哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(23)

2008-11-15 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

言語を含めた人類の相互理解の手段と様式は、世代交代を重ね、歴史的に変化してきている。特に近代以降、言語を利用する相互理解の様式が、言語自体の変化より、ずっと速い速度で変化する。

文字の普及、印刷の普及、宗教、儀式、学校、出版、新聞、電話、ラジオ、テレビ、パソコン、インターネット、携帯電話・・・。こういう相互理解の手段と様式の出現によって、人間の言語は信頼され、権威付けられる。信頼できる言語によって表現されることで、世界の物事は、しっかりした存在感と現実感を与えられる。人間どうしは、その現実を共有することで、さらに相互理解を広げることができる。現代の産業の発展と技術革新によって、近い将来、相互理解の手段と様式はさらに発展していくでしょう。たとえば脳内の神経活動を視覚化する装置の高性能化、などによって、人間の相互理解は大きく改善されていく可能性があります。

軽くて薄いヘルメットのような神経活動測定装置をかぶることで、テレパシーができる未来技術。頭の中で考えている言葉がパソコン画面の文字に表れる。心に浮かんだメロディーがパソコンのスピーカーから流れる。あるいは、冷蔵庫からビールを持ってくる自分を思い浮かべると、家事ロボットがビールを持ってきてくれる。そんな話は、かつてはマンガの世界でした。最近の科学の現状では、もうマンガではなさそうです。研究室で、その程度の技術は実験されています。コストが高くても買ってくれるマーケットがあれば、近い将来実用化されるでしょう。その先の時代には、言語に代わって、あるいは言語を大きく包含して、人間と人間との脳神経系の共鳴現象を表現するシステムの実現が予想されます。そうなると、相対的に、言語の重要性は薄れてくる。言語の地位は、言語発展以前の原始時代のようなところへ戻っていくでしょう。そういう時代になるとすれば、言語技術者の特権も危うくなってくるかもしれませんね。

人間の相互理解は、(拙稿の見解によれば)目の前の物質現象に関する運動共鳴から始まる。物質を扱う互いの身体運動に対する共鳴から物質の認識が共有される。その共鳴の共有を土台にして、言語が発生する。いったん、言語が獲得されれば、人間は、言語を使うことによって、目の前にはない遠方の物質現象、過去の事象、集団感情などをしっかりと共有できるようになる。

さらに、言語が扱う対象は拡張されて、感覚、感情、信念、欲望などを個人に帰属するものとして認知する機能が追加される。文字の時代になると、言語は、宗教、哲学など抽象的な観念を語る機能を獲得してくる。近代に至り、言語は科学、論理、法律などを明確に表現する能力を確立し、社会を維持するインフラ構造となっている。

私たち現代人が用いる言語の使い方は、過去の使われ方に比べると二極化している。一方の極には、数学と数値データを使って目に見える物質現象を明快に記述する科学の言語があり、他方の極には、擬人化や比喩を使って、目に見えない人心の動きや感情を精緻に記述する文学・人文の言語がある。

拙稿の見解によれば、人心を記述する場合に用いられる言語が表わそうとする対象は、物質世界の中には実体がない。命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・。こういうメタフィジカルなもの、感情的なもの、人間が内面で感じるけれども、脳の外の物質世界にはないもの、それらは、いわば錯覚であるともいえる。

私たちは、それにもかかわらず、それらの錯覚がこの世に実際に存在すると感じる。それらの存在感を、だれもが感じていると、私たちは感じる。それらの存在感に、人間は集団として共感する。それに対応して私たちは、無意識のうちに神経系を共鳴させて運動する。さらに、その存在感を言葉に置き換えて使っている。

人心をあらわすそれらの言葉に、私たちの身体は無意識に反応する。言葉を聞くと、その内容によって、腹が立ったり、喜んだりする。つまり、脳神経系ではそれぞれの感情に対応する神経伝達物質が分泌され、自律神経系が活動して、心臓、血管や顔やおなかの筋肉がひきつったり、弛緩したりする。言葉や言葉にならない多くの共有された錯覚は、こういう仕組みで、私たちの毎日の生活そのものになっている。この仕組みによって人間は生きている、といえる。逆に言えば、そうして無意識のうちに私たちに共有されて使われている錯覚は、過去何万年にもわたって人類の生活に有益であったから遺伝的にも文化的にも継承されてきた。その結果、現在、私たちに使われている。

それらは、科学で扱われる物質の属性や、経済で扱われる貨幣による価格など、目に見えて数字で表わせるものよりもずっとあいまいなものです。たとえば、命一個の重量は何グラムか? 心一個の値段は何円か? A君の欲望はB君の欲望に比べて、何倍あるのか? 測定方法もない。どの本にも書いてない。だれに聞いても答えられません。

それにもかかわらず、命も心も欲望も、人間にとっては、物質や金銭よりもずっと重要なものと感じられる。私たちにとってそれらの錯覚は、錯覚というのがはばかられるような重い存在感を持っている。

命は地球よりも重い。心はお金で買うことはできない。あの人はだれよりも欲が深い。などと言う。私たちは、それらの存在感をはっきり分かっている。それらは、人間だれもにとって、無意識のうちに身体が共感し共鳴して動いていくことで、客観的なものであるかのように安定して存在する。

命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ・・・私たちは、これらの存在によって私たち人間が動いている、という感覚を体感する。その動きは、私たちだれもがよく知っている、世の常識、に従っていると感じられる。その常識を使って、私たちは、他人や自分の、毎日の行動を予測することができる。それらの存在やその常識は、しかしながら、実は、物質現象ではない。物質現象でないものは科学では説明できない。そしてそれらは物質現象ではないが、私たちがよく知っている常識として、れっきとした法則にしたがっている。それは、科学でいう自然法則とは別の、信頼性と再現性のある法則である、と感じられます。

拙稿では、これらを錯覚であるとする(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これらは、たしかに、物質として実体がない、という意味で錯覚といわざるを得ない。ふつう私たちが、あるものを錯覚と呼ぶときは否定的な意味で言う。「それはただの錯覚に過ぎない」とか、「錯覚にだまされてはだめだ」などと言う。しかし、拙稿で筆者は、実体がない錯覚はだめだ、とか、だまされてはいけない、とか言いたいわけではありません。

この点に関しては、拙稿の見解は、まったく逆です。私たちは、それら有益な錯覚を共感し言葉に置き換えて使いこなすことで、それらを私たちの間で、しっかりと存在させることができる。そして、そうすることで人間は互いに結びつき、社会生活がなりたっている。逆に言えば、そのようにして社会を維持することでしか、私たち人間は生きていけない動物です。

しかし、自分たちの脳の機構もその集団的共鳴の機構もよく分かっていない私たち現代人の浅い知識だけにもとづいて、これ以上、新しい錯覚を大量に作り出すのはよくない。特に、錯覚を操作する言葉のゲームに、これ以上、熱中したりすることは危ない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、こういう言葉で表わされるもの、それら目に見えない、物質世界には実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部第二部を参照)、メタフィジカルなもの、つまり集団共鳴による錯覚を、あまりまじめに追求してはいけない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、とても便利な言葉ではある。けれども、そういう言葉のさらに奥底に、私たちがふつうに分かっていることより深い意味が見出せるかもしれない、という間違った期待を抱いてはいけません。

それら錯覚を、個人が強い神秘感を伴って内面化したり、ラジカルに深く議論したりすることは危険です(どのように危険か、については拙稿第一部第二部を参照)。哲学は、古来、その危険を冒す行為として始められた。まじめな哲学者ほど、危険に気づかずに落とし穴にはまっていった。哲学が抱え込んでいるその間違いを、拙稿は指摘してみました。

まあそれでも、筆者などでもこれに気がつくくらいに、現代では、原子や宇宙や人体など、物質に関する科学の実績が深まり、従来の哲学の領域を深く侵し始めている。いずれそれほど遠くない将来、有史以来の哲学が格闘してきたメタフィジカルにみえる謎や神秘や錯覚の正体も、哲学用語を使わずに、物質の言葉で明快に表現できる時代が来る(と筆者は確信しています)。

あるいは、脳内の神経活動を画像や音で直接リアルタイムに受け手の視覚と聴覚に伝える便利な装置が開発される。あるいは、哲学を講義するロボットを作れるようになる。あるいは、筆者のように哲学に懐疑的な話をしたがるロボットも作ることができる。もしそのようなときがくるとすれば、人間どうしの相互理解は完全に近くなるはずです。そしてようやく、哲学は科学を羨む必要がなくなるのでしょう。

(18 私はなぜ言葉が分かるのか? end

Banner_01

19 私はここにいる

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(22)

2008-11-08 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

命、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・、人間にとって一番大事だと言われている、こういうメタフィジカルな言葉は、実は何なのか? 実体がない錯覚だとしたら、これらはなぜ、これほど強く私たちの感情に訴えるのでしょうか? 

こういう言葉が意味するところを知ることは、確かに人間を理解することにつながりそうです。しかし、これらの言葉を本当に知るためにまず必要なことは、ナイーブにこれらの語感や存在感を足場にして、込み入った構造物を築き上げ、その屋上に屋を重ね、これ以上新しい観念を作り出して言葉を空転させることではないでしょう。むしろ、これらの語感や存在感の発生源を探る。その源にもぐりこんでいく。それらのもとになっている錯覚を映し出す物質現象、つまり生物としての人体の構造、生理、生態(社会、文化、理論を含む広義の人間行動)、そしてその進化の仕組みを調べることが大事なのではないでしょうか?

こういう重要な機能を持つこれらの錯覚の存在感が人間の集団で共有される仕組みは、どうなっているのか? 言語という媒体によって、人体から人体へ物質現象として、何が伝播しているのでしょうか? 

言語の内容が伝播する仕組み、(拙稿で運動共鳴と呼ぶ)それは、伝播というよりも共鳴ではないか? テレビは送信された周波数に共鳴することで電波情報を受け取る。受信機は、もともとその周波数を内部で発生する働きを持っている。送信された電波の周波数と同じ周波数を内部で発生することで受信機の電気回路は共鳴する(電子工学では共振という)。では、人から人へ言語の内容が伝播する場合、人間の脳内の物質現象としては、どうなっているのか? 人と人の間で、神経回路の共鳴現象として捉えられる機構があるのか? (拙稿の見解では)共鳴現象の受信側の個体(聞き手)の内部でもともと記憶に保持されている身体運動‐感覚受容シミュレーションが、仲間の人間(話し手)の言葉を聴くことで、無意識のうちに想起されて神経回路の共鳴を起こす。もしそうだとすれば、人類の進化の過程で、それはどう働いたのか? 

