアタックも見応えがあった。今からでも遅くはないから、特別枠で専修を東日本大学セブンズに招待できないだろうかと無理は承知で思ってしまう。リーグ戦全体で観ても現時点で流経大の次にセブンズが強いのは専修大と見て間違いない。15人制にしても、入替戦出場枠の争いが激しくなることは間違いなく、また、入替戦も昨年以上に厳しい戦いになるだろう。もちろん、これはリーグ戦Gウォッチャーとしては歓迎すべきこと。ここで掴んだ自信を糧にシーズンを戦い抜けば、悲願達成も現実味を帯びてくるだろう。

◆YC&ACで味わったセブンズの醍醐味

一時激しい雨の降る中で、立ち見での観戦だったわけだが、むしろセブンズの醍醐味を味合わせてもらったような気がした。15人制だとグランドレベル(選手目線)での観戦は、迫力満点である代わりに選手達が重なって全体的な動きが捉えにくい面がある。でも、セブンズだと全体がよく見渡せるので、そういった不満はなくなる。選手達の大きさがわかるだけでなく、スピードの違いもスタンドで観るよりよくわかる。昨シーズンから始めたYC&ACの観戦だが、止められなくなってしまった。この素晴らしい大会を運営している関係者の方々に感謝の言葉を贈りたい。
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冷戦時代に聴いたソ連のジャズ(3)/憬れのマルチバンドラジオ

2014-04-05 20:02:48 | 地球おんがく一期一会


本題になかなか辿り着けない。当初の構想では、BCLの話はさっと流して次回あたりで出逢いの話に入るつもりだった。でも、少年時代のことを振り返ってみると、いろんなことが思い出されて止まらなくなってくる。私にとってのソ連ジャズはBCL体験抜きには語れない。また、ソ連にジャズを伝えたのもBCLで実体験した短波放送。タイトルを変えたい気持ちにもなってくるが、BCLのことをもう少し掘り下げてみようと思う。

さて、父親から借りた(奪い取ったという方が正しいが)2バンドのトランジスターラジオによる受信はすぐに限界に達してしまった。このラジオでは聴けない12MHz以上の周波数領域で飛び交っている電波を捉えて観たいという想いは日に日に募っていく。時は、まだ大型の家電量販店がなかった40数年前。東京の秋葉原にあたる大阪の日本橋はあくまでも問屋さん。街中の至る所に電気屋さんがあり、ラジオも普通にディスプレイされていた。

カメラ屋さんでもラジオは売られていて、中でもAM(中波)、FMの他にSW(短波)が4バンドの計6バンドの帯域が受信できる「マルチバンドラジオ」は垂涎の的だった。件のお店の前を通るごとに立ち止まってはずっと「恋人」に熱い眼差しを送っていたことが功を奏し、遂に誕生日のプレゼントという形であこがれのラジオが家にやって来ることになった。忘れもしない、ソニーのTFM-2000Fだ。価格は25,800円でレコード1枚の10倍くらいだが、当時のことを思うとけして安くはない。父もかなり無理をしてくれたのだろう。

このラジオは、上でも少し触れたとおり短波帯が4つのバンドに分割される形で1.6MHzから26.1MHzまでカバーされていた。厳密に言えば30MHzまでが短波帯なのだが、放送バンドの上限が26.1MHzなのでBCLで使うにはまったく問題がない。「その日」から家に居るときはラジオのチューニングダイヤルを回して(それこそ上から下まで)バリバリと音を立てながら世界中の放送局を追いかける毎日が始まった。

TFM-2000Fのキャッチコピーは「音楽マニアから海外局ハンターまで」ということで大型の筐体を活かした音の良さでも定評があったラジオ。実際にこのラジオは私自身の音楽ライフをとても豊かなものにしてくれた。ちなみに、筐体の大きさは幅29cm、高さ22cm、奥行10cmで重さは約4kgもあった。コンパクト化、スリム化が進む現在ではまず作られることのないラジオ。後に登場したラジカセもそうだが、当時のラジオは総じて筐体は大きくスピーカーから出てくる音も豊かだったように思う。

ちょっと脱線するが、60年代にポピュラーだった真空管を使ったテレビやラジオのことも思い出してしまった。テレビの家庭用のサイズは13インチが主流で、大型の19インチのテレビがあることはお金持ちの証でもあった。とにかく画面の大きさに圧倒されたのだが、大型スピーカーを含む木製のボディから出ていた柔らかい音が何とも言えず贅沢。真空管方式だから、スイッチを入れてもすぐに音は出ず、ボワーンという感じで音が大きくなっていく(スイッチを切った時は逆ですぐには音は消えない)のだが、あの暖かみのある音が終生忘れられない。利便性や経済性の追求のもとに進んだ小型化、軽量化により失われていったものはけして少なくない。

