「とにかく外に出る」
呆けないためには「とにかく外に出る」ことである。
これを実践している。
特に、昨年、まるで引きこもりのようにホンばかり読んでいたからである。その結果、体調を崩したからである。しかも、それで在籍大学も自ら出て行かざるを得ない可能性が高くなってきたから、ますます始末におえない。
さらに、能力も無いのに、ゴミ論文ばかり書いていた。昨日も少しやっていたが、大体400枚近くなった。A4である。その一部分である横芝光町にある鬼来迎と中国福建省の目連救母劇を扱った日中比較芸能という章を、某研究誌に投稿しているので、査読を通過しなくては日の目を見ないことになるのだが。その部分だけでも2万字になる。研究誌の応募規定でそうなっているので、訂正したのである。
訂正とか修正は得意である。
そうなのだ。一発で合格したことは、これまで長いこと生きてきたが、まったく無かったからである。
まことに苦難の人生でありましたよん。態度も悪いし、嫌味な性格だし、しかもアタマが悪いときている。
アタマが悪いから勉強しているのである。マジに、折り紙つきの劣等生であり、学業不振の鏡である。要するにバカなんだけれどもね。
だから、閉じこもってコンピュータ相手に、ゴミ論文を書いていたのである。
だって、バカなんだから、せめて閉じこもって勉強しなくちゃ話にならんでしょ?
以上終わり。
それじゃぁ冒頭の書き込みと関係ねぇじゃねぇかと叱られるから、もうちょっと書く。「とにかく外に出る」ということである。
昨日もやった。
午前中一度。
午後一度。
銀行にも片道2キロあるが、歩いていく。さらに、古書店チェーンが銀行の向かい側にあるから、そこも歩いていく。
昨日あたりにまた年賀状が来たから、こっちから出していない方であったので、返事を書いて出しに行った。それが午後。郵便局の本局まで徒歩で行く。そちらも大体2キロである。
健康のためである。
そして、今日はもう用意してある。なにかというと、居住地にある大図書館である。歩いて片道20分。ちょうどいい。ノートパソコンを持って、原稿を書いてくる。そうなのである。学事出版から原稿依頼が来ているから、図書館で書いてくる。それとゴミ論文も。
夜は塾に行く。もうこれで3年たつ。よくまぁ私のようなバカを雇ってくださっている。しかも数学と英語がメインである。子どもたちにも言われる。「と~ま君は、数学のセンセですか?」って。笑って答えないことにしている。国語もたまにあるけどね。わははっははははは。
塾も「とにかく外に出る」ことの一環である。そうなのである。良い気晴らしになるのである。数学っていっても、高校受験レヴェルだから大したことはない。英語もそうである。たまに大学受験レヴェルの高校生も教えるけど。ま、英語は間に合っている。問題は数学である。典型的な文系だから、アタシャ。だから、毎日数学の問題集を解いているのである。ノートも、なんと5冊目に入った。数学だけである。
ところが楽しいのである。
解くことがである。
塾の経営陣も私が趣味で塾に来ているのがわかっているらしい。そうなのである。カネがほしくて、やっているのではないからである。めいっぱい働く気がまったく無いからである。時給制だからやればやるほど、収入にはなる。しかし、私は3年前からずっと週にフタコマしかやらない。つまりやる気が無いっていうわけである。それ以上やったら、私のアタマがパンクする。体力もない。しかも、体調まで崩した。病になってまで、働きたくはないのである。
つまり欲望がなくなったのである。
欲望を持つことが、大きな意味を持たなくなった。異性に対してもそう。いろいろアタマを使って、どうやったらモテルかというような問題設定はそもそも私の人生には存在しなかった。だから、恋愛小説とか不倫とかの文学が読めないのである。昨日も古書店チェーンに行ったら、それの典型であった渡辺淳一の全集が、一冊108円で売っていた。笑ったな。渡辺淳一がついこの間亡くなったが、もうこれだ。つまり大した価値はなかったということになる。誰も買わないようだし。買うとすれば私くらいだろうか。しかし買わない。カネがもったいない。
世間で偉くなっていく方というのは、欲望の塊なのであろう。今朝の新聞を見ていてもそう思った。なんとかの団体の会長とかなんとかというのは、殆ど爺ばかりであるからである。
ま、ある意味、そういう方々は、それが生きがいであろうから、それが長寿の源になっているというのなら結構なことである。
貧乏な爺である私には関係の無いことであるからだ。
私は、「とにかく外に出る」ことで、ニコニコしていればそれで用が済んでしまう。
さ、傘を持って、これから出かけましょう。ゴム長靴を履いて。
わははっはははっは。
(^_^)ノ””””