これらの錯覚を共有する仕組みの正体は、(拙稿の見解では)おそらく、人間の群集団における不完全な運動の共鳴です。物質現象としては、運動共鳴を起こす脳の運動形成回路の活動として捉えるべきでしょう。これは、たぶん、群行動をする動物が一斉に身体の向きを変えるときに使われる機構と同じものです。動物の群行動は、集団全体が敵を回避したり、食物の多い土地へ移動したりすることができる。一方、しばしば敵を見間違える。鳥の群れは、わずかな物音に驚いて一斉に飛び立つ。これはエネルギーの浪費ではないか? 群れは役に立たない行動をも共有しやすい。それでも、その機構のおかげで群れは生き延びる。

群棲動物のDNA配列(ゲノム)は、新しい群行動を作っては、役に立たない群行動を書き換えていく。鳥の群れは、DNAを変異させることでしか、役に立たない群行動を改善することはできない。人間の群れは、DNAを変えずに、神経回路の共鳴を起こす身体運動‐感覚受容シミュレーションを変化させることで、群行動を改善することができる。人類の群行動は、この仕組みのおかげで、桁違いのスピードで環境に適応し、進化していく。

言語を使う人間集団における群行動の場合、言語による運動共鳴の機構は、物質世界に存在しない錯覚のシミュレーションをも仲間に伝達してしまう。しかし、錯覚だから役に立たないということはない。私たちのだれもが共有しているような錯覚は、むしろ、便利で実用的なものが多い。現在まで伝えられて、私たちが意識せずに毎日、使っている多くの錯覚は、どれも、きわめて実用的なものです。たとえば、暗いと危ない、とか、声が高い人は親切だ、とか。これらの錯覚は、社会を維持し、集団として人間が物質世界の環境を生き抜いていくために役に立つ(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

天狗にさらわれることを恐れて子供に気を配るような一族は、幼児死亡率が減って人口が増えたでしょう。そうして天狗伝説は生き残っていく。それは、それらが実体のない錯覚であろうとも、それらの共有が集団的団結をもたらし、厳しい自然環境に置かれた人間集団の生存と繁殖に役立ってきたからです。

このような錯覚が人間の行動に影響をおよぼす仕組みは、どのような物質構造に支えられているのか? 現代科学は、ようやく、それを探求するための道具をそろえ始めている。まずこの数十年の生物科学の進展はすばらしい。特に脳神経科学や認知科学などにおいて開発されてきた最新技法は、脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーション(拙稿では便宜的にこう呼んでいるが、萌芽的概念なので科学者の間で用語法は確定していない。伝統哲学でいう観念、イメージ、あるいは心理学でいう条件反射や手続き記憶などの概念に部分的に重複する)などの神経活動を、物質現象として、測定記録する方向に発展してくるでしょう。

それぞれの錯覚に伴って、どのような身体運動や生理現象が動いているのか? それは視覚、聴覚、体性感覚でどう感知されて、受け手の脳内の仮想運動に変換されていくのか? 生活の中で錯覚に伴う運動および仮想運動が、人間どうし、どう共鳴し、伝播し、どのようにして言葉になっていくのか? これらの現象をミクロな細胞や神経回路網のレベルで解明するまでには、まだまだ(今後数十年は)、科学者の努力が必要でしょう。それと並行して、(拙稿の楽観的な予想によれば)マクロな身体運動レベルでの人間行動の分析方法が発展してくるはずです。 

次の時代には、拙稿のいう運動共鳴など、人間の集団における脳神経活動の相互干渉あるいは共鳴現象の科学というべきものが、出現してくるでしょう。現在、コミュニケーション論など社会学的手法で研究されている領域とも重なってくるでしょうが、次世代には、まず、むしろ純粋な自然科学として展開されるでしょう。ミクロからマクロのレベルまで、物質現象として徹底的に追求されるべき課題だからです。

人間の社会行動などを含むこのような研究課題を、自然科学から始めようとすると、すぐに新しい理論を作る必要に突き当たる。現在の科学を超える新しい理論が作られるために、従来の自然科学はもちろん、社会科学も、そして哲学も、協力していくことになる。

その新しいものが、どのような形をとるのか、筆者にはまったく分かりません。ただ、それは、新しく、哲学の科学を作り、同時に、現在の科学を根本的に作りなおす可能性がありそうです。それがさらに、言語を含めた人間の表現力をさらに深め、人間どうしの不完全な相互理解を大きく改善することになるかもしれません。もしそうであれば、次の時代、人類は、自分たち自身の、より深い理解に到達することになるわけです。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(21)

2008-11-01 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

しかしながら、ここで安心して、「言葉は万能だ。言葉を上手に使いこなせば、人間は何でも表現できる。この世の真理を究められる」などと誇大な妄想を抱くのは間違いです。言葉に真理を期待し、言葉を磨くことですべての問題を解決しようとすることは、危ない。たとえば、学説や経典や哲学書などに究極の答えを求めようとすると、ひどい落とし穴に落ち込んでしまいます。

私たち人間の言語(自然言語)は、もともと、(拙稿の見解では)物質以外の経験を正しく表現することができない。人間の言語は、人間どうしを深く結びつける素晴らしい機能を持っていますが、それは真実を語れるからではない。語る内容にかかわりなく、まず対話の存在に反応してお互いの身体の感覚と運動が共鳴することで、人間どうしは結びつけられる。世界の真理を語るという機能については、言語は完全ではない。つまり、人類の生存と繁殖にとって、この世の真理を語り得るかどうかは、たいして重要な問題ではなかった。真理追求の機能ではなく、人間どうしの感覚と運動を共鳴させて、集団的な協力を作り上げるという機能が人類の生存繁殖に役に立ったから、言語は現在も存続している。

あえて言えば、言語は、現実の世界について正しいことを語るための道具ではありません。むしろ、人と人を結びつけるという機能を果たすために、言語は何かを語る。その何かは、実際に正しいことでもよいが、正しくなくてもかまわない。皆が正しそうだと感じることで、互いの身体が共鳴し、うまく協力できればよい。言葉が使われる場合、それが一番重要です。そのため、私たちが毎日使う言語は、正しいことも本当のように語ることができるし、正しくないことも、同じくらい本当のように語ることができる。そのように進化してきて、今ある。

もともと、人類の言語は、鳥のさえずりのように意味のない音の羅列から進化したと(拙稿の見解では)思われる。人と人が互いに影響し合い、共同でする運動共鳴を起こすことで気持ちを通い合わせる遊びのツールとして発達した。いわば、声遊び、ですね。口で作るいろいろな音の組み合わせのおもしろさとリズムと繰り返しの心地よさ。言葉が分からない赤ちゃんがする意味のない叫び。仲間が集まってする音楽や踊りの楽しさに似ている。そういう声遊びが、音節を作り、構文を作り、さらに憑依と身体運動‐感覚受容シミュレーションに連結して(拙稿の見解では)意味内容を表現するようになった。そして結果として、あるころ(たぶん、数十万年前ころ)から、今あるような言語になっていった。

その過程で、(拙稿の見解では)たまたま遊びの副産物として、物質を操る運動共鳴に音節列をむすびつけることで物質に関する身体運動‐感覚受容シミュレーションが言語化された。そうして言語は物質現象を正確に表現できるようになったのでしょう。また、さらにたまたま、人間どうしの関係を操る運動共鳴に音節列や構文をむすびつけて、人称構造ができてきた。そうして、言語には、社会関係を上手に表現して社会生活に役立つような機能がでてきたのでしょう。

このように発展するとすれば、言語は身体運動の共鳴に結びつき、感情の共鳴に結びついて、仲間と、共有する世界について、ますます親密に語り合うための道具として使えるようになる。その結果、言語は、ますます人間どうしを強く結びつけられるようになった。ちなみに拙稿のこの見解に近い理論として、音韻、構文、意味内容はそれぞれ別々に進化発達して現在の言語に収束していった、という最近の言語学理論があります(二〇〇二年 レイ・ジャッケンドフ言語の基盤 脳・意味・文法・進化』)。

私たちは上手に言葉を使っている。それを使って、精妙な社会を作っています。しかし一方、言語をいくら上手に使っても、現実世界を正しく語ることは、かなりむずかしい。そればかりか、人間どうしの正しい相互理解もなかなかうまくいくものではない。楽しく言葉を交わすということと、正しく相互理解できるということとは違う。言葉を上手に使えば人と仲良くなれる。それで精妙な社会を作ることはできる。けれども、人々がいくら仲良くなれても、相互理解が深まるということはありません。言語は、人間の間に、きわめて不完全な相互理解しかもたらすことはできない。これを忘れると深い落とし穴に陥る。

人間の言葉は物事について語る。物質について語る。人間について語る。その他いろいろ、抽象的なものについても簡単に語ることができます。しかし、物質について語る方法も、人間について語る方法も、また抽象的なものについて語る方法も、言葉の作り方は、基本的には同じです。何について語る場合も、人間の言語は、(拙稿の見解では)仲間や自分の身体の動きとして語る。つまり、物事は擬人化されることで言葉になる。

物質現象について語る場合も、言語を使う限り、すべての現象は、人体の動きに模して、擬人化されてから語られる。擬人化システムを使って物質の動きを表現することによって、言語は、目に見える自然の法則を描写することに成功した。コンビニで買い物をするとき、あるいはレストランでメニューを選ぶとき、私たちは、自分たちの毎日の行動を、こうして得られた法則を利用して考える。科学は、その方法を、多少厳密に適用することで作られている。科学は、自然言語を厳密な論理で再構成して、物質について、正確に語る言葉を開発した。正確にしか語れないように言葉の使い方を限定することで、正確な科学の言葉が作られていきました。

逆に言えば、科学は、言葉を使って正確に語れるものについてだけ語る。厳密にそうすると、科学が語れるものは物質だけになる。物質についてしか語れないと、つまらない話しかできません。科学はそういう事情で、学ぶのが面倒な割に、いつもつまらなさが伴うことになってしまった。それでもめげずに科学は、あえて、目に見える物質についてだけ語り続けた。そうして大成功しました。

