籠橋さんに最後に会ったのは、私が24歳になって間もなくの頃。
そして、信州に逃亡してきたのは26歳の頃だったと思いますが、
これまた記憶が定かでなく恐縮ですが、信州移ってから2、3ヶ月位だったか、
1年後位だったか、よく覚えていないのですが、せっかく信州に来たのだから
バイトでお世話になったTさんに挨拶に行こうと思いたち、休日にノンアポで
会いに行きました。突然の訪問でTさんは自宅にいるのだろうか、とか、私の事を
覚えているだろうかとか、不安もありましたが、幸い、私の事を覚えていてくれて、
ああ、来て良かったな~と思ったものですが、しかし、そこで私はまさかの
衝撃的事実を知らされることになりました。ここまでの記事を読んでる方には
お分かりだろうと思いますが、数年前、大泉学園駅で笑顔で別れ、喫茶&スナックで
働きながら、定時制高校に通っていたはずの籠橋さんが癌で他界したというのです。
しかも、バイトしてた時、既に末期だったといいます。
どういう経緯でTさんに知らされたのか、Tさんは末期がんを承知で籠橋さんを雇ったのか、
今となってはあまり知りたくないことですが、
本当に驚きでした。でも、その一方、野辺山でバイトしてた半年間から、彼女が
東京に来て、去って行くまでの不可解な事が、一気に走馬灯のように蘇ったというか
巨大な氷山が一気に溶解するように理解することができました。ただ、理解できたと
いっても、直接籠橋さんや遺族、関係者から真相を聞いた訳ではないので、
推測の域を出ていないものではありますが。
仕事しながら度々腹痛を訴えていたこと、一度は一緒になる約束をするほど
お互いに理解していたという思いが、いとも間単に崩れた経緯、突然彼女が
発した「Kさんみたいなお坊ちゃんにはわからない!」という言葉の真意、
全てが彼女の置かれた、想像を絶する運命に由来するものだったのかと、
理解以上に後悔する事の方が多すぎて、今だに当時の自分の鈍感さを
怨むと同時に、もっとやるべきことがあったに違いないと
悔やんでも悔やみきれない記憶は一生消えることは無さそうです。
数少ない、記憶にある彼女の発言の一つに、30代になった時の私を見てみたい
というのがありましたが、見れないことを暗示してたのでしょうか。
彼女がもし生きていれば51歳。見たかった。
おわり
久しぶりに会った籠橋さんは、ヘアスタイル体型とも全く変わりなく
可愛い笑顔で健康そのものの様に見えました。
これは野辺山で一緒に働いていた時から同様に感じていたことで、
まさかこのわずか後、数ヶ月なのか数年後なのかわかりませんが、
他界するとは、その時は夢にも思いませんでした。
喫茶店で話をしてる時も終始笑顔だったように、思います。
ホントに嬉しそうに話してくれました。で、その時の彼女の近況ですが、
昼間は劇的に出会った、ひばりが丘駅近くに在住のTさんが青山通りで
経営する喫茶&スナックで働きながら、夜は定時制高校に通っているとの事でした。
そして今では、そのお店の主みたいになっていると、満面の笑みで話してくれた記憶だけは
鮮明に覚えています。ただ残念ながら、それ以外の会話は全く記憶に無いのです。
色々話したような気はするのに・・・
高校へ通うとなると住民票とか保証とか人、色々書類がいるだろうし、
一度は岐阜に帰ったと思うけど、その辺の事も残念ながら不明です。
とはいえ、野辺山~私~Tさん経由で彼女は自分の念願だった
平凡な生活を手に入れた訳で、仕事も見つけたし、色々あったけど、
順風満帆な生活を送っているように、その時は感じました。
どれ位そこで話をしたか、それも記憶に無いですが、30分ほどだったろうと思います。
やがて大泉学園駅で本当の最後の別れになるのですが、その時の状況も悲しいかな
記憶にございません。出会った時は2人とも池袋方面へ向かおうとしてたのに、
一緒に電車に乗ったわけでもなく、駅でお互いの健闘を祈りつつサヨナラしたのですが、
そのシーンが全く頭に浮かんできません。残念ですけど。
喫茶店でサヨナラして、別々に電車に乗ったのでしょうか?
