ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

吉野ヶ里遺跡

2012-07-06 05:00:00 | 

消費税増税法案が衆議院を通過し、大飯原発が再稼働を始めました。この二つの大問題は、実現させるのに同じような手口が使われているように思えてなりません。消費税に関してはこのままの財政状況では今の社会保障は保てないぞ!年金はどうなってもいいのか!?という国民への脅しがあります。一方原発再開はというと、このままでは電力使用量10~15%の自粛・節電をせよ、更には計画停電も辞さないぞ!という脅しが始まっています。関西電力は7月2日から計画停電を実施するかも知れないと言うダイレクトメールを送りつけてきていますが、それまでに来ていないというところもあるという不徹底ぶり、当の関電の職員はそんなに危機感を抱いてないのじゃないのかと思ってしまいます。何故そのダイレクトメールが必要なのかと言うと、自分が住んでいる地域の停電日時が記されているからなのですが、それが来ないとなると急に電気が停まってしまうこととなり、予備知識が無いと停電が終わった時、火事などが起こる危険性もあるからなのです。「停電前にはテレビで放送されます!」と関電職員は言いますが、じゃずっとテレビを点けておけということか、節電節電と言いながら、ずっと電力を消費しておけとはどういうことなのか、電力不足と言うのは関電が原発再稼働のための自作自演ではないのかと思わずにはおれません。

水天宮を後にして筑後川を渡り、西へ西へと向かいますが、どうやら実際に道を知っている風でもなく、勘を頼りに吉野ヶ里の方へ向かっているようです。42号線が幹線として走っているだけの和歌山県南部とは違い、この広い平野部では大阪同様に縦横に道が走っています。ただ殆どが田畑なのでずっと向こうまで見渡すことが出来るのが都会との違いですし、すぐ横が海であり山である南紀地方とは街のでき方が全く違うのです。

             

やって来ました。念願の吉野ヶ里、時間はもう4時を回っていました。これは吉野ヶ里のマスコットでしょうか、3人で写してもらった写真もありますが、あまり鑑賞に堪える容姿でもないので、誰も写ってないものを掲載します。ここは入場ゲートから遺跡へとかかっている橋の上です。

10年ぐらい前、最初に「よしのがり」とテレビのニュースで聞いたときは、「ナニ狩り?」と聞き返したほど、知らない名前でした。遺跡は弥生時代後期・紀元3世紀ごろの復元だそうです。そろそろ豪族が誕生し、貧富の差が大きくなり、より大きな富を求めて諍いを繰り返し始めたころのものでしょう。

             

橋の上からも再現集落の建物が見えています。手前の赤い屋根は関係ないと思います。おそらく民家でしょう。きっと吉野ヶ里遺跡が発掘される前から建っていたのでしょうが、景観からすると邪魔です。

屋根に角のような飾りを頂いているひと際高い建物は主祭殿、この遺跡は主祭殿を中心に(円の中心と言う意味ではない)弥生時代の生活を復元させているのだろうと思います。

             

橋を渡って暫らく歩くと柵で囲われた土地に物見櫓が建っているのが見えてきます。

             

入口は扉の無い、鳥居の原型のような形をした門(なのでしょう)。こんなに簡単に入れるなんて、とても戦闘のあった時代の集落とは思えません。横木の上に並ぶ3体の鳥の人形だけが、よそ者は入るなと脅しているだけのようです。

             

最初にあった物見櫓に登っています。高さ10mくらいかと思います。当時の弓矢がどれくらい飛ぶのかは知りませんが、命中率から言っても至近距離から撃っていたと思われます。10m上の敵を射ることが出来たでしょうか?物見櫓に登るとついそんなことを考えてしまいます。

             

竪穴式住居にしても貧富あるいは階級の差が表れています。人間は皆平等であったのは、もう昔のこととなってしまった時代です。そして今もなお貧富の差は解消されず、いや当に拡大され、相変わらず金持ちのための政治が執り行われているのです。

                       

吉野ヶ里遺跡は環濠集落跡というのが一つのメインであり、環濠によって敵の侵入を防ぎ、田畑を潤し、一度に多くの荷物の運搬も可能になり、それまでの生活は大きく変わったのだと思います。

柵を越えた侵入者は環濠があるので一見飛び越えられないように見えますが、考えれば簡単で、水際まで降りて行って泳げば進入することが出来ます。

             

高床式になっているのは倉庫、人が住まなかったのは、慣れのせいなのか、暖を取れないからなのか、土に直に住むなどということは今では考えられません。

             

竪穴式住居、手前が王位の者が住んだ住居、後ろが従者のものらしい。

             

王位の住居の中、フラッシュを光らさないと薄気味悪く写ります。男女二人は何を喋っているのでしょう?今の言葉とは随分違ったのでしょうね。

             

ここは養蚕のための居、この当時から絹を布として用いていたのですね。

             

1時間ほどかかって主祭殿に到着しましたが、私はこの上には上がらずでした。弥生後期当時の建物がこのような高度なものを造ることが出来たとは想像し難いものがあるのです。物見櫓にしてもそうなのですが、このようなものだっただろうと吉野ヶ里の関係者は土器や鏡の絵からの想像と中国での建築物を参考に復元しているといいますが、そもそもどうやって造ったのかが私にとっての疑問なのです。

             

主祭殿の北側にある高床式の住居です。当時は皆竪穴式に住み、高床式は皆倉庫でした。この住居だけが人が住んでいたとされます。それは最高司祭者、誰の前にも姿を見せなかったと言われるこういう人が特殊なところに住んでいたのですね。

             

この高床式住居に登ってみるとギャーギャーと五月蠅く鳴くカラスの声、北側を見ると遺跡の範囲よりずっと向こうでカラスの一団が群れをなして飛んでいました。向こうで何かあったのでしょうか。

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2 コメント

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Unknown (N田)
2012-07-06 10:06:04
私もずいぶん久しぶりでした。
以前は櫓がぽつんとあるぐらいで殺風景だったのを覚えてます。今は観光スポットとして大勢の人が来てるようですよ。
こうゆう所に来ると、当時の人が生きていくための大変さを感じますね。今もいろんな問題で大変ですがね。九州にも、この近くに玄海原発がありますが、知ってますか。
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コメント続く (N田)
2012-07-06 19:27:25
広い場内に入るとここぞとばかりネタ探しにフル回転でしたね、早い早い、あまり長くない足で私を振り切って動き回りましたね。
そういえば、若い時の話で俺は足が早かったと自慢してましたね、本当ですか。
この日は、朝からで最後の吉野ヶ里は結構こたえましたね。
展示写真はないの、撮影禁止だったかな、これでおしまいですか。
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