映画「安城家の舞踏会」は1947年戦後まもなく製作された没落家族の姿を描く映画だ。
名作の誉れが高い。昭和22年のキネマ旬報日本映画№1である。吉村公三郎がメガホンをとり、最近亡くなった新藤兼人が脚本を書く。出演者の風貌が現在と比較すると、まだ戦前の香りがする。その中でも西洋的で上品な原節子がストーリーを引っ張っている。
戦前は名門華族だった安城家、当主忠彦(滝沢修)は伯爵だった。太平洋戦争に敗れ、すぐさま他の華族と同様斜陽の一途をたどっていた。自宅の豪邸は抵当に入っていて、借金の猶予を当主の弟が抵当権者の社長新川(清水将夫)に申し込んでいたが、拒絶される。当主の次女敦子(原節子)はかつて運転手で現在は運送会社の社長になりあがった遠山(神田)に引き受けてもらうように提案している。しかし、兄正彦(森雅之)と姉昭子(逢初夢子)は反対している。姉は成りあがりの元の使用人にお屋敷を買ってもらうこと自体が気にいらない。兄は抵当権者の社長の娘(津島恵子)と婚約していて、その筋からの打開を期待していた。
しかし、状況は好転しない。もはやここを自宅とすることが短いと感じて、安城家は舞踏会を開催することにした。当日は、旧華族あるいはそれに類する上流階級に属する多くの客が安城家を訪れた。大きな広間で楽団を入れて華やかな舞踏会が開かれる。しかし忠彦には、戦前自分の名前を使って利益を得たということで抵当権者の社長には貸しがあると認識しており彼を口説いた。しかし、その懇願はすぐさま拒否された。その後はかつて安城家の使用人だった遠山が、屋敷を買い取ると言い出した。それと同時に長女の昭子に向かって求愛したが、受け入れられない。状況はドン詰まりになっていくのであるが。。。
華族の没落は、まさにアップデートな話題だったかもしれない。この映画は華族制度がなくなって半年後に公開されている。庶民からしてみても、表向きはともかく影でいい気味だとささやくムードもあったかもしれない。
(華族の没落)
戦前からの華族制度を残そうとする動きはあったようだが、天皇の近い親戚以外大胆に削減された皇族のみが存在し華族という制度がなくなった。戦前はいろんな優遇を受けていたが、それもなくなる。当然収入は厳しくなる。使用人をたくさん使うことはできないし、維持費も大きく削減せねばならない。安城家は多額の借金を抱えているとのことであるが、当主はビジネスで成功した人物ではなさそうだ。どうして家をとられるほどの多額の借金をする必要があったのか?他に財産はなかったのか?という疑問はあるが、元の生活を維持するためには借金に頼らざるを得なかったと考えてもいいだろう。
安城伯爵は「殿様」と使用人から呼ばれている。明治維新前はどこかの大名だった家筋と推定できる。明治維新後の華族制度で身分を維持できた。ところが、本当の世間知らずだ。借金の期限も昔世話をしたこともあるので、何とかしてくれると思っている。
抵当権者の新川を悪者に近い描写をしているがそもそも借りた金を返そうとしないわけだから、悪いのは伯爵だ。しかも、見栄っ張りだ。身近で邸宅を購入してくれる人物がいる。
ところが、元使用人ということでプライドが邪魔する。この気持ちはわかるけど、切羽詰っているのだから仕方ないでしょう。殿様から1人の世間知らずになった男の悲劇といった形だ。
滝沢修は自分が子供の頃は、財界の大物などのお偉いさんの役を演じていた。これが適役でずいぶんと貫禄のあったものである。劇団民芸設立者でどちらかというと左翼系だ。戦前は公安に引っ張られたこともあるらしい。そうなると、戦前の特権階級が没落する姿は喜んで演じたいであろう。
映画の中に皆が交わすあいさつは「ごきげんよう」である。あえて意識的にやっていると思う。
学習院の付属校では普通に交わされる言葉遣いである。(今もそうなのかな?)