それも不明ですが、これが最後の別れだったことには変わりありません。
その日以降、お互い別々の道を歩み、お互い何をしてのか知る術も無く月日が経ち、
「私は野球の好きな方」という広告に釣られ、某音楽事務所や学生時代何度も
お世話になってる、ちくわぶ製造工場等で働きながら、最近別れた伴侶と出会い、
信州に逃亡というジェットコースターみたいな生活を送ってきた訳ですが、
続く
、
その大泉学園駅前の、あまり後味のよくない会話を最後に
もう彼女と会うこともないだろうと思っていました。
彼女が働くという青山通りのお店の場所も、おおよそ聞いていたので
そこに行けば会う事も可能でしたが、何故か行こうという気にはなりませんでした。
それからどれくらい経過した頃でしょうか、2、3ヶ月くらいだったか、半年位だったか、
1年は経ってなかったと思います。私がバイトを見つけて面接に行こうとしてたのか、
どこか買い物に行こうとしてたのか、記憶にございませんが、西武池袋線大泉学園駅で
池袋行き方面のホームで電車待ちしてた時の事です、止まって開いたドアの真ん前に
何と、籠橋さんが立っているのです。ほんとにビックリしました。彼女も驚いたと思います。
これはホント奇跡に近いことだと思います。
それまで24年間東京に住んでて、電車や駅のホームで知人と会った事は
その時より数年前、池袋駅の階段で、中学2年の時、私と同様、他所から転校してきて、
同じクラスになり、当時好きだったK・Yさんに偶然逢った時の一度きりの事で、
田舎と違って人口の多い都会は、知人に行き会うことは、極めて稀な事で
たとえニアミスしても気付かない事の方が多い場所です。電車の本数も
一時間に1本みたいな田舎と違って、5、6分に1本はあったでしょうか、
西武池袋線で同じ列車の同じドアでの再会は、今思い出しても劇的でした。
誰かに導かれたかのように現れた、あの時の再会シーンは、
やはり神様の演出だったのでしょうか。
彼女も運命的出会いの恩人でもあるTさんに会いに行った帰りで、中野に
向かっていたのでしょう。
驚いた二人は特に忙しくもなかったのでしょう、予定を変更して大泉学園駅を出て、
北口にある喫茶店に入り、久々に話をしました。
続く
その出会いが、いつ彼女起きた事だったかは記憶にございませんが、
それこそ彼女の為に神様が遣わされたとしか言いようのない出会いだったと想います。
彼女が初めて東京に来て、私に電話するまでの間だったのか、その翌日、
大泉学園に来るまでの電車の中だったのか、そのどちらかだっただろうと思いますが。
その方は当時、西武池袋線ひばりヶ丘駅近くに在住の、渋谷青山通りで
喫茶&スナックを経営してるという方で、異様とも言える、いかにも初めて東京に
出てきた家出娘姿の彼女が心配で気になったらしく、声を掛けてきたそうです。
その奇跡的出会いから、彼女の運命は急展開していきました。
私と2人で探したアパートも、一ヶ月も住まなかったと思います。これも記憶が曖昧で
確かな事は言えませんが、もしかしたら1週間位しか居なかったかもしれません。
彼女に呼び出されて話を聞くと、今住んでるアパートを出て、中野駅近くにある
その店の寮なのか、彼女の為に探してくれたのか、そこまで聞かなかったと思いますが、
そこに住んで働くと言うのです。突然の事で驚いたろうと思いますが、彼女に未練が残る
私は、彼女に今のアパートに留まるよう言ったのか、何を言ったのか、これも記憶が
曖昧で恐縮ですが、最後に彼女が言った言葉だけは鮮烈に覚えています。
「Kさん(私)みたいな、お坊っちゃんには分からない!」
初めて聞いた籠橋さんの強い口調でした。当時それが何を言おうとしてたのか
よく分かりませんでしたが、いずれにせよ、中野に行く彼女の気持ちは変わりそうも
ないようなので、これで彼女に会うのも最後かと思いましたが、その場で一旦
サヨナラしました。
続く
池袋駅へ行き、籠橋さんに会って、どんな話をしたか、これまた残念な事に、ほとんど
記憶にございません。いずれにせよ急務な事は、全く予定が立ってなかった状況で、
住む所、仕事を見つけることなのですが、かなり騒動なことだったろうと思います。