TFM-2000Fは溜まり溜まった欲求不満を一気に解消してくれた。とくに当初期待したとおり、14MHz以上の領域をカバーした「SW4」バンドはまるで異次元空間にある世界のようだった。欧州からの放送が混信や雑音も少なくクリアーに耳に飛び込んでくる。もちろん、ドイチェ・ヴェレの日本語も毎日聴くことができた。余りにも多くの電波がひしめき合っていた9MHz帯や11MHz帯の世界は、混信に加えて雑音も多く混沌としていた。だから、性能の低いラジオでも楽しめたのは近隣諸国からの強力な放送だけ。より遠くから、よりバラエティがあるものを求めた短波少年には住みずらかったことが実感された。



強力な武器を手に入れて、まず最初に夢中になったのが南アフリカから放送されていたラジオRSAだった。何故かというと、25790KHzといったこのラジオの最上限に近いとんでもない周波数を使っていて、かつ毎日強力に受信できたから。25600~26100kHzに割り当てられた11MB(メーターバンド)はまるでこの放送局のためにあるようなバンドだった。当時の南アフリカはアパルトヘイトの時代で世界のスポーツ界からも締め出されていたが、ターゲット地域ではなく、しかも日本人の少年リスナーに対しても印刷物の定期刊行など行き届いたサービスを提供していた。国が孤立状態にあったが故に対外的な気遣いをすることを多分に意識していたのだろう。

21450~21750MHzに割り当てられた13MBは欧州やアメリカ本国、そして石油生産で潤う中東地域からの放送が主体。とくに中東地域は100kWどころか500kWといったオイルマネーにものを言わせた大電力の送信機を使って極東地域にもアラブ音楽やコーランの朗唱を送り届けていた。しかし、このバンドの私的主役は日本時間の夕方に当たる欧州地域からの整った放送。オーストリア、スイス、ノルウェー、スウェーデン、チェコスロバキアといった国々から届く豊かな音楽が聴けるのも大きな魅力だった。夕方に高い周波数で欧州から届く電波にはひとつ特徴があって、あたかもエコーがかかったように聞こえた。時間帯によっては電波が地球も何周もしており、それらが干渉することが原因だと物の本で読んだ。



そんな欧州諸国の放送局の中でもっとも人気を博したのがとくに音楽番組が充実していたオランダのラジオ・ネダーランド。本国だけでなく、アンティル諸島のボネア島(ヤクルトのバレンティンの出身地キュラソー島の近くにある島)、マダガスカルの2つの中継局に強力な送信機を据えていたこともあり、日本でも受信しやすくて人気が高かった。ビートルズを生んだ英国のBBC放送にしろ、米国産ポップスとはひと味違った音楽が聴けたのが欧州からの放送の魅力でもあった。そして、欧州のジャズの紹介番組でマニアに人気があったのがドイチェ・ヴェレだった。

しかし、ハイバンド(14MHz以上)でも世界を圧倒的に支配していたのは、やはり米ソの2大国(冷戦のと当事国)だった。米国のVOAは西海岸に設けた送信所からソ連極東地域や中国に向けて、また、ソ連のモスクワ放送や自由と進歩放送などはそれに対抗する形で極東地域の送信所から北米大陸に向けてそれぞれ電波という名のプロパガンダ用ミサイルを飛ばし続けていた。日本人はまさにそれらのミサイルの弾道直下に居たわけだ。ただ、極東中継のおかげでアルメニアのラジオ・エレヴァンが米国向けに放送した番組を聴くことができたのは嬉しかった。

このように米国西海岸からの電波は太平洋を超えて日本に確実に届いていたのだが、東海岸からの電波をキャッチすることはターゲットが違う(主に欧州やアフリカ、中南米が対象)こともあり難しかった。そんな中で朝の時間に偶然届いたのがWNYWのコールサインで放送していた民放局の「ラジオ・ニューヨーク・ワールドワイド」。数多の宗教放送局が競って電波を出し合う中で貴重な情報を提供していた放送だったようだが、コンスタントに聴くことはできなかった。この局もご多分に漏れず時代の流れの中で役割を失って消えていく運命にあった。その放送の受信報告に対してヴェリカードを得たことは、佳き想い出のひとつとなっている。

