Pranava. Yoga+Ayurveda.

ゆるりヨーガとアーユルヴェーダな暮らし

イランカラプテ

2016-06-24 | いつものこととか
2年ほど前 北海道出身のアーシュラム仲間に教えてもらってから ずっと心に留めている アイヌの言葉「イランカラプテ」



「あなたの神聖さに そっと触れさせてください」というような意味であることを教えてもらいました



実はヒンディー語圏で使われるナマステにも同じような意味があることを知り その語感すら美しいと今では想っています


人の神聖さに触れるのがなかなか難しいなと想うことあります


とある記事で 「私たちは自分を覆い隠して塞ぎ込む文化に生きている」とあり なんだか分かるような気がしました


私たちって 自分を幸せにしたり 心地よくするものにも執着するけれど そうではないものにすら執着してしまう


そんなに簡単な問題ではない とか
そんなに簡単に見つからない とか



でも 簡単に見つけようとしているからこそ 簡単には出来ないって 想いがあるんじゃないかな



自分のことも相手のことも 物質的のものもわかりやすく簡単に手に入れたいのは分かる
だって安心だもの



作られた態度や用意された言葉とかに安心したり 反対に目に見える態度や耳に聞こえる言葉の背景にあるものに自分を留めておけず 自分のことも物事も簡単にジャッジしたりするのは焦りや孤独を抱えているからだと想う



リラックスしたり委ねるって何も考えない事ではないし 何も抱えていない事ではないし 何も気づいてない事でもないって一緒にヨーガや言語造形を学んでいる仲間と話していました



そんなことなかなか理解してはもらえないのだけれど ヨーガの古典の世界に触れると自分の悲しみや苦しみすら自分の幸せの拡大の為にあるって あらゆるものに気付き始めるんです



古典のヨーガの世界観は この世界に…自分に寛ぐこと



この世界とはあなたであり 私であり 全ては一つ



それをほとんど本能的に理解するには 思考や感情に囚われていると 難しいけれど 長い目で見て向き合う価値はあると想います



イランカラプテには こんな意味もあるそうです
「私も心を開いてあなたと向き合うので あなたもどうか私に心を開いください」



アイヌの人々や古代のインド人が自然の中で自然のリズムと共に暮らして体験的に自分には どうしようもないこと 人それぞれの本来の美しさとか強さを知っていて真に謙虚なのかなーなんて旅先や日常の中の景色を想い出しながら ふと想いました




長ーーい目で見て
全てに自分を見始めた時にヨーガが 瞑想が そして人生がはじまる



片足を突っ込んでいた古典の世界ですが ようやく両足揃えて その深遠なる世界に浸ろうとしています









大好きなfamilyから頂いたカシワバアジサイ

まんまのお互いを分かち合いながら これからも少しずつ宜しくお願いします









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