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証し

2007-11-02 19:34:00 | 日記
あかし【▽証し】 確かであるというしるし。証拠。証明。

辞書では上記のように定義されているが、クリスチャンがこの言葉を使うときは通常、「どのようにして救い主イエス・キリストと出会い、クリスチャンとなったかを話すこと」を指す。

突然、変なこと書き出してごめんなさい。でも、私が今晩死んでも何かここに残せるように今書いておきます。あ、決して自殺とか考えているわけではなくて、あくまでも「もしも」の話。かなり長いし、2004年に書いた文章をそのままコピペするので、文体など変なところもあるかもしれないけれど、よかったら読んでくださいな。

たぶん小学校の高学年くらいからだと思うが私は無神論者だった。神様は単に人間が作り出した存在だと思っていた。そして、何教であろうと宗教を信じている人が大キライで、親に言われても墓参りすら行かなかった。「人間は努力すれば何だってできる。いるかいないかわかりもしない神や仏に頼るのは弱い人間がすること」だと信じていた。そんな私だったが、大学に入ってからキリスト教に触れざるをえない状況になってしまった。英米語を専攻していた私は、いろいろな先生に、「英語を勉強する上では聖書の知識が必要」と言われた。それだけではない。大学に入って好きになった人がクリスチャンだったのだ。彼に恋愛感情を持ってはいたが、彼がクリスチャンであるところは好きになれなかった。だから神様について彼にいろいろな質問をぶつけた。彼は質問に答えてくれたが、神が本当にいるとすぐに信じることはできなかった。

私が大学3年生だった1989年の夏、私はアメリカ・カリフォルニア州のパームデールということろで約1ヶ月間のホームステイプログラムに参加した。ホストファミリーはお母さんと2人兄弟の母子家庭で、しかも兄弟の父親はそれぞれ違うという少し特殊な家庭だったが、私は3人とも大好きだった。お母さんはクリスチャンになったばかりだった。私が彼女に自分が無神論者であることを告げると、お母さんは「なぜ神様がいないと思うの?人間の体を見て。ただ進化を重ねただけでこんなに複雑な機能を持つ生物になれると思う?」と言った。私は何の疑いもなく進化論をずっと信じてきたから、そんなことを考えたことがなかった。お母さんは私の手を握って涙ながらに祈ってくれた。「神様どうかあなたが本当に存在することを彼女に示してください」と。私もお母さんの祈りに感激して泣いてしまった。でも、その祈りがかなえられるとは思っていなかった。

翌年の夏から私はアメリカのアラバマ大学に留学した。最初の2ヶ月間は英語学校に通ったのだが、その中にとてもハンサムで感じの良いクリスチャンの先生がいた。彼はビリーという名前で、牧師の息子だった。ビリーから「留学生の聖書研究に参加しない?」と誘われた時、私はすぐにOKした。自分が信じていること(神も仏も存在せず、宗教を信じることは間違っているということ)に絶対の自信があった(今考えるとなぜそこまで自信があったのかよくわからないのだが)ので、聖書の言葉が間違いであると証明し、その聖書研究に参加しているクリスチャンたちを誤った道から救い出してやろうと思ったのだ。

聖書研究に行き始めた頃は自分に聖書の知識がほとんどないことを恥ずかしく思った。ビリーから「ローマ書1章20節を開いて」と言われても、それがどこにあるのかわからなくて、他の人に教えてもらわなければならない。それが私には悔しかった。その聖書研究を通していろいろなクリスチャンに会ったのだが、彼らはとても親切で誠実だった。普通の人とは明らかに違う何かを感じた。その中にアメリカでクリスチャンになった敦子さんという日本人女性もいた。敦子さんはことあるごとに私を助けてくれた。それはただの親切というよりは、「犠牲的な愛」という感じだった。聖書研究に参加するうちに自分で聖書の箇所を開けるようにはなったが、聖書に書かれている内容はあまりピンと来なかった。神様がこの世界を6日間で創造したとか、アダムとイブが最初の人間だったとか、そんな話はとても信じることができなかった。そんな私に敦子さんは聖書の教えをわかりやすく解説した日本語の本をたくさん貸してくれた。当時は日本語に飢えていたので、短い時間に何冊も読んだのだが、その中にアメリカ人が書いた"Footprints"という詩が紹介されていた。以下はその詩を私が日本語に訳したもの。


足跡

ある人が夢を見た。
彼は、主(イエス・キリスト)とともに、浜辺を歩いていた。
空にこれまでの彼の人生が映し出された。
どの場面にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。
一つは彼の足跡、もう一つは主の足跡であった。

人生の最後の光景が映し出されたとき、彼は砂の上の足跡を振り返った。
そして人生の長い道のりで一人分の足跡しかないところがいくつもあることに気がついた。
しかもそれは彼が一番辛く悲しい時だった。

彼はこのことに心を乱され、主に尋ねた。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたはいつも私とともに歩んでくださるとおっしゃいました。
なのに、私の人生で一番辛かった時、一人分の足跡しかないではありませんか。
私が一番あなたを必要としていた時に、なぜ私を見捨てられたのですか。」

主は答えられた。
「わたしの息子、わたしの宝物。わたしはあなたを愛しているし、決してあなたを見捨てたりはしない。
あなたが辛かった時に、足跡が一つしかないのは、わたしがあなたを背負って歩いていたからだよ。」

Mary Stevenson (1922-1999)


この詩を読んた時、「私に必要なのはこの人(イエス・キリスト)だ!」ということがわかった。当時の私はアメリカの大学の授業になかなかついていけず、精神的に苦しい状況だった。友人はたくさんいたし、悩みも聞いてくれたが、私の身代わりになってはくれなかった(当たり前だけど)。でも、イエス・キリストは私が辛い時に私を背負ってくれるというのだ。聖書に対する疑問はたくさんあったが、イエス・キリストが私の罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださり、そして復活されたこと、彼こそ私の救い主であるということを信じた。それから私の人生は大きく変わった。苦しい時も辛い時もイエス様が私を守り、導いてくれた。そして何よりも自分がイエス様に愛されているということが、私の心の支えとなった。

これを読んでいるあなたにはイエス様のような存在がいるだろうか? その存在はどんな時もあなたに対して変わらぬ愛情を注いでくれるだろうか?そしてその存在はあなたを天国に導いてくれるだろうか? もし今あなたにそのような存在がいなくて、イエス・キリスト自身にその存在になってほしいと思っているなら以下のように祈ってほしい。

イエス様、私の罪のため、身代わりに死んでくださったことを感謝します。私は今、私の救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

最後に、私の拙い証しを読んでくださったことを心から感謝します。
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