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冷戦時代に聴いたソ連のジャズ(2)/BCL事始め

2014-04-04 00:00:52 | 地球おんがく一期一会


本題(ソ連のジャズのお話)に入る前に、まずジャズが国境(冷戦時代の東西の壁)を越えることを可能にした「ある方法」について説明しなければならない。

今でこそ世界は有線のケーブルを経由したインターネットで隈無く繋がっているわけだが、私がソ連のジャズに出逢った80年代半ば頃にはそんなことは想像にも及ばないことだった。もちろん、地上はもとより大陸間も海底ケーブルによって繋がってはいたのだが、一般人がその恩恵に与ることができるほどの大動脈ではなかった。さらに10年以上遡れば、ダイヤル通話での国際電話ですらままならなかったのだから、通信手段の驚異的な進歩には目を見はらせるものがある。

第二次世界大戦から冷戦時代にわたってもっとも威力を発揮した国際間の通信手段は空中を飛び交う電波だった。こう書くとイメージされるのは人工衛星を通じた衛星中継になると思う。しかし、衛星回線も限られていた中で一般的に利用されていたのは、人工衛星を必要としない遠距離通信を可能にしたある種類の電波。限られた周波数帯域にあった「短波」(Short Wave)がその電波だった。

でも、人工衛星を使わないのに何故丸い地球の裏側まで電波が届いたのか不思議に思われるだろう。ここで人工衛星の役割を果たしたのが「電離層」。地球を取り巻く大気の上層部にある分子や原子が、紫外線やエックス線などにより電離した領域にある層で、電波を反射させる性質を持っている。このため、地上(海上)と電離層の間での反射を繰り返させることにより、電波を地球の裏側のような遠方まで届けることができた。ただ、電離層の状態は太陽光線の影響を受けて時々刻々と変化する。ごく普通のAMラジオでも、夜になると遠くの地域の放送(ナイター中継や深夜放送)や外国語の放送が聴けるのは、電波にこのような性質があるから。

電離層の状態は時刻だけでなく季節によっても変動するため、短波では電波を安定した状態で確実に伝えるのは難しい面がある。でも、上で書いたような原理を使えば1台の送信機でも世界中に向けて放送を行うことが可能になるため、短波帯は一時期飽和に近い過密状態にあった。ちなみに、後に一大ブームが到来することになるBCLとは "Broadcasting Listener" の略。短波放送を聴く人は自らをSWL(Short Wave Listener)と称していて、BCLを「中波で主に国内ラジオを聞く人」として区別していた。いつの間にか外国放送を聴く人のすべてがBCLということになってしまったのかはよくわからない。

それはさておき、電離層どころか短波という言葉も知らなかった1少年が、新聞記事をきっかけに海外からの短波放送の受信に興味を持つに至った。忘れもしない、小学校6年生の時のある朝だった。世界の14カ国から日本に向けて日本語による国際放送が行なわれていることが新聞の1面を使って紹介されていたのだ。NHKテレビの「特派員報告」等の番組を通じて海外への関心がとみに高まっていたこともあり、海を越えて日本に届く電波を捉えてみたいという想いに駆られた。

早速、父親が持っていたポータブルの2バンドのトランジスタラジオを手に受信を試みることになった。当時の2バンドラジオは中波と(FMではなく)短波が聴けるのが一般的。短波も3.9~12MHzの帯域しかカバーされていない。しかし、日本向け放送ということもあって、ほどなくして殆どの国からの放送を聴くことができた。とくに強力だったのは、中波帯でも容易に聴くことができた北京放送、平壌放送、韓国KBS放送にモスクワ放送(ウラジオストック中継)を加えた4つ。



距離的に近いアジアからの放送も同じ。台湾からの「自由中国之声」、ハノイからの「ベトナムの声」(当時は北ベトナムだった)、極東放送(フィリピン)にラジオ・オーストラリアも全く問題なくキャッチできた。欧州からもシンガポール中継だったBBC放送(英国)とバチカン放送は朝夕とも聴くことができた。さらに南米からは赤道直下にあるエクアドルの首都キトーから放送されていたHCJB「アンデスの声」が遠距離を感じさせないくらいにクリアに聞けたのだった。ちなみに、「アンデスの声」は日本から南米に渡った移民達にとって(宗教放送のミッションは別にしても)大きな心の支えになっていたそうだ。