とりあえず、今日のところは池袋駅近くのホテルに泊まり、翌日アパートを一緒に
探そうという事になったまでは覚えています。ただその日、どういう話の経緯で
そうなったのか記憶にございませんが、当時池袋の映画館で上映されてた
「フラッシュダンス」を一緒に観ました。これも運命の悪戯なのか、映画の
ヒロインと籠橋さんが、今思えばダブって見えて、生涯忘れる事のできない映画に
なってしまいました。
で翌日、籠橋さんにいつでも会いたい私は、半ば強引に彼女に大泉学園まで来てもらい、
地元の不動産でなるべく安い物件を紹介してもらい、私の実家から徒歩で10分くらいの
アパートにとりあえず落ち着きました。当日バイトの面接も一件受けたと記憶してますが、
そのときは決まらず、私も彼女も仕事探しを始めたと思いますが、その後の記憶は例の
ごとく、全く記憶にありません。
しかし、その後、彼女には劇的な運命的出会いが待ってました。
続く
その電話の主はもちろん籠橋さんですが、この辺の記憶も曖昧で、
一緒に生活しようと約束した時は当然東京に来るものと思っていましたが、
その約束を破棄された後は、どういう話をしてたのか、恐縮ですが
記憶にございません。実家に帰るのを躊躇っていたことは知ってたので
やはり東京に来るよう勧めて、彼女もその予定でいたのか。
だとすれば住む所をあらかじめ探していたと思うけど、それはしてなかったし、
ということは、東京に来るかもしれないし、来ないかもしれない、
という話だったのかもしれないし。いずれにせよ、その電話は突然のもので、
私が実家に帰ってから、一週間か二週間の間位だったと思います。
しかも電話をかけてきた時、彼女はその日に野辺山から東京に来たばかりで、
今いる場所が池袋駅だと言うのです。おそらく中央線小淵沢駅から新宿駅経由、
山手線で池袋に辿り着いて、助けを求めるつもりで電話をかけてきたのだろうと
推測しますが、その時私が家にいなかったらと思うとゾッとします。
当時は勿論携帯など無かったし、他に連絡の取りようがないですから。
でもそれも、私の衝動的行動のように見えた野辺山侵攻同様、彼女の為に
予定されたシナリオだったのかも知れません。
連絡を受けてから、慌てて池袋駅に行くと、私が入る前に辞めていった男性から
もらったという、男物の作業用紺色ジャンバーに、やや大きめのバッグとギターという
一際目立つ姿の籠橋さんが心細そうに改札のそばに立っていました。
続く
5月初旬から10月末まで、念願だった野菜農家のバイトを無事勤め上げ
東京の自宅に帰ったのは11月に入ってからだったと思います。
百姓の仕事はさすがに厳しかったようで、行く前72kgあった体重が
帰ってきた時には57kgに減っていました。今思えば、
お金がもらえてダイエット出来る、サイコーの仕事だったような気がします。
また、夜間大学そっちのけで、親にも相談無しの暴挙だったため、さぞかし
怒られるものと思っていましたが、何故か例のごとく全く記憶にございません。
おそらく、どちらかというと厳格系の親だったから、叱られたものとは思いますが。
ただ、この都合の悪い事は忘れてしまいましたが、もう一つの都合の悪いことは
ハッキリ覚えています。それは当たり前のことなのに、家に帰るまで思いもしなかった
通告でした。それは、学費を半年間納めていなかった為、大学を除籍処分にするという
一通の手紙でした。
それまでの4年間、自分で稼いだ金で払っていた学費の事を、野辺山に行くと決めた
瞬間から全く忘れていました。勿論、大学を止めてもいいという気持ちもあったのですが、
その通知が来てたことで、休学という選択肢もあったのだと、超超ちょっぴり
後悔もありました。でも、今更どうにもなるものでも無いので、気持ちを切り替え、
自宅に帰ってから本格的に就職しようと就活を始めました。
私の人生でも最初で最後とも言えるスーツを着ての面接を何社か受けましたが、
穀物輸入商社では、日本は食糧自給率をもっと上げ、自給自足を目指さないと
ダメだ、などとやってしまい、採用されるわけも無く、結局はアルバイトニュースで