科学が使う言葉は、論文に書いても査読者にとがめられないように、決まり文句の羅列になったり、数学を援用したり、専門語をテクニカルに定義したり、かなり人工化されています。しかしそれにもかかわらず、科学の言葉は、まぎれもなく自然言語です(一九八八年 アラン・フォード、F・デイヴィッド・ピート『科学における言語の役割)

物理学、化学、生物学、地学、など現代の自然科学は、どれも基本的には、自然言語を使って語られる。科学の言葉遣いは、自然言語が、使用目的にあわせて効率化されたものとみることができる。こういう言葉は、狭い領域で正確かつ迅速な情報の伝達と共有を必要とする専門家集団の内部で磨き上げられてくる。専門家以外の人々にとっては難解ですが、専門家にとってはとても分かりやすい効率的な言葉になっています。

一方、物質世界だけを語って大成功した科学を羨み、その言葉遣いを真似して実体のないメタフィジカルな概念について精緻な理論を語ろうとした近代の(西洋)哲学は、外見だけが精緻になり、言葉が難解になると同時に、中身はますますおかしくなっていった。ナイーブに語感だけに頼って言葉を拾い上げ、それを組み合わせて複雑な議論を展開しようとすれば、たいていの場合、おかしな話になってしまう。言語技術に優れた知識人が語るとしても、いや言語技術が優れている人たちが語るからこそ、結局は落とし穴に陥る。

ちなみに、(二十世紀以降の)現代の哲学は、(十九世紀以前の)近代哲学への反省もあって、思考と言語の関係の探求が重要な課題とされています(二十世紀の言語論的転回などという)。特に、思考とは何か、という古くからの認識論の伝統を汲むアプローチから言語の役割を分析する議論が多くある(たとえば一九七四年 ドナルド・デイヴィッドソン『思考と言葉』)。一方、(分析哲学の中には)拙稿のような方向への流れも出ていて、たとえば、「人間どうしは自然について語ることで相互に通じ合えるが非自然について語ると通じ合えない(一九八三年 デイヴィッド・ルイス『完全解釈』)」という議論などがあります。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(20)

2008-10-25 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

テレビで野球を見ると、センター方向からのカメラが、バックネット側や一塁側のカメラに切り替わったり、戻ったり、自由自在に移動しますね。カメラ切り替え係りの人がしているのですが、この仕事は、私たちが脳内で他人の視座に憑依する仮想運動と似ています。いくつものカメラが、いろいろな方向から同じ一人の投手の投球運動を見ている。投手の現実的な存在感が、このことではっきり感じられる。私たちが現実世界を見てとる場合も(拙稿の見解では)同じように、自分の目の位置からの自分だけが見える光景だけでなく、いろいろな位置にいる他人の目に映る光景を無意識に想像しながら立体的に現実の有様を読み取っている。

あるいは、もっとよい比喩は、マンガの手法に使われる吹き出し、でしょう。マンガのコマの中に描かれた人物の頭の辺りから吹き出しが出て、その中に文字が書かれる。単純な形の吹き出しには、ふつうセリフが書かれるが、もうひとつ別種の、モコモコした雲型曲線で囲まれたタバコのケムリ状の吹き出しが使われることがよくある。そこには口に出さない言葉、つまりその人物が今思っているけれども言わない心の中の言葉(内語)が書かれている。

コンピュータゲームを作る場合、アイコンや人物像をクリック(またはマウスカーソルをアイコンに移動)すれば、吹き出しがポップアップされるように作ることができる。モコモコ雲型の吹き出しにして、その人物が内心で思っていることを文字で書ける。文字の代わりに絵に描くこともできる。そういう吹き出しの代わりに、その人物から見た自己中心視座からの光景をポップアップさせることも技術的には可能です。その仕組みは、私たちの脳内に映っている客観的世界の内部で、それぞれの人物にその自己中心視座を貼り付ける憑依機構の働きと同じものとなります(実際そういうゲームが製作されているかどうか、筆者は不勉強で、知りませんが)。

私たちの脳内にあるこのような憑依機構の上に(拙稿の見解では)言語は作られている。話し手は聞き手が、話し手の視座に憑依してくることを期待して、話し手自身の自己中心視座から見える光景や感じる世界を言葉で表現する。これが(拙稿の仮説による)人称構造の起源です。つまり、人称構造の発明によって、話し手は、聞き手を話し手の自己中心視座に引き込み、話し手の視界を聞き手が今見渡しているという前提の下に話を展開することができる。

話し手は自分ひとりで孤独に孤立して自己中心視座に座っているのではなく、一人の、あるいは多数の聞き手、つまり仲間とともに集団として、自分の自己中心視座から客観的世界をながめている。こうして私たちは、安心して、聞き手が分かってくれることを期待しながら、自己中心視座から見える世界を語ることができる。自分を理解してくれる人がいるのかいないのかも分からずに泣き喚いている赤ちゃんの孤独に陥る恐れなしに、安心して、私たちは赤ちゃん返りができるようになった、といえる。

言葉を使える私たち大人の赤ちゃん返りは、本当の赤ちゃんのナイーブな自己中心的行動をそのまま再現するものではない。言語を使う限り、本当の赤ちゃんにはなれない。言語という構造は仲間と共有する運動共鳴を土台として作られているので、仲間の視点を持たないナイーブな赤ちゃん的自己中心視座を、そのまま再使用することはできない。

私たちが言語を使う場合は、話し手と聞き手は、(拙稿の見解では)無意識のうちに、互いに相手の自己中心視座を認め合い、互いにそれに憑依しあうことによって、運動共鳴を共有する。こうして、互いの自己中心視座は客観的視座から認められる存在感を持つことで、あたかも客観的物質世界の一部分であるかのように扱うことができる。私たちが、このように、他人の身体の中にあるその人の自己中心視座に憑依できるかのように感じられるとき、その人の内面に、心といわれるものの存在感を感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。こうして(拙稿の見解では)人称構造は全般の言語構造の中に埋め込まれていく。

逆説的な言い方をすれば、自分が赤ちゃんに見えると知っている赤ちゃんは本当の赤ちゃんではない。それは赤ちゃん返りのふりをしている大きな子供です。

私たち大人が言語を使うとき、自分をどう表現しているでしょうか? 話し手は、聞き手が、話し手をまず人間として見てくれていることを確認します。これは当たり前ですね。話し手と聞き手は、おたがいを人間どうしだと思っているから、ふつうに会話しているわけです。話し手は、まずは、人間の一つとして、動いたり感じたりすることを表現する。それを述語で表現する。人称構造を使うと三人称で表現される。つまり、話し手は聞き手と共有する客観的世界の内部を動き回る三人称で表される人間の一つとして自分を表現する。次に、話し手は、赤ちゃん返りのふりをして、自己中心視座から一人称で自分を表現する。

ふつう、これでセンテンスが完成して、発声されます。こうして、三人称→一人称と変換される過程で一人称表現は作られる。これを繰り返しながら、(拙稿の見解では)私たちは言語を操っている。一人称表現はその下敷きとしての三人称表現の上に作られている。私たち大人が一人称を使って自己中心視座を表現している場合、それは本当の赤ちゃん的視座ではなくて客観的視座の下敷きの上に作られている見掛けの赤ちゃん返りだといえる。

ちなみに、一人称や三人称を駆使して書き下される小説や、カメラのアングルで登場人物の視野を表現する映画や、吹き出しで内語を表現するマンガ、あるいはビデオゲームなどを見ると、私たちが楽しむ物語やドラマやゲームの表現は、このような二種類の人称(一人称と三人称)つまり二種類の視座(自己中心視座と客観的視座)の混合によって作られていることが分かる。

人々は、このように、互いの自己中心視座を再認識し、運動共鳴によってその使い方を共有し、その共有の上に作られる人称構造文法を使って互いの自己中心視座に憑依しあう。この仕組みによって私たちの社会構造は維持できる。人々は互いに相手の立場に入れ替わって、考えたり感じたりすることができる。人の立場や役割やキャラクターや地位を、場合によっては自分もそれに成り代わる可能性があると感じられることで、交換可能な属性と捉えることができる。

立場や役割やキャラクターや地位が交換可能な属性として共通の認識対象になれば、それらは人々の間で共有することができる。お互いの視座に伴う立場や役割などの属性が、はっきりした存在感を持って共有できる感情の対象となる。そして、人々が、そのようなそれぞれの場に置かれていることが人称構造を備えた言語によって表現されることで、他人というものも自分というものも、それぞれの立場や役割やキャラクターや地位を伴った客観的世界の中にある自己中心視座としての存在感を持つようになる。この仕組みによって、(拙稿の見解では)他人あるいは自分というものが、はっきりと客観的に存在する(と感じられる)ようになった。

私たちは、人称構造を備えた言語によって、他人を確認し、自分を確認する。私たちは、他人と自分との相互関係、互いの立場や役割、を交換可能な場として客観的世界の中に作り出すことで社会構造を安定させる。同時に、社会構造を集団的な感情共鳴に反映させて価値を共有化する。その価値を得点として組み込んだゲームを作り出して仲間と共有し、仲間の一員となり、そのゲームの内部で協力したり競争したりしながら、懸命にプレイする。それが私たちの社会的生活です。そういうふうに組み立てられた私たちの価値観、人生観の共有関係が組み合わされて、現実の社会構造ができている。

その社会構造が、また集団的な条件反射として、私たちの身体にしっかりと埋め込まれている。私たちの身の回りで起こる物事の社会的意味は、私たちが学習した集団的な条件反射によって無意識のうちに私たちの身体の反応を引き起こすことで、客観的世界の中に現れる。それらの学習された条件反射による運動共鳴は、さらに言語を媒介として、連想による身体運動‐感覚受容シミュレーションを呼び出し、感情機構に反映して、連鎖的に私たちの社会的行動を引き起こす。

つまり、私たち一人一人の脳に、集団的な学習によって身体運動‐感覚受容シミュレーションとして埋め込まれた現実としての社会構造が、言語を媒介として連鎖的に運動共鳴を引き起こすことで人間の社会が動いている。

