映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「八甲田山」 高倉健&北大路欣也

2013-10-06 16:20:31 | 映画(日本 昭和49~63年)
映画「八甲田山」は昭和52年の作品だ。

当時大ヒットしたが、そのときは見に行かなかった。
その後、DVDレンタルで借りようとしたが、どこにも置いていない。今回はじめてみた。
こうしてみると、強烈な吹雪の中過酷な撮影に俳優さんたちはよく耐えたものだ。
そして吹雪の中カメラファインダーを覗くのは名カメラマン木村大作だ。これこそ名人芸といえる。

日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末の出来事だ。
露軍と戦うためには、戦場となる中国東北部の寒さに耐えねばならない。軍部は寒地訓練が必要であるというの考えをもった。そして冬の八甲田山がその演習場所に選ばれた。青森第五連隊の神田(北大路欣也)と弘前第三十一連隊の徳島(高倉健)の二人の大尉は演習を指揮するよう指示を受けた。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うということであった。
年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助をというものであった。

一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐(三国連太郎)に拒否された。そして二百十名という大部隊で青森を出発した。神田は案内人を用意したが、山田が断った。いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。神田の部隊は、猛吹雪に襲われ、磁石が用をなさなくなり、方向を失った。次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。

一方徳島の部隊は、女案内人(秋吉久美子)を先頭に八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。神田隊は次第にその人数が減りだした。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。降り積もる雪の中で神田大尉の従卒の遺体を発見した。

なんてバカなことをしたと思ってしまうが、武士道の心意気が残っている明治時代では、このくらいなことに耐えなければという気運が強かったのかもしれない。満州の寒さは厳しい。
そこで戦うために耐える訓練をするという軍人の気持ちもわからなくもない。
それでも、亡くなった人たちは本当にかわいそうだ。

三国連太郎演じる少佐は案内を拒絶する。田舎者にガイドしてもらわなくても磁石もあるし、地図もある。自力でいけるというのだ。ところが、うまくいかない。本来指揮を依頼されたのは北大路欣也の方だ。しだいに焦りが募る。その一方で、高倉健の部隊は田舎娘にガイドを頼む。若かりし時の秋吉久美子だ。素朴さがにじみ出ている新妻だ。さっそうと雪山を闊歩する姿がいい。ガイドを選ぶか選ばないかというこの分かれ目を境に猛吹雪の中の映像が続く。



これは映画である。誰かが撮影して、誰かが撮られなければならないのである。
映像に映る吹雪はここぞとばかりに強く吹き荒れる。極寒の中、俳優もしんどい。
今も現役である撮影の木村大作は山と雪を知り尽くしているといえよう。その彼の苦労がにじみ出る。
先般も「北のカナリア」で北海道を美しく映し出した。「剣岳」に至っては、メガホンを取り、美しい雪山を映像にしてくれた。職人の仕事にうならせられる。たぶん日本映画史上これほどまで過酷な撮影条件の映画もないのでは?

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画「そして父になる」 福... | トップ | 映画「新宿インシデント」 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画(日本 昭和49~63年)」カテゴリの最新記事