14カ国制覇まで残りはいよいよあと3つ。しかし、この最後の3つが難物だった。まず、第二次大戦中には(密かに)戦況を知らせる上で貴重な情報源となっていたVOA「アメリカの声」は、「役割を終えた」ため同じ頃に放送を止めてしまい、日本語に関しては幻の放送局に終わる。また、地球の裏側のアルゼンチンにあるRAEも、「本当に放送しているのだろうか?」とBCLの間でも話題になっていたくらいに日本語放送だけ受信が難しい局だった。それに較べたら、西ドイツのケルンから放送されているドイチェ・ヴェレは聞こえていいはずの放送局。ほぼ同じ距離のバチカンからの電波は確実に日本まで届いているのだからそう考える。

ドイチェ・ヴェレは季節ごとに行われる周波数の変更が何故かことごとく裏目に出てしまう不運な放送局だった。もっとも、放送時間帯を考えると、近隣諸国の放送がひしめいて一番混んでいる周波数帯(9MHz帶や11MHz帯)で欧州からの電波を捉えるのはかなり難しかったことも確か。もっと上の周波数なら少しは楽に受信できていたはずで、12MHzまでしか受信できないラジオを恨めしく思ったものだ。

しかし、遂に12番目を達成する日がやってきた。時間は夜の9時頃。いつものようにラジオのダイヤルをいじっていたら、混信状態の中から今まで聴いたことのない日本語の放送がすーっと浮かび上がってきた。どうやら欧州からのあの放送局らしい。はやる気持ちを抑えながら局名のアナウンスを待った。そして放送終了直前に、「こちらはドイチェ・ヴェレ、ドイツ海外放送の日本語番組です。」のアナウンス。思わず「やった-!」と叫んでしまった。ちょっとマニアックかも知れないが、DXer(遠距離受信者)を目指すSWL(BCL)にとって、普段は聞こえない放送が聞けたときに最高レベルの興奮がやって来る。その第1歩がこの日だったのだ。



後日、生まれて初めて航空便を使い、西ドイツに受信報告書を送った。「送信所:Julich、日時:1969年12月27日12:00 GMT、周波数:11.795MHz」。ドイチェ・ヴェレから届いたヴェリカード(Verification Card:受信証明書)には確かにこう記載されている。
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冷戦時代に聴いたソ連のジャズ(1)/プロローグ

2014-04-02 23:00:56 | 地球おんがく一期一会


混迷が深まる一方の世界情勢にあって「冷戦の復活」とも「新冷戦時代の到来」とも言われる昨今。しかし、ソ連や共産圏という言葉自体が死語となりつつある中で、「冷戦」と言われてもピンと来る人がどれだけ居るだろうか。

1989年のベルリンの壁崩壊に引き続き1991年にはソ連も崩壊した。それまではアメリカ対ソ連という図式で対峙していた2強のひとつが斃れてしまったことで、ほんの一瞬だが異様な空白感を味わったことを覚えている。今にして思えばそんなことはあり得なかったはずなのだが、まるでアメリカの一人勝ち状態となり、ついに世界平和が訪れたという安堵感すら覚えたのだから笑ってしまう。歴史は繰り返すというか、ひとりの独裁者が倒れても次にまた別の独裁者が現れるだけなのだが。

それはさておき、「ソ連崩壊」は社会や政治に留まらず、文化やスポーツなど様々な分野にも影響をもたらした。冷戦時代の頃のオリンピックはソ連を筆頭とする共産圏諸国の国威発揚の場で、とくに「CCCP」(ロシア語のソ連の頭文字でエス・エス・エス・エルと発音)のユニフォームを纏った選手達がいやと言うほど力を見せつけていた。後にドーピングが問題となるDDR(東ドイツ)の強さも際立っていた。共産圏諸国のアスリート達にとって、確かな将来を約束してくれる金メダルの価値は計り知れないものがあったし、当事国にとっても彼らがもたらす対外的な宣伝効果は大きかった。復活基調にあるとはいえ、旧ソ連東欧圏のスポーツがかつての力を失ったことは否定できない。

文化面では少し様相が違っていた。文学や音楽では自由な表現を求めて西側へ亡命を試みる者が後を絶たず、映画でもタルコフスキー作品のように当局との長期にわたる神経戦を経てお蔵入りを免れて公開に至ったものがあった。逆に言えば、冷戦状態にあったことで共産圏諸国の芸術作品が注目を集めた面があっただろうし、質の高いものが生まれていたことも否定できないと思う。ソ連崩壊後、むしろ映画も文学も外に訴えかける力を失ったように見えるのは気のせいだろうか。