社会構造を構成する身体運動‐感覚受容シミュレーションは個々の社会に特有ですが、それによって社会構造を学習する脳のシステムは(拙稿の見解では)人類共通です。人類の脳が共有するこの社会学習システムが、人類の繁栄の基礎となった。だから脳のこの仕組み(社会学習システム)が私たち現代人の身体に定着している。人情や人間関係を表現するのに便利な人称代名詞、敬語、意思表示表現など、多様な言語表現が、この仕組み(社会学習システム)の上で共進化した。

客観的物質世界を正しく表現していようといまいと、錯覚であろうとそうでなかろうと、現存の言語が表わすものは、私たち現代人の物質生活や社会生活に不可欠のインフラ構造になっているから、現実に使われている。それは毎日の生活に不可欠な、人類の貴重な財産に違いありません。これからもこれらを大いに使いこなして、人類は繁栄を続けるでしょう。また、そうする以外に、人類が存続することはできません。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(19)

2008-10-18 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

それでは、こういう錯覚を作り出してしまう人称構造のような自己中心的言語構造はだめなのか? 客観的物質世界の中でうまく生き抜いていくためには役に立たないのか? こんな自己中心的な言語構造を人類が発展させたことは間違いだったのか? それはそうではないでしょう。役に立たない行動を引き起こす神経機構が、これほどしっかりと、生存競争を勝ち抜いた私たちの身体に備わっているはずがありません。

言語の人称構造は、人類の進化発展の過程でどのように発生したのか? この問題は、もちろん、実証科学としての現代の言語学では解明されていません。仮説を作っても検証がむずかしい。そういう事情で、まじめな言語学の研究対象にはなりにくい。まあ、それでも、厳密な言語学を述べる立場でもなく、仮説に実証を求められる立場にもない拙稿としては、ここでも遠慮せずに、大胆に自前の仮説を設けることでどんどん前に進んでみましょう。

さて、人間の言語システムは、(僭越ながら拙稿の仮説を述べれば)もともと原始生活の中で、物質現象の認知を仲間と共有する道具として、発生した。自然の中で人間は、視覚や聴覚を使って、仲間や自分の人体、そして害獣や食物や道具など物質の運動や変化を認知し、擬人化し、予測し、それに対応して身体運動を起こす。その身体運動を仲間と運動共鳴させて集団として群れ運動を起こす。その集団的運動共鳴を音節列記号に結びつけて言語化し、その身体運動‐感覚受容シミュレーションを仲間と共有することで、客観的な世界を共有する。

仲間と共有したその共通の世界認識の中に生きることで、人間は、互いに協力し合ってきた。このころ(たぶん、数十万年前)の人類の言語は、目の前の物質を見ながらそれについて指差すことで通じるような言葉だけだったでしょう。大家族の中での原始生活には、それでも、相当役に立つ。

さらに次の時代(たぶん数万年くらい前)、人類は、(拙稿の見解では)言語を使って、大家族よりさらに大きな部族的な社会を作るようになり、各自がその大きな社会の一員として生きることで生存と繁殖を維持する動物となった。そうなると社会を維持するためにこそ、言語が重要となる。言語を使うことで、人間どうしが楽しく会話を交わし、仲良くなって協力し合い、社会と文化を維持できる。

その過程で言語は、社会生活に便利な種々の錯覚を発展させ維持する。心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉が作られていった。語彙は増大し、文法も、社会生活に便利な構造に進化してくる。

人称構造もその一つです。目に見える物質を客観的世界視座から描写していた原初の言語の中に、(拙稿の見解では、たぶん数万年くらい前に)自己中心視座を使う人間関係の描写に便利な装置として、人称構造が発明された。

洞穴にすむ原始人が会話しています。「コッチ、あったかい」と焚き火の近くに座る人が言う。「ソッチ、さむいだろ? いっしょにコッチすわろう」と入り口近くにいる人に声をかける。「コッチ」という言葉が第一人称代名詞になり、「ソッチ」という言葉が第二人称代名詞になっていったのでしょう。「ほんと、コッチはフトコロがさむいよ。ソッチはあったかそうでいいね」など、現代人も言いますよね。あるいは、「ニーちゃん、チーちゃんもつれてって!」と、弟が兄に言う。「チー」が第一人称、「ニー」が第二人称になった。人称代名詞は、このように指示代名詞、あるいは普通名詞から転用されてできた、という推測はもっともらしい(一九三四年 フランク・ブレイク「第一人称及び第二人称代名詞の起源」)。こうして、話し手と聞き手が共有する客観的世界の中に自己中心視座が導入される。

ここで、うっかりすると混乱しそうになることは、自己中心視座と客観的視座の出現の順番です。系統発生的にも、個体発生的にも、まず自己中心視座が発生して、その後、客観的視座が作られる、という仮説は分かりやすい。事実、伝統的心理学でも現代の認知科学でも、ほとんどの学説では、この順番が認められています。発達心理学でも幼児の行動がこの順番で発達するらしいことが観察されている。拙稿も、基本的には、この仮説を採用します。ただし、ここで拙稿は、(系統発生的にも、個体発生的にも)客観的視座が作られた後、言語の発達にしたがって、自己中心視座の再導入が起こることを強調したい。

つまり、赤ちゃんには、まず自己中心視座が発生して、成長にしたがって、幼児になるころ客観的視座が芽生える。その後、今度は言語を習得した後で、言葉としての人称構造に伴って、もう一度、自己中心視座が再導入される。ここがちょっと複雑です。

自己中心視座は、もともとは、言葉を話せない赤ちゃんたちの認知世界の構造です。自己中心視座だけを使っていた赤ちゃん時代を終え、子供が幼児になると、家族や仲間との運動共鳴によって客観的世界を共有することによって、客観的視座を獲得する。そして、言葉を話すようになる。幼児の発達過程において、運動共鳴による客観的視座の獲得が(拙稿の見解では)客観的物質世界の存在感の獲得とそれによる言語の習得のための基礎になっているからです。

次に幼稚園に入るころ、子供は、さらに運動共鳴を利用して、仲間の視座に乗り移る憑依運動を獲得する。仲間の人間と自分は、同じように、それぞれの自己中心視座から世界を見渡している、という相互的人間関係の存在感を獲得する。このときから、子供は、自己中心視座を仲間の人間の内部に自由に移動させることができる。つまり自己中心視座を、客観的視座が作る客観的世界の内部に埋め込んで、自由自在に扱えるようになる。子供が成長して、人の心が分かるようになった、ということです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

こうなると、子供は、言語化されていない赤ちゃん時代からの自己中心視座を、他人あるいは自分の外面に貼り付けて外面化することで、言葉によって外面的に表現することが可能になる。自分が自己中心視座から世界を見ているのと同じように、他人もそれぞれの自己中心視座から同じ世界を見ている、という客観的世界の存在感を感じ取る。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(18)

2008-10-11 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

だれもが分かるような気がするものは、だれもがはっきり分かる。はっきり分かるものは存在する。したがって、だれもが分かるような気がするものは存在する。だれもが分かるような気がするものについての言葉は、だれにでも通じる。そういう言葉で表されるものは存在する、ような気がする。そういう場合、言葉は通じる。

そういう言葉の錯覚によって、人間どうしが仲良くなれる。そして仲間どうしの連携が強化され、その一族は生存競争に勝ち抜いていく。つまり、仲間との運動共鳴を利用してそういう錯覚を作るDNA配列(ゲノム)が繁殖して、私たち現生人類になった。そういうわけで、私たち人間は、仲間の皆が分かるような気がするものは、はっきり分かるように身体ができている。仲間の皆が分かるらしい、という錯覚にしか根拠がない、ほとんど実体のない言葉を使っても、すぐ心が通じ合うような気になれる。気持ちが通じ合えば、その言葉は、はっきり分かる、ということです。むしろ、それが、分かるということの意味です。私たちは、そういう脳の構造を持っている。

本当にこの世に化け物のような存在がいるかどうか、そういうことはたいした問題ではありません。いようがいまいが、私たち人間どうしが、「化け物」という言葉を使ってお互いに仲良くなれればよい。それでもう、その言葉の実用価値は十分ある。その言葉を使うときの、表情、声の調子、その前後の行動。そういうものでその言葉を使うべき雰囲気が分かってくる。それで私たちは「化け物」という言葉を使いこなすことができる。「化け物」の意味はそれです。それだけで十分です。十分はっきりした意味を持つ。

そういう意味で言葉の意味を知っていれば、もう適当に仲間に合わせていける。つまり、人間どうしの会話は完全に成り立つ。それだけで、その言葉を使う価値がある。そういう言葉は、実際の物質現象との対応があってもなくても、完全な会話に使える。そういう優れた能力が、人類の言語には備わっている。それで、私たち人間は、豊かな言語生活が送れている。

化け物、といい、命、といい、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉は、拙稿の言葉遣いによれば、みな、錯覚です(拙稿4章 世界という錯覚を共有する動物)。実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部第二部を参照)。物質世界の何かを指差して示すことができない。

しかし、だからといって、これらが、全部だめな言葉ということではありません。むしろ、実体がないのにそれだけ強烈に人の心に訴える。存在感の強い言葉たちです。それらは、人の心に訴えるだけの強いイメージを作り出すことができる。それらの錯覚を互いに共有し、互いに通じ合うことで、人間は緊密に協力し、団結して、生存競争を勝ち抜いていくことができた。だから、これらの錯覚は、存在すべきものだから存在している。私たちはこれらの錯覚を表す言葉を使わずに毎日を生きることはできない。人類の生活に必要不可欠のものです。これらの言葉を使いこなすことで、私たち人類は、生き延びて繁栄し、現代文明を作ったのですから。

言語は(拙稿の見解では)擬人化システムの上に作られている。私たちは、視覚聴覚を通じて感じる物事を、無意識のうちに、自分の運動形成神経回路の作動を誘発する原因として認知する。自分の身体が、物事の存在と動きに引き付けられ、つられて動き出しそうになる場合、その物事を、自分と同じような欲望や意志を持った運動体(あるいは人のような運動の主体)がそれ自身の欲望や意志で動き出す、と見てとることで、言語をつづる。「XXが○○をする」という言語形式でそれを表現する。XXは自分の運動形成を誘起する運動体、○○は誘起される運動です。XXを感知することで話し手の運動形成回路が誘起されて脳内に○○という仮想運動が形成されることを私たちが感じ取る場合、私たちは無意識のうちに、それを、XX(という運動体)がXXの欲望や意志で○○をする、という表現形式にあてはめる。そういう脳の機能が人類には備わっているらしい。それを、拙稿の用語法では、擬人化システムと呼んでいます。人類の言語はこの擬人化システムを使って、物事を表現する仕組みです。

