哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ幸福になれないのか(3)

2008-03-22 | x6私はなぜ幸福になれないのか

「禍福はあざなえる縄の如し」、あるいは「人間万事塞翁が馬」などという。つまり、幸福の次には不幸が来て不幸の後には幸福が来る、とよくいわれます。本当でしょうか? 自然の法則を考えてみれば、そんなことはない、ということがすぐ分かる。

また、法則など考えなくても、実験すればすぐ分かります。百円玉を投げて見ましょう。表が出る。つぎは? また表かもしれないし裏かもしれない。裏になるほうが表になるより起こりやすい、ということはない。たまには、表表表と三回くらい表が続く。そうなると次はどちらでしょうか? そろそろ裏が出るのではないか、という気がする。しかし、実験してみれば分かるように、必ず表と裏は同じ確率で出る。つまり、表と裏が交互に出るだろうと思うことは、人間の脳が作り出す錯覚のひとつです。しかしなぜ、人間はそんなふうに感じるのでしょうか?

 実験で分かるような経験はいつもしているはずですが、私たちはそこから法則を学ぶことがない。経験から正しい確率を感じ取ることができない。禍福はよじった縄みたいに交互に繰り返すものだ、と信じ込んでいる。経験よりも、ことわざを信じるからでしょうか? いや、そんなことはないでしょう。自分の経験を、人間は、ことわざのような法則にしたがっている、と感じるから、ことわざが昔から今まで言い伝えられている。

ドラマや小説は、観客や読者である私たちが納得するように作られる。つまり、人間がそうだと思っている現実に合わせ込んで作られている。だから、かならず分かりやすい典型的なパターンの筋書きになる。事実は小説より奇なり、といわれますが、これは当然です。小説というものは、適当に奇ではあっても、信じられないほど奇でない程度の筋書きに作らないと売れないからですね。事実のほうは、古今東西世の中には無数の人々がいて、いくらでもおかしなこともするわけですから、信じられない、理解できないことが起こるわけです。

ドラマでは、主人公がさんざん、かわいそうな目に合った末、幸せをつかむ。つまり、ハッピーエンドで終わるものがひとつの典型です。逆に、悲劇のように、これでもか、これでもか、と主人公が運命にいたぶられる、悲惨な結末を売りにする、という物語の技法もある。いずれも、運不運、幸不幸の変転を意識したストーリーになっている。観客、読者は、自分の人生に照らしたりして、笑ったり涙ぐんだり怒ったり泣いたりして感慨に浸り、楽しむ。良いドラマを見ると、心が洗われたように気持ちよくなる。人間の脳は、こういうストーリーを敏感に感じるようにできているわけです。

明日か、来月か、来年か、いつかは今日と違う境遇になる、自分はいずれ、今日よりも幸福になる。あるいは、不幸になる。たしかに私たちは、そういうストーリーが現実だ、あるいは現実だと思いたい、という気持ちがある。そう信じて不幸な場合でも不幸にめげずにがんばれば、たぶん、状況は改善されるでしょう。逆に、幸福な場合でも幸福は長く続かない、きっと不幸が来るに違いない、と不安になる。私たちは、ついこう思ってしまうようにできている。もちろん、これは錯覚です。何の根拠もないのに、そう思うように、人間の脳ができている。根拠がないからこそ、強く思う。それでなくては、ドラマも小説も、マンガもゲームも存在しないでしょうし、健康保険も生命保険もいらない、株も宝くじもパチンコ玉も、あんなに売れるわけがありません。

病中、再起不能の可能性を医師に言われたとき、筆者は、なぜか楽観を感じ、全治した自分の姿が思い浮かびました。同時に、根拠なしにそう感じる自分を不思議だな、と思っていた記憶があります。自分に甘い、と言えばその通りなのですが、人生それもまたよし、とも思えますね。

明日の幸福を信じること。根拠のないそのイメージは錯覚ですが、その錯覚をしっかり感じて生きる。私たちの脳はそうなっている。幸福と思うときも油断せず、不幸になる危険に備える。不幸と思うときもめげずに、自分だけは幸福になると信じ、機会を求めて努力する。こういう行動をとる人類が生き残った。その子孫が私たちだからなのでしょう。

私たち現存の人類は、自分の運命を他人と比べては、不運、不幸をひがみ、恨み、敗北感、屈辱感、挫折感、ジェラシー、怨嗟、怨念、復讐心のようなネガティブな感情を持つ。なぜでしょうか? なぜ、こういうよくない感情があるのでしょうか? 宗教も道徳もマスコミも学校の先生も、そんないやらしいひねくれた感情は捨てなさい、忘れなさい、と教えます。こういう屈折した感情がなくなったら、世の中はいい人ばかりで、明るくすがすがしい、気持ちのよいところになるように思えます。しかし、どうも大昔から人間は、ねたみやひがみや恨みのようなネガティブな感情をかなり強く持って行動していたらしい。時代がたっても、ちっともなくならない。残念ながら、それが事実のようですね。なぜ、そういういやらしいよくない感情が、人間の身体にしっかりと備わっているのでしょうか? 

