ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

南御堂

2014-03-07 05:00:00 | 大阪にて

死と対峙するとき、私にとっては誰かのお通夜あるいはお葬式に参列するぐらいなのですが、沈痛な気持ちになり、どうしても心が固まってしまったようになります。今までは友達の親の葬式などが多かったので、往き帰りは苦も無く元の自分に戻るのですが、今回のように長く親交のあった人が亡くなると出かける前から心が貼り付いたようで、葬式の場で「よく来てくれました」と笑顔で言われても、愛想笑いをすることすら出来ません。

彼女が亡くなったのは金曜日でしたが、私はその週の月曜だったか火曜だったか、朝方夢に彼女が出てきたのです。彼女は裸(だったと思う)で何処かへ走って行こうとしていました。私に向かって走っていたわけではなかったけど、私は「何処へ行くん?」と抱き止めたのでした。そこで目が覚めたのですが、それ以降毎朝、彼女のことが一段と気になっていました。見舞いに行かなければと思いつつも、病床でしんどそうな女性を男の私が何の臆面もなく会いに行くこと自体、迷惑なんだろうと勝手に考えていたのです。これはお見舞いに行かなかったことを合理化しているわけでは決してありません。

             

一度、手紙を書いてみようかと思ったことも、いろんな事柄が浮かんでは来ましたが、結局果たすことは有りませんでした。彼女には「死ぬのは怖いですか?」と聞いてみたかったのですが、強欲な所など微塵もない彼女ですから首を横に振ったでしょう。ただ「辛い」と言うのではないかと、来年には初孫が小学校に上がりますし、下の孫は2歳でまだまだかわいい盛り、その面倒を見てやれないのが、心残りだったんだろうと思っているのです。何につけても才覚に長けていた母親に対して、娘は苦労知らずでイマイチしっかりしているようではなかったけど、これからは母親に頼ることも出来ないのですから、しっかりしてくるんだろうと思っています。

             

坐摩神社を後にして、屋根が見えていた南御堂へと自転車を走らせてみました。御堂筋に面していますから何度も前は通ったことがありますが、ゆっくりと境内に入ったことは無かったと思います。思いますと書いたのは、一度だけ夕方からコンサートに来たような記憶があるのです。

       

この南御堂の創建は教如上人が1595年に坐摩神社と同じ渡辺の地に大谷本願寺を建立したことに始まるそうで、坐摩神社と同じく秀吉の大坂城築城の折にこの地に移転させられました。その後関ヶ原の戦いで勝利した家康から京都烏丸七条の地が寄進され、本廟を京都に移し東本願寺と称します。元々ここに有った寺院は難波別院として大阪での念仏道場として残りました。

創建された東本願寺には翌年梵鐘が鋳造されたと言いますが、その梵鐘が今も残っているそうです。先の大戦では軍事物資が不足し、庶民から鍋や釜まで供出させた軍部は、何故大寺院の釣鐘は供出させなかったのか、謎が残ります。

             

では何故大阪の地に大谷本願寺が建てられたのか、それは教如上人を遡ること100年ほど前に蓮如上人が現在の大阪城の地に大坂坊社を建立され、京都に有った山科本願寺が破却されたことから、大坂坊舎は本寺として定められて大坂本願寺(石山本願寺)となったわけですが、11年に及ぶ信長軍と戦った石山合戦で劣勢になったのを機に和睦し、顕如は和歌山へ隠居、教如が石山本願寺を継ぐものの、信長に明け渡す羽目になり、教如も雑賀へ退却します。しかし、その後すぐに三日三晩の大火に見舞われた石山本願寺は焼き尽きてしまったのです。

             

第二次世界大戦終盤、第一次大阪空襲に於いて、難波別院は大火に見舞われます。終戦後16年かかって修復され、その折に難波別院が終焉の地である芭蕉翁に因んで句碑が建てられたと言います。でもその句碑は見つけられませんでした。“旅に病んで ゆめは枯野をかけまはる”有名なこの辞世の句が刻まれているそうです。


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3 コメント

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寂しくなりますね ()
2014-03-07 07:25:24
ぼんくらさんのブロをも久しぶりに読んだような気がしたのですが、いきなり訃報の内容だったので、あぁ私がぼんくらさんとブログ上で知り合った頃の、あの方のご不孝だったのですね。江住出身の友人の娘さんの結婚式で祝辞を指名された・・・でしたね。

ぼんくらさんが夢の中で彼女に会えたのは、「それは良し」と思うことで自分が救われるならいいし、逆にお見舞いに行かなかった自分に後悔の念が残るなら、次に似たようなことがあれば会いに行けばいいと思うのです。そういうことを思いめぐらすのが 供養でもあり、人間しかできないことなのかもしれないと思うのです。

ただ、年齢が若いので本当に彼女は辛かったと思います。お孫さんにも娘さんにも、もっと関わっていたかったことを思うと、私の亡くなった姉もそうだったはず。なのに、おじいちゃんは 生きていたかった人のことを思えば、一命を取りとめているのに病院内で不平不満ばかりで・・・、人間最期は本当の姿が現れるもんだと痛感しています・・のょ。
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未だ分からないでいます。 (ぼんくら)
2014-03-07 09:48:10
お見舞いに行った方が良かったのか、行かない方が良かったのか、自分では行ってあげたい気持ちは強くあるけど、相手にとって迷惑なのかも、自分だったら、末期になって痩せ細り、惨めな姿を晒したくないと思うだろうと思うのですが、ひょっとしたら最後にあの人に会っておきたいと思うような人が居るかも知れません。でも死の間際になってそんなことを考えてる余裕なんか無いのかも知れません。

彼女に対する思いはもう少し綴りたいと思っています。
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そうですね ()
2014-03-07 20:58:38
私は朝、思ったことを書いてしまったのですがその後、今回父親が入院した時のことを思い出したのです。いろんな人からお見舞いに行っていいか?と聞かれました。でも、入院当初の様子がとても他人に見せたくない状態で、母親もその姿がショックなうえ、亡き次女の時のことを思い出したそうです。姉はくも膜下出血で意識もなく、運ばれた病院にたくさんの友人がお見舞いに来てくれて、それはそれで感謝もしたけどやはり、付き添う母親として見世物にされているように感じたと。身内にすれば、病院にいること自体本人と同様耐えられない時間なんですよね。
父親は それはもう誰かが入院したと聞けば「すわお見舞いに!」と行きたがる人でしたが、いざ自分が半身身動きがとれない状態を、見てもらいたいか?と聞かれたら答えはNOなことも、父親の性格からすれば家族はわかっていましたので、「元気になって家で養生するようになったら会いに来て」とお断りしています。

誰もが病院に縁のないときには「入院したらお見舞いに来てほしいな」と思うけど、いざそのときは・・・わかりませんよね。
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