アルバイトを探すようになるのですが、その就活期間中、自宅待機してたある日
突然のビックリする電話がありました。
続く
一度は一緒に生活しようと約束したものの、間もなく一方的に解消され、
お互いに気まずくなり、一週間位、全く会話の無い期間がありました。
その気まずさを、どうやって元に回復したのか、記憶にございませんが、
何となく、私の方から、突然難題を持ちかけたことを謝ったような気もします。
元の何でも話せる関係になったのは、かなりバイト終了の時期に近かったと思います。
バイト終了の日はどうして決めたか、それも記憶にございませんが、
3人いるバイトのうち、私が一番早く辞めたような気がします。
とにかく昔の事で、その間事故で脳みそをやられたり、年齢からくるボケもあるのか
自分の事なのに、気がしますや思いますの連続で大変恐縮ですが・・・
次回から東京に帰ってからの私と籠橋さんの事を、思い出しながら綴っていきます。
続く
そんな彼女の真実に気付かぬまま、農家での住み込みバイト生活は
野菜の生長に合わせ、自然と流れていきました。
その中の思い出の一つですが、出荷が始まると、それまで割と
ノンビリしてた仕事が一変しました。
野菜を切り、レタスの場合は切り口を濡れたスポンジで洗浄し
大きさ、形ごとに分けて箱詰めしていくのですが、その作業の
慌しさ、体力的厳しさもですが、休みの日が不定期になり、体の疲れもあってか
しばらくするとバイト仲間に不満の声が出てきました。
体力的に自信があった当時の私でも、出荷が始まって2ヶ月位経った頃でしょうか
毎日のように休みたいと思うようになり、それが頂点に達した時のある日、
誰が言い出したかは記憶に無いけど、私と籠橋さんともう1人のバイトのW君3人は
仕事を放棄し、早朝宿舎から逃亡し、甲府へ遊びに行くという暴挙にでました。
今思えばよくあんな事が出来たな~と信じらない気持ちですが、若気の至りというのか
それほど悪い事とも思ってなかったような気がします。
朝から午後2時位まで甲府付近にいたと思いますが、そこで何をしてたかは、私に関しては
全く記憶にございません。W君はパチンコをしたと言ってたような記憶はありますが、
籠橋さんは何をしてたか、聞いたとは思いますがそれも全く記憶にございません。
ただ、宿舎へ帰ったときの事はよく覚えています。
宿舎へ帰りTさんに謝りましたが、何故かTさんは怒るでもなく無言でした、
でもその顔は誰が見ても分かるくらい真っ赤に変色していましたが。
続く
その後もいろいろ将来の事について話をしたと思いますが、
記憶に残っているのはホントに僅かで、
籠橋さんはパン屋とかケーキ屋を自分でやりたいと言っていたのか、
就職したかったのか、その様な話をしてくれた記憶があります。それに対して、
私の話した事もほとんど記憶に無く、当時持っていなかった運転免許を
働いたお金で免許を取り、**業をしてお金をためたらどうか、みたいな
事を話した事は覚えていますが、その他の会話は残念ながらほとんど記憶にありません。
学業を犠牲にしてまで飛び込んだ農業アルバイトでしたが、彼女の事を
知るにつれ彼女に惹かれていき、そのような約束まで交わしたという事は、今思えば
運命の人だったのかもしれません。しかし当時はそれほど強い思い入れが無く、
ただただ川の流れに身を任せ的な心情で、彼女を本気で愛していたのかどうか、
今思えば、悲しいかな疑わしい気もします。そのような気持ちだったせいか、
一緒になる約束を交わしてから、1カ月か2ヶ月か、それも記憶にないけど、
バイト終了間近だったと思いますが、突然彼女の方から、一緒になる約束は
果たせないと言い出してきた時も、約束破棄の理由をそれほど深く追求することなく
私の意志を通す事も無く、彼女の気持ちをそのまま受け入れてしまいました。
この彼女の心変わりも、当時は私の事が嫌いになったのか、別の男性が現れたか、
その程度の理由しか思いつきませんでしたが、バイト終了から数年後、彼女が胃癌で
亡くなっていた事を知り、その時初めて、自分の運命を知っていたからこそ、
私に迷惑をかけたくないという思いで、自ら身を引いたのか?