話し手から聞き手へ言語が伝わるときは、擬人化システムの働きが二人の間で共有されている。話し手がXXの動きを自分の運動形成回路で表現するとき、それに連動して聞き手もその運動形成回路でXXの動きを表現する。それは話し手と聞き手の間の運動共鳴です。

ここで、特に注意を要する擬人化は、話し手が自分を中心とする人間関係に関して言語表現を使う場合に表れる。客観的世界の物質などを表現する場合と違って、自分を中心とする人間関係を表現する場合は、話し手は自分自身を擬人化し、自分自身に憑依する。つまり自己中心視座への憑依運動(4章)が起こる。したがってこの場合、話し手が話し手に憑依する憑依運動について、話し手と聞き手の間の運動共鳴が起こる。

そのような事情で、話し手が自分を中心として人間関係を表現する言葉(自分とか、欲望とか、意志とか、死とか)を使う言語表現は、客観的物質世界を記述する言語表現とは根本的に違う形式となる。つまり前者が自己中心視座への憑依運動(4章)の共鳴にもとづいて表現されるのに対して、後者は客観的物質世界中心の視座での運動共鳴にもとづいて表現される。そのために、これら自己中心的人間関係の言語表現は、哲学者たちに、客観的物質世界の言語表現との整合性を追求されると矛盾をみせてくる。話し手を中心とする人間関係の表現と操作に多く使われる人称代名詞がその代表です。

人称代名詞の第一人称「私」は非常にトリッキーです。なりすまし詐欺の常習犯です。古来、多くの哲学的混乱を引き起こしている。主観客観問題、意識問題、心脳二元論問題など、哲学に登場するほとんどの難問は、(拙稿の見解では)客観的物質世界を表現する言葉と、話し手の自己中心的世界を表現する言葉とがうまく整合しないための混乱に起源を発している(拙稿12章「私はなぜあるのか?」、また拙稿次章で詳しく論考の予定)。

自然科学は、客観的物質世界を記述の対象とする。自然科学を表現するのに、第一人称代名詞「私」は必要ない。一方、心理学や社会心理学など人文社会科学は、「私」の概念を対象として研究される。ところが、自己中心視座から世界を記述する第一人称代名詞「私」は、自然科学の立脚点である客観的物質世界とは、とても相性が悪い。そのため、第一人称代名詞にかかわらざるを得ない人文社会科学は、一貫した視座から整然と物質世界を記述していく自然科学に比べて、いつも、視座がふらつくための混乱に巻き込まれる(たとえば、二〇〇七年 廣瀬幸生・長谷川葉子『ダイクシスの中心をなす日本的自己』)。

哲学者や心理学者ではないふつうの人々も、この人称代名詞には混乱させられるところがあります。言葉を覚えたての幼児(二歳児、母語英語)は、クッキーが欲しいとき、「ユウ・ウオント・クッキー」と言い間違える。アイと言うべきところをユウと言っている。ママが自分をユウというので、幼児は、自分がユウだと思ってしまう(二〇〇三年 マルコム・ハイマン『一語誤用と構文法の限界』)。

ちなみに日本語の文化では、大人が幼児に「ボク、クッキー食べたい?」などと最初から人称を逆転して教えるので、幼児の言い間違いは、めったに現れません。そのかわり、ボクに弟が生まれると、たちまち、「お兄ちゃん、クッキー分けて上げなさい」などと赤ちゃん中心の呼称を教え込まれる。

客観的物質世界の側から見れば、人称代名詞や指示代名詞、ダイクシス参考:金水敏「ダイクシスの諸相」)など、話し手の視点からの視線方向に依存して語りはじめる自己中心的な言葉は、物質的な実体に対応しない錯覚の世界です。私たちが人称代名詞など自己中心的な言葉を使う場合、話し手は聞き手が話し手に憑依することを期待し、話し手の視座から世界を眺めることを期待し、それを強制する。それらの言葉を使うときは、私たちは、そのときの話し手に成り代わって、話し手の立ち位置に立つことで、はじめて、言葉から物質世界への対応を得ることができからです。

「私は、今すぐ、衆議院を解散したい」と言っても、この言葉の話し手が筆者であれば、何も起りませんね。でも総理大臣麻生太郎氏が、国会の場でこれを言ったら、すぐ総選挙になり、全国に投票用紙が配られる。

つまり人称代名詞や指示代名詞などダイクシス)は、それを発声する話し手によって意味が変わる。これは自然法則の普遍性からはずれます。客観的物質世界中心の視座から発言される言葉では、だれがその言葉を言ったかによって、自然法則が異なるということはない。ところが、自己中心視座から発言される人称代名詞(あるいはその他のダイクシス)が使われる場合、話し手が誰かによって意味が変わる。話し手だけが世界の中で特殊な原点である、という天動説のような錯覚を作り出している。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(17)

2008-10-04 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

リンゴなど、目に見える物質についての場合は、このように、言葉は、その物質を見たり触ったりした身体的な経験と連結して記憶されます。ところが、身体で経験できないものについても、私たちは言葉で語る。

たとえば話し手が「化け物」と言ったときは、どうなるのでしょうか? 化け物は、目に見えないし、手で触ることもできない。こういう場合、話し手と聞き手の脳の内部状態は、同じになるでしょうか? 

たぶん、だいぶ違うでしょう。

ある人は、SF映画で見たエイリアンの不気味な姿を思い浮かべる。ある人は、四谷怪談のことか、と思う。あるいは、子供のころ、怖い思いをした遊園地のお化け屋敷を思い出す。また、ある人は、アニメのキャラクターを思い出す。

それでも、問題なく会話は続いていくことが多い。いや、むしろ、ふつうの会話などは、そういう場合が多い。イメージが食い違ったままでも、「化け物」について冗談を言い合ったり、意見を交わしたり、脅しあったり、感情表現を見せ合ったり、すれば、それはそれで立派に社交がなりたつからです。

「化け物」と聞いて、子供や若い人はたいてい、かなり視覚的な、不気味で恐ろしいイメージを思い浮かべる。ところが、筆者のような人生経験豊かな老人は、化け物など全然怖くありません。人生には、もっとずっと怖いものがたくさんあることを知ってしまったからです。それでも、「化け物」という言葉は、いろいろな場面で、使うと便利です。子供のころ皆で怖がった記憶があるから、それは、大人になってからも利用できる。まあ、化け物よりもずっと怖いものは、化け物を利用する人間ですね。

「○X国の大統領は化け物だ」と、言ってみましょう。友人と食事しながら言っても、軽い談笑に過ぎない。しかし、新聞に投書したらどうか? 「○X国の大統領は化け物だ。化け物が、ますます化け物らしく振舞って、人を怖がらせているのだ」などと書いて見ましょう。まず、載らないでしょうね。ところが、あなたが日本の総理大臣だったら、投書などしなくても、どこかで軽くしゃべっただけで、すぐ新聞に載るでしょう。載ったら載ったで、政治問題になってしまう。総理大臣でなく、あなたが無名の人だとしても、ブログに書いたりしたら危ない。テロリストが来るかもしれないし、サイバー攻撃を受けるかもしれない。思ったことを言えばよい、というほど、世の中は単純ではありません。それでも、「○X君は化け物だ」と言ってみたい気持ちは、だれにもある。それで、中世の魔女狩りがあり、かつてこの国にもあったし、今でも世界の多くの国でおこなわれている全体主義がある。いまでも、どこでも、小さな職場や学校の小グループでは、しばしばこのような社会現象が起きている。

しかし、こういう場合、「化け物」という言葉の意味は、何なのでしょうか?

化け物はこの世のものではない。だから化け物なのであって、物質世界に属するものではない。つまり、客観的な物質現象ではないから、だれの目にも見えず、もちろん手で触ることはできない。それでは、そういうものは、全然意味がないのか、というと、そんなことはない。その言葉が、広く、人々に使われている以上、意味はある。はっきりした意味がある。それは、この言葉が、どういうふうに使われているか、ということです。それでは、この言葉は、どういうふうに使われているのでしょうか? 

「化け物」という言葉を使って私たちが何かを語るときは、どういう場合なのか? 客観的な物質を指して、それについて語りたい、という場合ではない。たいていは、ただ、うまい具合に仲間どうし会話が続いていけばよい、という場合でしょう。たとえば、「あいつは化け物だよ」と言って、にやっと笑う。それを聞いた仲間は、皆いっせいに、にやっと笑う。だれもがそうするとすれば、それが、「化け物」という言葉の意味といえる。そして、何度も使っているうちに、その言葉はそれなりの存在感がでてきて、だれもが、「化け物」という言葉はどんなとき使うか分かった、と思うようになる。それが、実は、「言葉の意味」というものの意味です。

「化け物」という言葉の意味は、たとえば、「あいつは化け物だよ、と言って、皆でにやっと笑う」という身体運動が集団的に共鳴することで作られる身体運動‐感覚受容シミュレーションに対応する。つまり、「化け物」という言葉は、何かの物質に関する経験ではなくて、「化け物」と聞いて皆がにやっと笑う、という集団的共鳴運動に関する経験からできている。物質に関する経験ではなくて、言葉に対する集団的運動共鳴の経験が、その言葉に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションの内容です。つまり、こういう場合、話し手と聞き手の脳の内部状態は、どちらも、その言葉に対応して共鳴する身体運動‐感覚受容シミュレーションで表現されている。その意味で、同じ内部状態になっている、といえます。それで、この言葉は通じる。

