僕の感性

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芥川龍之介の失恋と結婚

2010-07-03 23:17:28 | 
だいぶ退屈な話かもしれません。お許しを・・・


東京帝国大学英吉利文学科1年であった芥川龍之介は、大正3(1914)年、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して正式に結婚を申し込みました。

しかし、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌大正4(1915)年2月頃に破局を迎えることとなるのです。

吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由でした(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があったのです)。

京都帝国大学学生となっていた親友井川恭(恒藤恭)宛同年2月28日附書簡で芥川はその失恋の経緯を語り、「唯かぎりなくさびしい」で擱筆、激しい絶望と寂寥感、人間不信(弥生をも含めた)を告白しています。

また3月9日の書簡には次のように書き綴りました。

「イゴイズムを離れた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との障壁を渡ることはできない。人の上に落ちてくる生存苦の寂寞を癒すことはできない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのままに生きることを強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は憎むべき嘲弄だ。・・・」

自分の愛が周囲の猛反対によって潰される。その自分勝手な大人たちに翻弄され苦悶に陥る世に絶望しています。エゴイズムのない純粋な自分の思いや望みが全うされる愛を心底望んでいます。

けれど失恋の痛手もやがて癒え、大正5年8月25日に塚本文に恋文を送るのです。

「僕は時々 文ちゃんのことを思い出します。文ちゃんをもらいたいということを、僕が兄さんに話してから 何年になるでしょう。もらいたい理由は たった一つあるきりです。そうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだということです。もちろん昔から 好きでした。今でも 好きです。そのほかに何も理由はありません。・・・」

こうして今度こそは大人のエゴイズムに翻弄されることなく、大正7年2月2日、芥川龍之介27歳は、目出度く文17歳と田園調布の自宅で結婚式を挙げました。