という、新たな、真実と思いたい理由が浮上してきました。その新たな事実が発覚以降、
何故あの時、もっと私を拒んだ理由を追及しなかたのだろう?そして何でもっと
彼女に考え直してくれるよう懇願しなかったのだろう?
と、今でも心臓に突き刺さって、永久に抜ける事の無い後悔の矢が幾つも飛んできました。
続く
彼女と一緒になろうと約束した経緯ですが、実のところ記憶が曖昧で
私の方から誘ったことは間違いないのですが、そのきっかけは、
勿論、私が彼女に惹かれてた、ということもありましたが、話しの流れの中で
それに私が便乗して、誘惑してしまったというような気もしてます。
覚えているのは、彼女は時々実の兄の話を聞かせてくれて、とても慕っていて、
仲の良い兄妹だと羨ましく思っていたものですが、
バイトも後半になり、作業が終わった後の事が話題になると、何故か彼女は
実家に帰る事を嫌がり、また違った居場所を探そうとしてるようでした。
この辺の行動も、彼女に特別な事情があったからだと、今になれば理解できるけど、
当時は全く理解不能でした。愛しいお兄さんがいて、父母もいただろうに、
何故?と思いましたが、何故か私も彼女の実家の事を、深く訊こうとはしませんでした。
また、彼女は可愛かったし、頑張り屋さんだったから、近所の複数の独身男性から
嫁にこないか、と誘われていたみたいですが、全部断ったようです。
で、バイト終了後の話で、彼女が東京に行きたいと言ったかどうかは、記憶が曖昧で、
確信はありませんが、私の方から一方的に東京においでよと言ったのかも知れません。
いずれにせよ、一緒に生活しようよと割とサラッと言ってしまったような気がします。
でも、彼女にとっては驚愕のお誘いだったに違いありません。
手を握ったこともキスもした事も無い男からの誘いだったので、すぐには返答できなかった
のでしょう。少し考えさせて欲しいと言われました。この辺の記憶は確かです。
その返答をもらえたのは、確か翌日で、彼女は照れくさそうな笑顔で
「よろしくお願いします」と言ってくれました。その時の私の気持ちは、今思えば
飛び上がるほど嬉しかっただろうと思うのですが、何故かあまりよく覚えていません。
続く
段々籠橋さんとの思い出が限られてきましたが。
バイト期間のいつ頃だったか確かな記憶にありませんが、
多分、後半の終わりに近い頃だったと思います。
私がギターを持ち込んで弾いていた影響でしょうか、
彼女もギターを始めたいというので、休みの日に甲府へ
ギターを買いに行きました。楽器店がどこにあるかは全く知りませんでしたが
甲府なら間違いなくあるだろうと思ったので。
初めて買うギターでも、できるだけ高価なギターの方が長続きすると思ったので、
当時1万前後のギターもありましたが、彼女の経済事情も考慮し、安すぎず高すぎずの
3万円のギターを勧めました。ギターとハードケース、初心者教本を買って帰る途中、
小海線小淵沢駅では待ち時間が十分すぎるくらいあったので、
買ったばかりのギターで「アルハンブラ宮殿の思い出」等を披露しました。
怪我して指が曲ったり太くなった今では困難な曲を、その時は完璧に弾けたと思います。
宿舎に戻ってからも、少しだけ教えたりもしてましたが、今思えば、もっと時間を割いて
教えてあげればよかったと、ココにも後悔があります。
当時はいつでも教えてあげられるものだと思っていたので。
というのも、一時彼女とは、バイトが終わった後、東京で一緒に生活しようという
約束もしてたので・・・・
続く