映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「夏の終り」 満島ひかり

2013-09-13 21:56:34 | 映画(日本 2013年以降主演女性)
映画「夏の終り」を劇場で見た。

自分が少年のころ、実家に日本文学全集があった。分厚い全集本の一部に瀬戸内晴美さんの小説があり、この作品が含まれていた。最初は女流作家の本には目もくれなかったのであるが、高校生になり一度読んでみた。激しい恋の物語で理解するには若すぎた。
その後大人になりもう一度読んでみた。そのころにはもう彼女は得度していた。
2度目に読むきっかけは、日本経済新聞連載の「私の履歴書」に彼女が自分の過去を描いた文を読み、恋愛描写の激しさに圧倒されたからである。正直驚いた。激しい恋を重ねた結果に生まれた結果にできた私小説が「夏の終り」かと思うとドッキリした。
その後も彼女自身のことでなくモデルがいる作品である「いよよ華やぐ」が描く性の世界に呆然とさせられた。

ものすごくいい映画とは思わない。瀬戸内晴美作品がもつ強い性の匂いが薄く感じるからだ。でも、満島ひかりは好演、小林薫も彼にしか出せない味のある演技を見せている。時代考証には少し難ありと思えるがそれなりに楽しめた。

昭和30年代?が舞台だ。
染色家の相澤知子(満島ひかり)は、作家の小杉慎吾(小林薫)と暮している。慎吾には妻がいて、週の半分ずつ、知子の家と自宅を行ったり来たりしていた。その年の暮れ、知子が出先から帰ると、慎吾が「木下君が訪ねてきたよ」と言う。

木下涼太(綾野剛)は、知子が結婚していた12年前に出会って、駆け落ちした相手だった。その恋はうまく行かずに別れたのだが。大晦日、風邪をひいて寝込んでいる知子を置いて、6日に来ると言い、慎吾は自宅に帰る。寂しさに引かれて、涼太から電話がかかってきたとき、知子は「会いに来て」と言う。こうして、知子は、慎吾と暮らしながら、涼太とも関係を続けるのであるが。。。

2つの時代を交差している。
駅の映画看板で時代を示唆している。高峰秀子主演「カルメン故郷に帰る」は昭和26年3月公開だ。ジョンフォード監督の名作「わが谷は緑なりき」は本来太平洋戦争が始まる1941年の映画であるが、日本公開は昭和25年12月である。そう考えると昭和26年春が描かれていると想像できる。これは回想場面だ。8年ほどつきあっているというセリフからすると、この映画の主ストーリーは昭和34年前後と考えていい。
この映画のロケハンティングはうまい。セットもあるとは思うけど、まさにその時代の家を探しだして撮ったシーンがあり、よく見つけたと感心した。でも、昭和26年に描かれるオート三輪はちょっと時代が違うような気がするし、涼太のアパートの窓がサッシになっているのはありえない設定だ。昭和34年にバニーのお姉さんがナイトクラブにいたのかな?という疑問もある。和装の女性も多すぎるのではないか?若い監督がメガホン取るとよくある誤りだ。
まあ、そこまでムキになることもないだろうが。

夫や子供までも捨ててまで、一人の男に走る心理やどっちつかずに彷徨う女性心理はどうも個人的には苦手だ。そういう彷徨う女性を満島ひかりは頑張って演じていると思う。でももっと乱れさせても良かったのではないだろうか?
「さよなら渓谷」では真木よう子が一皮むけた演技をしていい出来だった。彼女の演じた愛欲あふれる女性と通じるものをこの映画の主人公は持っている気がする。他の俳優でなく満島を起用するなら若さにまかせてもっとむちゃくちゃにした方がいい。そうしたら彼女は一皮むけたのではないだろうか。



それでも、主人公が「愛より習慣の方が強い」と言っていた言葉が胸に残る。恋のはじめに思いっきり接触してそれが習慣のようになってしまえば、その恋はドロドロに離れられないものになっていく。言葉の表現がよくないかもしれないが、ヤクザが「いやがる素人の女性」を毎日のように狂ったように性の餌食にし、それを習慣のようにして、離れられなくさせてしまうようなものだ。キムギドクの「悪い男」のように。。
満島ひかりの言葉が頭から離れない。
コメント
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