ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

後南朝遺跡 Ⅲ

2009-08-25 05:00:00 | 田舎
昨日は『街道をゆく・古座街道』にあったこの後南朝遺跡について紹介しました。
今回は刻まれている壁字について、考えてみることにします。

       

縦書きに刻まれていますが、ここは横書きで勘弁願います。
まず詩歌風に           この下は朝里氏歴代の名前になっています

 八重垣や 吉野の山わ          先祖  融仁王
 神の社に 後醍醐の           初代  重親
    納むみたまを            二代  恵明
                        三代  宗良
と、書き始め、漢文につながります。   四代  重左門  道栄
                        五代  重太夫  道○
 昇朝日九輝世界             六代  半之丞  道香
 蔭月大雲暗日本             七代  重太夫  宗得
 司天皇国尊正統             八代  重右エ門 重恵(?)
 続南朝血代朝里             九代  重右エ門 重堂(常)
 魂忠義主祀大神             十代  源六   重○
 鎮国皇山楽萬歳            十一代  浅蔵   重○ 
 伏後深草納仙洞            十二代  和吉郎  重○ 
                       十三代  利平次  重○
そして、また和歌風に          十四代  浅助
                       十五代  慶道
 月のせで 花の宮子を        十六代  寅之助
   思ふかな              十七代  晋
  神の社に               
    十六の○                                

○の部分は潰れて読めなかったり、埋もれて読めなかった文字です。

最初の詩句は朝里氏が南朝の末裔であることを表現している文だと思います。神の社に後醍醐天皇=南朝の御霊を奉ったとしたのです。

漢文は南朝の世にならなかったので、この国は暗いと嘆いています。

そして和歌風の歌は、先祖の都を思う心を歌い、最後の字が読めないので正確には解りませんが、16代に亘り重なる想いを歌っているのでしょう。

この詩句を刻んだのは、15代の朝里慶道氏です。孫の晋の字も慶道氏が刻んだのであれば、かなりの歳に達してからのものであることが想像できます。

この詩句の右側に大きな字で

   南朝
 後亀山天皇末孫            紀
 天照皇大神      拾  朝
 神武天皇       五  里
 国皇大神       代  慶    念
                 道 

と彫られていることでも、慶道氏の執念が感じ取れます。
慶道氏は安政4年生まれ、昭和9年没、つまり1857年~1934年に生きていた人です。昭和初期生まれの人で80歳以上の方なら老人の慶道氏を知っている方がおられるかも知れません。

          

字を彫ってある壁とは反対側の壁です。虫喰岩や牡丹岩と同じ質で出来ていますが、こういう岩は大島の磯でも頻繁に見かけます。

1枚目の写真を見ていただくと、直立した(字を彫った)岩に反対側の岩が乗っかかっています。ちょうど雨を凌ぐのにもってこいの場所であり、慶道氏はここに怨念の字を刻んでやろうと誓いを立てたのでしょうね。

          

左右の岩が重なり合った部分ですが、何故か石の鎹が打ち込まれているように見えますが、違うのでしょうか。

          

洞の外にも和漢の詩句がそれぞれ彫ってありますが、こちらの方が彫が浅目です。慶道氏自身が彫ったのであれば、おそらくこちらから彫っていったのではないかと思われます。岩に字を刻むということがどういう力を必要とするのか、こちらの面で試してから、あの深くて大きな字を彫っていったのではないかと推察するのです。

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