たぶん、こういうネガティブな感情を感じない種族は子孫を残せなかったのでしょうね。

私たち現代人は、敗北感や屈辱感、ジェラシー、怨嗟、怨念、復讐心、挫折感、自暴自棄のような屈折した感情を、そんなものはないほうがよい、あってはならない、などと否定的にいう。皆が幸福に生きるためには、そういうものはなくならなければいけない、という気持ちがあります。実際、現代の政治、経済、そして社会を円滑に機能させるには、ジェラシーのような感情を抑える教育が必要でしょう。しかし少なくとも、つい最近までの人類の歴史上、こういうような感情は、集団としての子孫繁殖のために有益なものだったに違いありません。もちろん、道徳家の先生たちがいうように、こういうネガティブな感情で人間どうしは争い、損害を与え合って互いに不幸になる。しかし、人類の過去の生活では、ひとりひとりが、ある程度、そうして不幸になることによって、集団の生存が確保され、子孫が増えて、繁殖上の利益が多くなる事情があったのかもしれない。

大昔、狩猟採集の時代、集団で得た収穫は公平に分配されていた。それによって、集団の団結がはかられていたのでしょう。運不運、幸不幸の感情やジェラシーの感覚は、この公平な分配を維持するための機構として働いたと思われます。

脳の扁桃体周辺の神経回路が判定する幸福不幸の物差しは相対的なものです。心理学実験によると、私たちの脳は、周りの人間が獲得した収穫と自分のものとを比較して、幸福不幸の感情を引き起こす(たとえば、一九九四年 リチャード・スミス『羨望における敵意と鬱的気分の予測因子としての主観的不正義と劣等感』)。周りの人が手に入れたものの平均より自分の獲得物が小さければ不幸、などという判定法を使っているように観察できます。

そういう判定をして、不幸を感じ不愉快になり、他人に嫉妬したり怨嗟したりひねくれたりして、それを行動に反映させるという人間の性向が、集団全体としての生存に有利だった。配分に不満を言って怒れば、仲間が再配分してくれるかもしれない。不公平にすると不満が出てくることがあらかじめ予想できるから、人々は不公平な配分をしないようにいつも気をつける。それで集団の結束が高まる。

不公平に怒って復讐するような文化を持つ社会では、復讐した本人は返り討ちに会って殺されたり、ケガをしたりして損をするかもしれない。しかし不公平をもたらした側も損害をこうむるから、報復を恐れて不公平をしない歯止めになる。ひがんでひねくれた人はみんなでする仕事の協力に積極的でなくなるから、仲間は困ります。そのため仲間は、ひねくれものがでないように、いつも物事の公平には気をつけるようになる。

そうして、そういう嫉妬や怨嗟やひがみなどネガティブな感情を作るDNA配列(ゲノム)を持ち、それを発現する文化を維持する集団は、公平な、団結力が強い社会を維持することができる。そうでない社会は内部の結束が足らず競争に負けて消えていく。そうして、敗北感や嫉妬や怨嗟を表現するDNA配列(ゲノム)は生き残った集団とともに増殖していく。そして現在、生き残った人々の子孫である私たちの身体に、その形質が現れているわけです。

世界でも特に平等で協調性の高い社会を実現しているといわれている私たち現代日本人の祖先は、もしかしたら、一人一人が自分の幸不幸にかなり敏感で、ひどく嫉妬深い人々だったのではないでしょうか? もしそうであれば、平等で協調性の高い社会を維持するためには、その特質を大事にするほうがよいのかもしれませんね。まあ、それは冗談ですが、欧米人をはじめとしてどの国の人も、いろいろつきあった筆者の経験では、表面はともかく実際は、日本人もうんざりするほど嫉妬深いということが事実です。

そういう人類のDNA配列(ゲノム)から作られた私たちの脳は、仲間が手に入れたものより自分のものが小さいと不幸を感じる。嫉妬し怨嗟するような機構になっている。ひがんだりひねくれたりする。できるものなら復讐したい、と思う。それが自然です。けれども世間では、こういう話は、ふつういやがられる。人間はだれもがひどく嫉妬深いなどという話を露骨に話されると恥ずかしいし、まじめな人は困惑します。しかしそれはたぶん、隠しておきたい事実だからでしょう。

私たちは、残念ながら、自分で思っているよりもかなり嫉妬深い。幼稚園でケーキを切り分けるとき、先生はよほど注意して全員、等分になるように分けないといけません。それで子供は算数ができるようになったりする。大人になったら、そういうことはなくなるか? 大人の方がずっと算数が上手ですね。つまり、嫉妬深さは年をとるから少なくなるということはない。あさましくて情けない、といえばそのとおり。しかし、それは私たちが異常に陰湿な性格だからだとか、情けないヤクザ者だからそう思うのではなくて、それが人間の健康な脳の反応だからそう思うのです。

自分だけが不幸でもひがまない、他人をうらやまないという人は、学習の結果、強くそれらネガティブな感情を抑える新しい神経反応を作ることに成功したからです。文明が発達して以来、宗教や哲学は、ネガティブな感情を抑えるように教えてきましたが、そういう学習はふつう身体になじみませんから、なかなか成功しない。それで、理性が勝っているはずの私たち文明人の間でも、敗北感やジェラシー、ひがみ、怨嗟、怨念、復讐心、のような屈折した感情は、意識の下のほうから繰り返し、ふつふつと現れる。

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