「化け物」という言葉を聞いた場合、人によって、エイリアンとか、いろいろ化け物的なイメージが頭の中に浮かぶが、ふつう、そのイメージ自体はだれも重要とは思っていなくて、「あいつは化け物だよ、と言って、皆でにやっと笑う」という言葉の使い方についての集団的共鳴運動こそが重要だ、と皆が思っている。言葉を学ぶ子供は、その言葉の使い方に関する集団的運動共鳴を学習することで、その言葉が身につく。そういう言葉の使い方に関する集団的運動共鳴について、皆の脳の内部状態は、ほぼ同じです。この場合、「化け物」と聞いて皆がにやっと笑う、という集団的運動共鳴に「ば・け・も・の」という音節列発音運動が連結した身体運動‐感覚受容シミュレーションが脳内にできている。つまり、「化け物」という言葉を働かせる脳内の物質的実体は、その運動共鳴シミュレーションを表現する神経ネットワークの連結構造である、といえる。

「化け物」のように実体がない言葉について私たちは、物質を見たり触ったりする経験がない。しかし、「化け物」という言葉は、物質に関する経験に代わって、言葉の使い方についての集団的運動共鳴がはっきりとだれにも共有されているために、意味がはっきりする。一方、「リンゴ」のように物質として実体がある言葉については、その物質に関する経験で意味がはっきりする。この場合、「リンゴ」という言葉の使い方に関する集団的運動共鳴は、リンゴという物質に関する集団的な共通経験を想定する、ということです。たとえば、リンゴはおいしい、という物質的な経験をだれもが持っているだろうと想定しながら「リンゴはおいしい」と言う場合などです。

ただし、「リンゴ」の場合でも、リンゴという物質に関する経験を思い出すことよりも言葉の使い方についての集団的運動こそが重要だ、と皆が思っている場合には、そちらのほうで、その場合についての言葉の意味がはっきりしてくる。たとえば、リンゴがダイエットによい,という信念に凝り固まっている人たちをからかうことが流行している国があるとします。その国ではダイエットマニアの人を揶揄する場合に「あいつはリンゴだよ」と言って、皆でにやっと笑う。そうだとすると、その国では、リンゴの意味は「あいつはリンゴだよ」と言って皆でにやっと笑う、ということになります。そうなると、実物のリンゴなど見たこともなく、その形を想像する気もない人たちでも、「あいつはリンゴだよ」と言って、皆と一緒に、にやっと笑うことができるようになる。その集団的運動共鳴こそが、この場合、「リンゴ」という言葉の意味になっているからです。

要するに、「リンゴ」にせよ、「化け物」にせよ、どの場合も、言葉が通じるということは、話し手と聞き手の脳内で、その言葉に関する共通の神経活動が行われている、ということです。この共通の神経活動は、話し手と聞き手の間に集団的運動共鳴を引き起こす。集団的運動共鳴とは、互いの言動を見聞きすることによって、複数の人間に、同じような身体運動(脳内で運動信号形成だけが起こって身体は動かない仮想運動を含む)が起こることです。同じような身体運動は同じような感情を引き起こす。そうして気持ちが通じ合う。そのとき私たちは、言葉が通じる、と感じる。

その共通の神経活動は、拙稿の見解では、「リンゴ」あるいは「化け物」という言葉の意味に関する集団的運動共鳴に、「り・ん・ご」あるいは「ば・け・も・の」という音節列発音運動が連結した身体運動‐感覚受容シミュレーションです。「リンゴ」の場合は、リンゴという物質に関する私たちの共通経験としての、見たり触ったり食べたりしたときの集団的運動共鳴と、それに加えてこの言葉の使い方に関する運動共鳴がシミュレーションの中身になっている。「化け物」の場合は、物質的な共通経験はほとんどなくて、その言葉の使い方に関する運動共鳴だけがシミュレーションの中身になっている。どの場合も、(拙稿の見解では)言語が通じるための最低の必要条件は、その言葉の使い方を、集団的運動共鳴として、だれもが身につけている、ということです。逆に、その条件を満たしていれば、その言葉は、通じる。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(16)

2008-09-27 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

集団的運動共鳴と拙稿が名づけた脳内現象は、現時点では残念ながら、神経生理現象としては同定されていません。拙稿の見解では、集団的運動共鳴は群棲霊長類の群行動から発展した。動物あるいは人間の群行動の研究は、動物行動学社会生物学進化心理学などで理論的に研究されている。また、実用目的で、群集行動、経済行動、魚群探知、協調行動ロボット、などの研究がある。いずれも独立した(自己保存などの)目的を追求する個体が自律的に行動する結果、集団として顕著な群行動現象が起こる現象を扱っている。これらの研究は、個体を単位とする集団のメカニズムを対象としていて、ミクロな神経回路のレベルでの研究はなされていません。これは、脳内神経現象を精密に測定する技術がまだまだ未熟で、神経回路の作動を物質現象として観測できないからです。いわば、DNAを知らずに研究していた二十世紀前半ころの生物学にあたるのが、現代の脳神経科学、というところですね。

脳内神経回路の働きに関して、神経細胞間の連結構造(神経ネットワークという。一九四九年 ドナルド・ヘッブ『行動の組織化』既出が決定的に重要であることは、この半世紀の脳神経科学の発展によって明らかになっています。しかし、認知、記憶,想起、などマクロな認知現象と神経ネットワークのミクロな作動による表現との対応は、残念ながら、いまだに明らかになっていません。物質現象としての運動共鳴の解明は、(かなり先の時代になるであろう)次世代の(ポストヘッブ?)脳科学パラダイムの出現を待つしかないでしょう。

 ちなみに最近の神経科学における興味深いテーマとして、神経細胞膜電位の脱分極(発火)の時間変化が認知と深い関係にあるらしいという予想(一九九九年 マイケル・デンハム『学習と記憶の動的過程:神経科学からの知見』)が提唱されている。このような予想が正しいとすれば、拙稿のいう集団的運動共鳴が、視覚聴覚信号の処理による他者の運動認知の表現と体性運動感覚信号の処理による自分の運動制御の表現と、それぞれを表現する神経細胞群の発火の時間的空間的干渉あるいは(周波数その他の発火頻度を媒介とする)制御系共鳴を下敷きにしている、と予想したくなります。

あるいは、単に、集団的運動共鳴は通常の運動制御とまったく同じ神経回路が使われているのかもしれない。このあたりの脳内メカニズムをぜひ知りたいと思いますが、現状の脳活動計測技術は、こういうレベルの現象の検知には、精度がまったく足りない。通常の運動制御メカニズムでさえも、神経ネットワークのミクロな作動のレベルで解明されてはいない。したがって、現時点では運動共鳴などさらに高次の機構に関する仮説は検証の仕様がない。ということで、まあ、こんなことを言ってみたところで筆者の個人的楽しみというだけのことです。

閑話休題、言語問題に戻る。さて、日本語で「リンゴ」と言ったとき、日本語が分かる話し手と日本語が分かる聞き手の脳の状態が、部分的にですが、同じになるはずです。ここで、こういう場合に脳の状態が同じになるということは、物質的にはどうなっているということなのか? まず、それが問題ですが、実は、そこのところは現状の科学ではよく分かっていません。

話し手と聞き手と、二人の脳の内部が細胞単位で目に見えて、しかも二台の同型コンピュータのように、神経ネットワークのつながり方がまったく同じであって、それぞれの神経ネットワークの内部状態が対応できる、とすれば簡単ですが、そうではないようです。脳内では、どうも、密生する多数の神経細胞の個々の活動状態から、多数決とか、合計値ベクトルとか、株価のようなもので決まる、特定の集団的内部状態が、特定の語、たとえば「リンゴ」という言葉のイメージを表しているらしい。「リンゴ」という語の話し手と聞き手で同じになる脳の状態というのは、これにあたるでしょう。そうだとすると、脳のそういう内部状態というものは、コンピュータ理論でいう内部状態というようなしっかりした定義には当てはめられない。デジタルな数値で表されるようなものというよりも、微妙な印象とか、色合いとか、味わいとかいうような感じでしょうか? 

いずれにせよ、そういう話も、科学の現状では、たぶんそうであるらしい、というくらいで、はっきり分からない、らしい。現在、世界中の脳神経科学者たちは、これを解明するために懸命な研究を続けていますが、むずかしい。現在あるものよりも、桁違いに精度のよい測定装置が必要だからです。望遠鏡で火星を観察していても岩石の模様は分からない。火星着陸船が必要です。

将来は、神経細胞がネットワークとしてつながる連結部の変化を見分けられるような精密な測定ができる技術が開発されるでしょう。しかし現在の技術では、ネットワークのつながり方が分からない単発の神経細胞の活動電位、あるいは多数の神経細胞集団の統計的な活動が大雑把に観察できるだけです。理論的には、言葉に特有の神経ネットワーク(の集合)が特定の内部状態を持つと想定できますが、その具体的な構造は分からない。もちろん、残念ながら、「リンゴ」という語に対応する神経ネットワークがどれなのか、どういう内部状態を持つのか、それは人によってどの程度違うのか、どこが共通なのか、そういう問題の答はまったく分かっていません。

今している話では、とりあえず、話し手と聞き手の二人の脳のその部分の内部状態を交換してもそれによる変化は起きない、という場合に、それらは同じ状態である、ということにしましょう。交換可能なその内部状態は、実際のリンゴを見たときの経験と、深く関係する脳の状態です。実際のリンゴを見たときの脳の状態(身体運動‐感覚受容シミュレーション)を思い出す、という場合の脳の内部状態です。「リンゴ」という語は、話し手と聞き手の双方の脳をそういう同じような状態に持っていく信号になっているはずですね。リンゴに関する共通の経験、というのは、そういうことでしょう。

この仕組みで、「リンゴ」という語は、話し手と聞き手のどちらにとっても、実際のリンゴの経験に対応がつく。この仕組みがうまく働くためには、話し手と聞き手が、リンゴに関して似たような経験を持っている必要がある。話し手がリンゴをリンゴだと思っているのに、聞き手がナシをリンゴだと思っているとすると、会話はつながりません。

日本語の使い手は、だれもが、本物のリンゴをよく知っていて、その本物のリンゴを本物のリンゴだと思っているから、日本語が使える。つまり、日本人はだれもが、脳の中に、本物のリンゴに関する共通の経験を思い出せるような、「リンゴ」という日本語にぴったり対応するリンゴらしさ、リンゴのイメージ、を表現する身体運動‐感覚受容シミュレーションを持っている、といえる。