話がついつい堅くなってしまった。ソ連崩壊前の文化を語るという意味でひとつ面白い音楽がある。それはジャズだ。ソ連にとっては冷戦時代の敵役であるアメリカを象徴する音楽で、戦時中の日本になぞらえれば「敵性音楽」と言うことになるだろう。ソ連にとっても日本にとっても同じ相手の同じ音楽が敵の象徴だったなんて、偶然の一致とは言え不思議と言えば不思議。

でも、ソ連ではジャズは制限こそかけられていたかもしれないが、禁止されていたわけではなかったようだ。さもなければ私が偶然の徒で手にすることになった彼の地のジャズのレコードは存在しなかったはずだから。クラシックの音楽家のようにソ連の顔(文化使節)の役割を担うこと(言い換えれば、豊かな生活を手に入れること)はできなくても、情熱的にジャズに取り組んだ人たちがいて、またそれを聴くことを楽しみにしていた人たちも少なからず居たのだ。

遠く離れたアメリカとは敵対していて、レコードの入手も不可能だった状況のなかで、如何にしてソ連の人たちにジャズが伝わり、また愛されることになったのか。さらには、そのソ連のジャズの魅力を情報入手が困難な当時の日本で知ることができたのか。それは、ある方法によって国境を簡単に越えることが可能だった音楽の力によることが大きかったから。冷戦時代の私自身の体験を通じて、ジャズの魅力の一端について語ってみたい。
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藤沢嵐子/「タンゴの女王」に出逢うまでの長い道程

2014-04-01 01:30:10 | 地球おんがく一期一会


未だに所有するタンゴのレコード/CDはピアソラのものを除けば10枚にも満たない私。でも、ジャズファンになる前に熱中していたのは実はタンゴだった。振り返れば小学校の高学年の頃でFM放送が高い音質を活かした「音楽専門放送」とも言われていた時代。NHK-FMで毎週2時間、夜の8時からラテン音楽を届けてくれる番組があった。

その名も「ラテンタイム」(だったと記憶)で、月に1回はタンゴの回。大岩祥浩さんが案内役を務められていた放送をオープンリールのテープレコーダー(デッキではない)に録音して何回も聴いていた。当時はまだジャズがさっぱりわからん珍だったのにタンゴに惹かれたのはなぜだろうか。理由はよくわからないが、どこかに心に響くものがあったのだろう。

そして、これも何故か?なのだが、一番印象に残っているアーティストはピアソラだった。大岩さんが「タンゴ殺しとも呼ばれていた...」というような形で紹介されていたことを今でも忘れない。「ブエノスアイレスの夏」といった曲がかかっていたことを思い出す。今でこそ「タンゴ=ピアソラ」なのだが、当時の私には後に一大ブームが起こる事なんてことは考えにも及ばなかった。と言うのは大嘘で、中学生になるかどうかくらいのガキにそんなことが思いうかぶわけがない。

実はもうひとり名前が鮮明に記憶に残っている人がいる。それは、グラシエラ・スサーナ。アルゼンチン出身の女性歌手で、日本にやって来て歌謡曲を歌い人気を博した人だ。スサーナの姉も「クリスティーナとウーゴ」のクリスティーナとして日本で高い人気を誇ったフォルクローレ歌手だった。でも、私にとってのスサーナは大岩さんがタンゴの若手有望女性歌手として紹介された(由緒正しき)スサーナ。だから、彼女の日本語の歌を聴いたとき、同じ名前の別人だと信じて疑わなかった。

そんなタンゴ熱もいつしか冷めてしまう。中学生になってからはサンタナに熱中し、真夜中に聴いたMJQでジャズに開眼し、クロスオーバー/フュージョンの荒波に呑まれて新譜を追いかけるという音楽人生を歩むことになる。当時発売されたピアソラの『リベルタンゴ』もちょっとガッカリの内容。イタリア録音でドラムセットが入っているのだが、アメリカのドラマーがこの役割を命じられたらたぶんぶち切れていただろうなと思った。「アディオス・ノニーノ」には惹かれたものの、あまりよくわからないままレコード棚の中に眠っている。