日本における階級の概念は、戦後68年間で大きく変貌を遂げたと思う。
昭和30年代から40年代に差し掛かる頃は、まだ残っていたかも知れない。自分が大学に行くころは進学率30%を越えた程度だったが、その前はもっと低い。しかし、高度経済成長により、全般的にレベルアップが図られ、その昔であれば底辺、中間層だった人もその気になれば同じ教育が受けられるのだ。格差社会になっていくことで、教育にも格差が出ているという話がある。そういえる部分もあるが、どう考えても今の方がましである。
(原節子)
彼女の代表作の一つ黒澤明監督「わが青春に悔いなし」の後の作品になる。あの作品では清楚そのものの彼女が農作業に励むシーンを延々と映した。意外性を感じたものだ。当時であれば、華族という設定で彼女以外の登用は考えられなかったであろう。彼女の持つ気品はここでも光る。浮世じみた姉とはちがって、現実的な考えを持つ女性の設定である。
そして、最終場面に向けて凄いシーンが用意されている。原節子と言えば、小津安二郎作品を代表するヒロインだ。しかし、そこで見せる彼女の姿は静のみといった感じがする。黒澤もここでメガホンをとる吉村公三郎も思い切った動きを原節子にさせる。これがなかなかいい。
名作の誉れが高い。昭和22年のキネマ旬報日本映画№1である。吉村公三郎がメガホンをとり、最近亡くなった新藤兼人が脚本を書く。出演者の風貌が現在と比較すると、まだ戦前の香りがする。その中でも西洋的で上品な原節子がストーリーを引っ張っている。
戦前は名門華族だった安城家、当主忠彦(滝沢修)は伯爵だった。太平洋戦争に敗れ、すぐさま他の華族と同様斜陽の一途をたどっていた。自宅の豪邸は抵当に入っていて、借金の猶予を当主の弟が抵当権者の社長新川(清水将夫)に申し込んでいたが、拒絶される。当主の次女敦子(原節子)はかつて運転手で現在は運送会社の社長になりあがった遠山(神田)に引き受けてもらうように提案している。しかし、兄正彦(森雅之)と姉昭子(逢初夢子)は反対している。姉は成りあがりの元の使用人にお屋敷を買ってもらうこと自体が気にいらない。兄は抵当権者の社長の娘(津島恵子)と婚約していて、その筋からの打開を期待していた。
しかし、状況は好転しない。もはやここを自宅とすることが短いと感じて、安城家は舞踏会を開催することにした。当日は、旧華族あるいはそれに類する上流階級に属する多くの客が安城家を訪れた。大きな広間で楽団を入れて華やかな舞踏会が開かれる。しかし忠彦には、戦前自分の名前を使って利益を得たということで抵当権者の社長には貸しがあると認識しており彼を口説いた。しかし、その懇願はすぐさま拒否された。その後はかつて安城家の使用人だった遠山が、屋敷を買い取ると言い出した。それと同時に長女の昭子に向かって求愛したが、受け入れられない。状況はドン詰まりになっていくのであるが。。。
華族の没落は、まさにアップデートな話題だったかもしれない。この映画は華族制度がなくなって半年後に公開されている。庶民からしてみても、表向きはともかく影でいい気味だとささやくムードもあったかもしれない。
(華族の没落)
戦前からの華族制度を残そうとする動きはあったようだが、天皇の近い親戚以外大胆に削減された皇族のみが存在し華族という制度がなくなった。戦前はいろんな優遇を受けていたが、それもなくなる。当然収入は厳しくなる。使用人をたくさん使うことはできないし、維持費も大きく削減せねばならない。安城家は多額の借金を抱えているとのことであるが、当主はビジネスで成功した人物ではなさそうだ。どうして家をとられるほどの多額の借金をする必要があったのか?他に財産はなかったのか?という疑問はあるが、元の生活を維持するためには借金に頼らざるを得なかったと考えてもいいだろう。
安城伯爵は「殿様」と使用人から呼ばれている。明治維新前はどこかの大名だった家筋と推定できる。明治維新後の華族制度で身分を維持できた。ところが、本当の世間知らずだ。借金の期限も昔世話をしたこともあるので、何とかしてくれると思っている。
抵当権者の新川を悪者に近い描写をしているがそもそも借りた金を返そうとしないわけだから、悪いのは伯爵だ。しかも、見栄っ張りだ。身近で邸宅を購入してくれる人物がいる。
ところが、元使用人ということでプライドが邪魔する。この気持ちはわかるけど、切羽詰っているのだから仕方ないでしょう。殿様から1人の世間知らずになった男の悲劇といった形だ。
滝沢修は自分が子供の頃は、財界の大物などのお偉いさんの役を演じていた。これが適役でずいぶんと貫禄のあったものである。劇団民芸設立者でどちらかというと左翼系だ。戦前は公安に引っ張られたこともあるらしい。そうなると、戦前の特権階級が没落する姿は喜んで演じたいであろう。
映画の中に皆が交わすあいさつは「ごきげんよう」である。あえて意識的にやっていると思う。
学習院の付属校では普通に交わされる言葉遣いである。(今もそうなのかな?)
日本における階級の概念は、戦後68年間で大きく変貌を遂げたと思う。
昭和30年代から40年代に差し掛かる頃は、まだ残っていたかも知れない。自分が大学に行くころは進学率30%を越えた程度だったが、その前はもっと低い。しかし、高度経済成長により、全般的にレベルアップが図られ、その昔であれば底辺、中間層だった人もその気になれば同じ教育が受けられるのだ。格差社会になっていくことで、教育にも格差が出ているという話がある。そういえる部分もあるが、どう考えても今の方がましである。
(原節子)
彼女の代表作の一つ黒澤明監督「わが青春に悔いなし」の後の作品になる。あの作品では清楚そのものの彼女が農作業に励むシーンを延々と映した。意外性を感じたものだ。当時であれば、華族という設定で彼女以外の登用は考えられなかったであろう。彼女の持つ気品はここでも光る。浮世じみた姉とはちがって、現実的な考えを持つ女性の設定である。
そして、最終場面に向けて凄いシーンが用意されている。原節子と言えば、小津安二郎作品を代表するヒロインだ。しかし、そこで見せる彼女の姿は静のみといった感じがする。黒澤もここでメガホンをとる吉村公三郎も思い切った動きを原節子にさせる。これがなかなかいい。