言葉で確認することで、絵もマンガも音楽も演劇も料理もファッションも、私たちは共有する。コミュニケーションとしてなりたつ。それでそれらの物事はこの世界を構成することができるようになります。世界の構造について理解しあうことができます。
言語以外に言語に似たようないろいろな方法で、たとえばウィンクだとか、ため息だとかで、私たちはいろいろな物事を伝え合い感覚や感情を共有するけれども、言葉でそれを確かめない限り、それらは煙のように消えてしまいます。
歩道ですれ違った高速自転車乗りに視線を投げかけながら、ふっとため息をついて片眉を下げてみせる。友人も両手を小さく広げるジェスチャーをします。それでコミュニケーションは成り立っている。しかしこのコミュニケーションを一週間後に正確に思い出せますか?ひとことふたことでも友人と言葉を交わした場合、たぶん言ったことを覚えているでしょう。しかし軽いジェスチャーだけだった場合、おそらくその動作は覚えていません。この小さな事件をツィッターにでも書き留めておかない限り、しっかりした記憶にとどめることはできませんね。
言葉でしか正確な記憶は作れません。光景は時間とともに消え去る。
人間の脳内にではなく、物質に記録した光景はしっかり残る。人間の経験も、写真や動画や科学測定データに記録しておけば永久に残るではないか、といえます。それらの記録は、その時点での現実をいつまでも語り続けることができるではないか、と思えます。
しかしそれらの記録もそのままでは、単なる物質でしかない。物質については、結局は言葉を使ってそれについて語られることでしか、私たちにとって意味があるものとして受けいれられることはできません。そうでなくてはそれらもまた煙を写真に撮ったもののように意味のない物質としてとどまるだけです。
人類言語は物質について語ることができます。科学を使って物質世界の構造を語ることもできます。しかし言語を使って語ることのできないものがあるのかないのかについては、言語では語ることができない。
言語は存在するものについて正確に語ることができますが、存在しないものについては正確には語ることができない。言語を使ってフィクションとして語るとき、あるいは詩として語るとき、存在しないものについて語ることになりますが、正確には語れません。つまり逆にいえば、言語を使って正確に語られ得るものだけが存在する、ともいえます。
もしそうであれば、言語は存在するものすべてを語ることができる。逆に言えば、言語できちんと語ることができないものは存在できない、といえます。言語が万能であるかのように思える根拠はこういうことであるのかもしれません。