時は流れて出逢ったのがタンゴ史上最高の歌手と讃えられるカルロス・ガルデル。東京は神田の神保町にあった新世界レコード社でロシア方面の音源を物色中に目に留まったのが「ザ・キング・オブ・タンゴ」と題された2枚のCDだった。ちなみにこれらの音源はSP時代に活躍した歌手の録音を独自のポリシーで復刻している「プリマ・ヴォーチェ」のシリーズの中の2枚。カルーソーやシャリアピンといった大歌手に混じって、ポピュラー音楽界から唯1人セレクトされたのがガルデルだったのだ。ガルデルの歌声の素晴らしさもさることながら、ギター伴奏のタンゴというところに新鮮な魅力を感じた。

そんな具合でタンゴと完全に離れてしまったわけではないし、嗜好は変わってもラテン音楽好きであることに変わりなく現在に至っている。だからいつかの段階で「藤沢嵐子」が記憶に留まっていいはずだった。もちろん、ラテン音楽の紹介本では少なからず見かける名前で必ず絶賛のコメントが付いている。でも実際に歌を聴いてみないと印象に残らないのも無理からぬ話。だから、そのまま日本人でアルゼンチンの人たちを熱狂させた偉大な歌手のことは知らずに終わった可能性が大だった。あの日の深夜に偶然ラジオのスイッチを入れなかったら。

じっくりと音楽を楽しませてくれるラジオ番組が少なくなっている昨今にあって、NHKラジオ深夜便の「ロマンティック・コンサート」は貴重な番組と言える。「今夜はタンゴの女王、藤沢嵐子の歌をお楽しみ頂きます。」というアンカーの紹介で、そういえばそんな人が居たなぁと軽い気持ちで番組を聴き始めた。時間が時間だけにすぐに寝てしまうだろうと想いながら。



しかし、1曲目が始まるや否や、切れかけた頭の中のスイッチが完全にONになってしまった。スペイン語でタンゴを歌っている、それも本格的な発音で。この瞬間に「タンゴの女王」がアルゼンチンの人たちを魅了したことが紛れもない事実だったことを実感させられたのだった。そして、番組が進むにつれ、むしろ日本人ならではの(アルゼンチン人には出せない)魅力をタンゴに付け加えることができたのではとすら思うようになった。

藤沢嵐子は当初クラシックの歌手を目指していたものの、家庭の事情などがあってポピュラーシンガーになりタンゴに出逢ったとある。ドイツリートにしろイタリアオペラにしろ、クラシック音楽の世界では発音がダメだったら(日本人なのに頑張っているというようなことは一切なく)門前払いを食らってしまう。それはアルゼンチンタンゴでも同じだろう。もちろん才能もあったのだろうが、歌うからには本場で受け容れられるものを目指すという妥協を許さない努力が実ったというべきか。藤沢嵐子は現地の人たちに「わざと日本人のように振る舞ってウケを狙っている」とまで言われたそうだ。これこそ最高級の賛辞に他ならない。

藤沢嵐子の歌をもっと聴きたい。しばらくしてベスト盤がもうすぐ出るという情報が得られた。それから少し時間がかかったがこうして2枚組のCDを聴いている。1枚目は初復刻を含むオルケスタ・ティピカ東京の伴奏が主体。鮮明度が少し欠ける録音だが、熱のこもった熱い演奏と歌が聴ける。そして意外といい味が出ているのがサンバ(フォルクローレ)の「ママ・ビエハ」。この人は何を歌っても成功できた人だったのだろうなと思う。

しかし、この2枚組の聴き所は録音がクリアになった2枚目のトラック1から12まで。さらに言うとエルネスト・ビジャビジェンシオ・ギター四重奏団が伴奏した6曲だと思う。ガルデルの歌を聴いて何となく感じていたこと(タンゴの歌はギター伴奏の方が栄える)がここで確信に変わった。もちろん、素晴らしい歌声あってのことだが。あの日偶然にラジオのスイッチを入れていなかったら永久に藤沢嵐子は我が家にやってこなかったと思うと、何だか複雑な気持ちになってしまう。

藤沢嵐子とスサーナ。方や本場を目指して海を渡り、方や菅原洋一に誘われる形でタンゴとは無縁の東洋の国にやってきた。そして、どちらも異国の地で成功を収めた。ただ、この流れ(文脈)で行くと藤沢嵐子の方が断然エライという結論になってしまいそう。でも、ところがどっこい、本格的な発音の日本語ではなくてもスサーナの歌だって魅力的なのだ。「地球の裏側にある遠い遠いお国からやって来て頑張ってるね!」と暖かいまなざしを送る優しさを持つ国が地球にひとつくらいあってもいい。
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