人間は、逆に言えば、言語と科学を通してだけ世界を理解している。井戸の中から空を見上げているようです。井戸の外には別の世界があるのかないのか分かりません。仮に別の世界があるとしてもそんなものは空想でしかない。見えるものだけが存在するものであるとすれば、井戸の上の空を理解し変化を予測できればそれで全知全能といえます。
私たち人間どうしが語り合っていると、あたかも、人はどんなことでも語ることができる、と思えます。言葉を適切に選べば、何事をでも語ることができる。話し合おうとする気があれば、どんなことについてでも、話し合うことができる。そう思っています。しかしそれは思い上がりなのではないでしょうか?思い上がりというよりも、見えないものはないと思い込む、カエルのような世界観ではないでしょうか?
人間はカエルよりもえらいのか?カエルにはできないけれども人間にはできることがあるのか?それとも人間も所詮は、カエルのように、井戸の底から見上げる空しか見ることはできないのでしょうか?
人類言語は万能なのか?何事をも語ることができるのか?語ることができるものだけが存在するものなのか?それとも、語ることができないものがあるのか?それは何なのでしょうか?
私は考える。何かを考える。それで何かを思いつく。その場合、それをメモ帳に書き付ける。あるいはツイッターに書く。あるいは友人に語る。そのとき言葉で語るでしょう。言語を使う。言語を使わなければ思いついたことを表現できない。
作曲家は譜面に曲想を書くかもしない。口笛を吹くかも知れない。しかし音符もまた言語でしかない。画家は絵を描く。しかし絵もまたある意味で言語でしょう。人に何かを伝えるものは、結局は、言語の一種でしょう。そう見れば、何かを思うということは、言語で語ることと同じことになります。
私たちが何かについて語り合うとき、問題は、語り始めた瞬間にどうにもならない限界の中に入り込んでしまうということです。それは、人間どうしが言葉でしか語り合うことができない、という限界です。いや、絵を描いて語り合うことができるじゃないか、とか、マンガで語り合える、とかいう人もいるでしょう。それはしかし、その絵やマンガを言葉で確認しなければ語り合ったことにならないでしょう。