ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

120217:太平洋戦争時、米戦略情報局に在籍した異才の童話画家「八島太郎」

2012年02月17日 | 趣味と交遊

八島太郎 ―日米のはざまに生きた画家―
野本一平著 創風社2008年発行 1700円

2月の写真愛好会の例会でHさんが去年末の忘年会で飲みながら話しておられた話題のひとの本ですということで2冊拝借した。
著者は元、北米毎日新聞の社長だった人でこの本の主人公の八島太郎さんとアメリカで交友があった人。
どんな人物だったのか?要するに明治生まれの鹿児島県人で若いころ体制に反感をもちプロレタリア芸術に転向、子供をおいて妻と渡米、太平洋戦争勃発しても日本に帰らず、米情報局に身をおき、日本兵士に降伏を促すビラをつくり、戦後は童話作家としてアメリカで名をなし69歳で脳溢血でたおれてもなお書き続け、数々の賞も受賞し、80歳でロスで死去した異才の芸術家、95~96年、日本で遺作展が開催されたという人。

八島太郎というひとは本名、岩松惇あつしと言い、1908年、明治41年鹿児島県根占町で4人兄弟の末っ子、3男で出生。後に妻になる笹子智江は同年東京で生まれている。16歳の時、結核で1年休学したが文筆絵画に才能、風刺漫画を南日本新聞などに連載。19の時、東京美術学校に入学するもプロレタリア美術にのめりこみ1929年、21歳の時放校処分をうけ、その道で生計を立て始める。22歳の時笹子智恵と神戸で結婚。25の時取り調べで虐殺された小林多喜二のデスマスクを描く。妊娠中の妻、光とともに検挙され拘置される。釈放後漫画を描き続け妻の絵も一緒に公募展入選。その後1939年31歳のときに日本に見切りをつけ、子供を神戸に残し、夫婦で渡米。絵で生計をたてる道を開いたが1941年12月、真珠湾で日米開戦、42年、交換船による帰国を断念、アメリカで生きる道を選択(34歳)。日本に残した子供が「日本の裏切り者」といじめられたらしいが信念をつらぬき破天荒な人生を送った。戦後、童話作家として名をなしたが故郷鹿児島への望郷の念たちがたく、アメリカ国籍はとらなかったとある。
まあ明治から大正にかけては日本にもいろいろユニークな人物がいたということだね

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