ちなみに、拙稿でいう身体運動‐感覚受容シミュレーションが、脳神経系において、どのような物質現象として表現されているかについては、残念ながら、現在の脳神経科学の知識では、はっきり分かりません。一般に、学習と記憶という現象は、先に述べた神経ネットワークの連結構造の可塑性(連結部の物質変化)として物質的に表現されているという予想が神経科学者の間では主流になっています。この予想が正しいとすれば、身体運動‐感覚受容シミュレーションも学習と記憶によって脳内に形成されるので、同じように神経ネットワークの連結構造の可塑性(たぶん冗長性が非常に高い多数のネットワークの統計的特性値)として表現されているのでしょう。

いずれにせよ、リンゴという果物を見たり触ったり食べたりした経験から学習された、リンゴに関する身体運動‐感覚受容シミュレーションは、記憶として脳内に保存される。別の機会に、別のリンゴを見たり、食べたり、思い出したりするときに、そのシミュレーションが記憶から呼び出される。呼び出されたそのシミュレーションは、私たちの筋肉や唾液腺を動かしたり、あるいは動かさずに、脳内で、それらへの運動指令信号の準備だけをしたり、イメージを浮かべたり、関連する物事を連想させたり、する。

私たちが言葉を覚え始める幼児のころに、リンゴという果物を見たり触ったり食べたりするとき、ふつう、その経験を仲間の人間と共有する。自分ひとりだけでリンゴを見たり触ったり食べたりするが、自分以外の他人がリンゴを見たり触ったり食べたりするところを見たことがない、という人は、まずいないでしょう? 幼児が、その物質をリンゴだと思うようになるときは、必ずママとかだれかが一緒にいて、リンゴを一緒に見たり触ったり食べたりしていたはずです。つまり、リンゴに関する経験の身体運動‐感覚受容シミュレーションは、ふつう、人間仲間と、集団的に、リンゴについての運動共鳴を起こす経験を含んでいる。こういう場合には、(拙稿の見解では)言語が形成される条件が整っている。実際、そうして幼児の脳内にリンゴに関する集団的運動共鳴のシミュレーションが作られた後で、ママなど周りの人間がリンゴを一緒に見たり触ったり食べたりするその運動に伴って頻繁に発声する音声「り・ん・ご」が条件反射として連結して、「リンゴ」という語ができる。

言語は、(拙稿の見解では)このように集団的運動共鳴が起こった身体運動‐感覚受容シミュレーションに恣意的な音節列記号が連結することで作られる。「リンゴ」という語は、実際のリンゴに関する経験から学習された身体運動‐感覚受容シミュレーションに、音声発音運動の学習により条件反射として結びついた「り・ん・ご」という音節列が組み合わされた神経ネットワークの内部状態(連結部の可塑性)として脳内に記憶されている。「リンゴ」という発音を聞いたとき、あるいは字を読んだとき、私たちの脳内では、その神経ネットワークの連結構造を、学習時とは逆方向にたぐって引き出されるリンゴの身体運動‐感覚受容シミュレーションが浮かび上がる。そのとき、私たちの身体は、自動的に(条件反射として)、リンゴの形や色のイメージを思い浮かべたり、リンゴを食べたくなったりする。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(15)

2008-09-20 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

話というものは、不正確だからいけない、というものではありません。新聞やインターネットなど、速ければいい、という面がある。多少不正確でもよい場合も多い。むしろ不正確なほうがよい、という場合さえあります。しかし、哲学の話などは、不正確で分かりにくいとまずい。分かりにくいということが分かる場合はまだよい。分かりにくいということが分からないで、逆に分かりやすいと誤解する場合など、かなり困ったことになります。うっかり分かってしまってはいけない。それなのに、分かってはいけないということが分からないから困るわけです。

不正確な言葉を使って分かりにくい会話や議論をする場合、あるいは書く場合、特に抽象的な書き言葉を使う場合、言葉は目の前の物質現象や単純な感情に頼るわけにいきません。正確な伝達をしたいのであれば、別のものに頼るしかない。たとえば、数学は、論理計算のルールを作ることで物質や感覚、感情と関係なく自己完結することに成功した。現代の哲学の一部も、数学をまねて、論理だけで自己完結することに目標を置いて成功したものがある。しかし抽象語の操作に終始するこういう自己完結型の言語は、脳内の神経活動のごく一部しか表現できない。感情とか人情とか心とか、人間が大事だと感じるものを表わすことができません。

論理的に自己完結する言葉は、数学などのように厳密に設計されたものしかない。それらは、私たちが一番大事だと思っている感情や心を表すことができない。感情や心を表すことができるものは、私たちが毎日使っている直感によるふつうの言葉です。これらは、逆に、数学や科学を正確に表すことができない。ふつうの言葉は、世間話のような軽い話題ならば正確に伝えられるが、哲学のようなものを語ろうとすると無理です。私たちの直感は、身の回りの物事を身体で感じる。しかし、身体で感じたことを、そのまま、ふつうの言葉で語っても、自然の法則を正確に伝えられない。抽象的な数学と科学の言葉を使ってはじめて、私たちは自然を正確に表現し、互いに共有できる。

人間も、他の哺乳動物と同じように、その神経活動は、五感や筋肉運動などを介して目の前の物質に関係する活動が多い。同時に自律神経系や体性感覚神経系のように体内の筋肉や分泌腺、内臓、血管などの活動を媒介する感情に関係する活動が多い。したがって、目の前の物質や今起こっている物事に反応する感情を表わす言葉は、私たちには分かりやすく、だれもが共感することができる。言葉として、だれにでも、間違いなく伝わる。

それ以外の目に見えない、物質や身体や感情にあまり関わらない抽象的な言葉遣いは、むずかしい。ふつうの人には、すぐには理解できない。そういう表現を使いこなしたいという意欲が強く、かつ毎日のようにそういう表現に慣れ親しんでいる専門家や、趣味のグループの人々にしか、理解されない。宗教や教育などによって、長い時間をかけて社会に浸透していけば、むずかしい抽象語も広く使われるようにはなる。あるいは、現代であれば、学校やマスコミを通じて頻繁に繰り返して人々に教え込めば、抽象表現も流行語になり、感性で分かるようになる。それらは短い時間で広まり、一般に伝わるようにはなる。しかし、それによって、何が伝わっているのか、実は、だれにもよく分からない。錯覚はそうして作られ、広く伝わっていく。

 抽象的なものや、目に見えないものを表現する言葉は、しばしば、そうして作られる。

 現代の哲学は、数学などと同様に、目の前の物質に関与しない抽象表現を好む。かつて、哲学は、自然哲学を展開して物質について論じた。ところが、自然科学が哲学から分離し、物質に関する知識が大発展すればするほど、哲学は物質から離れていく傾向を見せる。

 哲学は、物質の知識に巻き込まれないように、言語の使い方を厳密に制限することで隙のない理論を作ろうとします。言語知識だけで成果を上げられそうなところを求めていく。論理が自明な、弱みのない理論を書いていく。論理的な言語操作だけで勝負しやすいところに集中してしまう。その結果、哲学の議論は、狭い趣味のサークルで作られる仲間言葉(ジャーゴン)のような言葉遣いに似てきます。そうなると、ふつうの人間にとっては、近づきがたくなる。そういう現代の哲学は、私たちの毎日の暮らしには役に立ちそうにありません。

 昔の哲学者が考え出した難解な哲学語を語ることよりも、もっと身近なことで、もっと哲学を必要としていることがある。世間話やビジネスや科学に使われている分かりやすい言葉は、なぜ分かりやすいのか? なぜそれらが分かりやすいのかは、必ずしも分かりやすくはない。それらの分かりやすい言葉が人間の脳という物質現象として現れてくることを、どのように考えればよいのか? 哲学が、今なすべきことは、またまた新しい抽象語を作って分かりにくい観念をますます分かりにくく表現することではないでしょう。まして、昔の哲学者が苦吟して作り上げた難解な哲学語をさらにむずかしく解釈することでもない。むしろ、世間話やビジネスや科学に使われているような分かりやすい言葉を使って、分かりやすいものどうしの関係がなぜ分かりやすく説明できないのか、それを語ってみることが重要でしょう。科学がここまで発達した現代において、その成果を利用できるチャンスを、哲学は、ぜひ生かすべきではないでしょうか?

「今日は暑いですね」というとき、その言葉と話し手の脳の神経回路が発生している電気信号との対応はどう考えればよいのか? それは、屋外のかんかん照りの路上で立ち話するときでも、屋内のエアコンで涼しい部屋に座って会話するときとでも、同じ意味になっているはずです。でも、かんかん照りで汗だくになっているときの私たちの脳の状態と、「暑い」という言葉とは関係がある。

皆が「暑い、暑い」といいながら、汗をだらだら流して、服をはだけてウチワを使っている。もちろん、自分も暑い。そういうとき、暑さを少しでも和らげたい、という気持ちが、皆の間で共有されている、と感じる。袖をまくりあげて自分を扇いでいる人を見ると、無意識に同じ事をしてしまう。暑さを和らげようとする運動が共鳴している、といえる。これは人間集団の中で起こる運動共鳴です。皆が暑いときの運動共鳴が、脳内で身体運動‐感覚受容シミュレーションを形成している。このシミュレーションは記憶され、(拙稿の見解では)「暑い」という言葉で、それが想起される。そういう仕組みで、言語は作られている。

同じ「暑い」という言葉を使う場面でも、場面の数だけ、少しずつ違う意味になる。しかし、それにもかかわらず、「暑い」という言葉には、共通の部分がある。それが「暑い」という言葉の中身、ということですね。それは、かんかん照りで汗だくになっているときの経験を思い出させる記号になっている。

幼児が「暑い」という言葉を覚えるとき、必ず、夏の暑い日に家族や友達と一緒に汗を流しながら「暑い、暑い」と言い合う経験が伴っている。ところが、子供が言葉に習熟してくると、汗をかいていないときにも「暑い」という言葉を使えるようになる。これは、スポーツや職人芸が習熟してくる場合のように、無意識で言葉だけを回転させる技が身についた、ということでしょう。「暑い」と言うべき、会話の適切な場面で、「暑い」という言葉が口をついてでてくる。脳内のこの機構はどういうものなのか? スポーツの習熟と同じなのか、どこか違うのか? 汗をかく自律神経系は、暑くないときはほとんど働いていない。身体が暑さを感じていないのに、私たちは、なぜ暑いという言葉が分かるのか?

過去に、ひどく暑いと感じたときの身体状態の痕跡が、(たぶん脳のどこかに)長い間、残っていて、「暑い」という言葉を使うときには、私たちはそれを無意識に思い出しているのでしょう。身体のメカニズムとしては、暑くて汗を流すとき、皮膚や体内の血流温度を視床下部が検知して、自律神経系を活動させ、皮膚の汗腺細胞が発汗するという生理学的な仕組みはよく分かっている。しかし、暑いから汗をかく、というこの身体生理活動を、私たちの脳がどう記憶していて、それをどのようにして言葉に対応させているのか、現代の科学でもよく分かっていない。

拙稿の見解を述べれば、その身体状態の痕跡は、暑苦しい体感とか、皮膚の熱感、汗のべとつき感などの皮膚感覚、扇ぐと気持ちよい、などの運動‐感覚の記憶などがセットになって、身体運動‐感覚受容シミュレーションとして脳内に保存されている。そのシミュレーションが仲間と一緒に動くことで感じる集団的運動共鳴として記憶されるとき、言葉に結びつく。「暑い」という言葉によって、私たちは、その経験に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションが呼び出されて、暑くてひどくつらい思いをしたときのことを思い出す。これはほとんど無意識で実行されるので、私たちはそれを思い出したことさえ覚えていない。ただ、「暑い」という言葉が分かる、と感じる。

その暑いという経験のシミュレーションは、仲間と一緒に感じる集団的運動共鳴であるとき、なぜ「暑い」という言葉に結びつくのか? 私たちはなぜ、暑いときに暑いと思うのか? なぜ、暑いときに「暑い」と言うのか? そして、暑くないときにも、「暑い」という言葉を使えるのか? こういう問題が、哲学、あるいは哲学の科学、にとって、まことに重要な問題だと(拙稿の見解では)思われます。

Banner_01

コメント

私はなぜ言葉が分かるのか(14)

2008-09-13 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

ちなみに、このとき西洋語などでは動詞の人称変化がおこる。三人称の主語を受ける動詞は、英語の場合、Sがお尻につく三人称対応の形に変化する、などですね。日本語の述語は人称変化しない。拙稿の見解では、どの言語も人称変化がない時代を経ている。つまり、どの言語も、もともとは、人称というものはなかった。その後、人称が発明され、それが便利だったので、使われるようになった。西洋語などでは人称構造がよく発達して複雑な人称変化が定着し、日本語などではそういうものは発達しなかった。

この違いを社会や文化の違いと関連させて研究すると面白いと思いますが、言語進化の研究共通のむずかしさがある。過去の言語の変遷は文字資料が残っている千年あるいはせいぜい数千年までしかデータがない。世界各国語の大きな分岐時点は数万年前くらいですから、そのころ話されていた言語がどんなものだったか、知る方法が見つかっていない。

人称構造がはっきりしている西洋諸語(インドヨーロッパ語族)に比べて、(拙稿の見解では)そういうものがはっきりしていない言語、たとえば日本語、のほうが、人称変化が生まれる以前の言語の古い形態を保存しているとみますが、いかがでしょうか。人称代名詞や動詞の人称変化など人称構造は、話し手の自己中心世界からみた聞き手と第三者との関係の自己中心的方向性(ダイクシス)を示す。(話し手の自己中心的世界観については次章で詳論予定)。「私じゃなくて、君がそれをする」とか、「君じゃなくて彼がそれをする」とかいうことを気にしながら言葉を使おうとすると、人称構造が生まれる。話し手の自己中心世界の原点から聞き手、あるいは第三者の位置へ向かう視線方向を使って言語表現の差異を作ろうとすると、人称構造が現れる。

拙稿の見解では、言語はもともとは、集団的共鳴運動を表現することから始まった。原初の言語は、(拙稿の見解では)仲間の皆で何かをするとき、何をするのかを表現する。つまり、「だれが」、ということよりも、「何をするか」ということを表現するほうが重要だった。話し手と主語「だれが」との関係を示す人称構造は、一番重要なことではない。その後、言語がいくつもに分岐し、それぞれが発展する過程で人称構造ができてきたということではないでしょうか?

このような文法の進化に関して、多数の人々が使い込んでいるうちに、不規則性から規則性が進化してくる、つまり覚えやすい規則ができてくる、という興味深い理論が最近提唱されている(二〇〇七年 サイモン・カービ、マイク・ダウマン、トーマス・グリフィス『言語進化における生得性と文化』)。

主語で表される物事の(擬人化された)身体運動は、述語に対応する。(拙稿の見解では)その身体運動は、話し手がその物事に憑依することで話し手の運動形成回路の上に引き起こされる。その運動形成の信号は種々の筋肉緊張や自律神経系の反応(心臓血管、内臓の変化)を引き起こす。さらに、それら筋肉緊張などの身体変化が体性感覚にフィードバックすることで感情回路を駆動する。その感情変化によって、主語で表される物事の意図に起因する因果関係の存在感が生成される。これが、(拙稿の見解では)主語と述語を結ぶ因果関係の基底になっている。この因果関係を言語で表現するに際して、自己中心世界の原点(話し手)の視座からの視線方向を強調する便宜のために、西洋語などの人称変化規則ができたのでしょう。

いずれにせよ、言語は、複数の人間が、音節列による記号化を媒介として、脳神経活動の共鳴を確認することで、物事の変化について客観的な存在感を共有する仕組みです。逆に、この仕掛けによって、世界の物事は、それを感知することによって引き起こされる脳神経活動の共鳴を複数の人間が確認し合い、それに音声を対応させて言葉にすることで、はじめて客観的にしっかりとこの世界に存在できるようになる(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

さて、話し手は、文法に従って「XXが○○をする」という形式で、主語と述語がそれと分かるように並べることで、世界のある部分への注目と擬人化を伝達します。物事をXXといい、その物事を擬人化してそれがする運動を○○という。それによって、聞き手の脳内に世界の構成とその変化の身体運動‐感覚受容シミュレーションを形成する。つまり、言語は、脳における注目と擬人化の運動形成過程の集団的共鳴現象を利用して、世界の構成と変化の捉え方を人から人へ伝播する。この方法は人間どうしが世界を共有して緻密な協力関係を構成するために役立つ。原始人の集団狩猟採集行動から始まって、私たちの世間話も商談も科学も哲学も小説も、現代社会全体を構成するすべての言語活動は、(拙稿の見解では)この仕組みで成り立っているわけです。

人間どうしが、目の前の物質現象について、互いに指差し、あるいは注目する視線を誘導しあって語り合うとき、この仕組みは間違いなく正確に働く。仲間の身体と物質現象との相互干渉を視覚や聴覚で感知できれば、その物質現象に対応する身体運動の共鳴を起こすことができるからです。実際、言葉を覚え始める生後十数ヶ月の幼児は、手全体を使って盛んに指差しをする。その指差し行動の八割以上は、ママを見上げたり(言葉になっていない)声をかけたりという対人行動を伴っている(一九九九年 デイヴィッド・レヴェンス、ウィリアム・ホプキンス『全手指差し、比較見地からの指差し機能。手全体を突き出すこの指差しで目の前の物を指示する行動は、飼育された猿の多種に観察されることから、人類に限らない霊長類共通の神経機構に基盤を持つ行動だと思われる。

さて、私たち人間は、猿など他の動物と違って、目に見えない遠くの物質現象についても語ることができる。この場合、目の前にないものは注目したり指差したりはできないが、言葉を上手に使えば、それに関する仮想運動はかなり正確に伝わる。話し手は目に見えない物事を想像して、それに注目したり指差ししたりする仮想運動を脳内で形成し、それに対応する言葉を発する。聞き手の脳内では、聞いた言葉に共鳴する仮想運動としての注目や指差しが起こることで、目に見えない物質現象をうまく想像できる。こうして言葉を使うことで、だれもが、目の前にない物事についても、同じような経験を思い浮かべることができる。

世間話をするとき、人々は、話し手と聞き手とが共感できる(と双方が思える)単純な感覚、感情(いい天気ですね、とか)を、言葉で言い表すことで、お互いに同じ世界を感じている、と感じる。言語を通じて、お互いの注目と運動の神経活動を、脳から脳へ伝播する。つまり、目の前の物質現象に注目したり、互いに慣れた習慣的運動を繰り返したりすることで、言葉とそれによって伝播される脳内の神経活動とを、ほとんど直感だけを使って、かなり正確に対応させることに成功している。

科学者が科学の話をするとき、物質現象を言葉で言い表す。話し手と聞き手が協力して共通の物質世界の法則を理解し、共感して共通の言葉を使う。ただし、科学で使う言葉は、直感で通じるふつうの語彙ではない。人工的に設計された言葉の体系です。実験と観察によって実証できるように厳密に組み上げられている。特に現代物理学は、数学を共通の言葉とすることで、客観的な世界の存在感を確立した。現代科学では、化学は物理学を土台にし、生物学や地学や工学は、物理学と化学を土台として組み上げられている。したがって、現代の自然科学は一貫した世界認識を表現できる。現代科学によるその共通の世界認識を利用して、私たちは互いに協力し、物質現象を上手に操作して現代の技術文明を作り出すことに成功している。携帯電話や再生医療を見れば、現代科学が、物質の操作に関して正確に世界認識を共有できるシステムであることは明らかです。

世間話は直感に頼りきるのに対して、科学は直感を排して組み立てられる、という両極端です。しかし、言語が伝わりやすいと言う点では、両方とも分かりやすくできている。分かりきった物事を分かりきった言い方でつないでいく。そのため、話し手と聞き手が間違いなく共通の世界を共有できる。

ところが、私たちが毎日使っている言葉の中には、世間話や科学と違って、実際は非常に分かりにくい言葉が多い。特に、書き言葉に多い。新聞や雑誌や、本や、インターネットに書いてあるものは、しばしば分かりにくい。それらはかなり抽象的です。目で見たり手で触ったりできない。物質世界には手がかりがない。目に見えない。微妙な感情、心、などの内的感覚について、自明であるがごとく語っていく。そういう場合、話は急に不正確になる。何を言っているのか、分かりにくい話になっていく。ざっと聞くと簡単に分かりそうな印象を受ける。しかし、ある程度深くなってくると、急に、さっぱり分からなくなる。それが問題です。

Banner_01

コメント

文献