最終日、9時にホテルを出た私たちは、少し戻って熊野本宮大社へと車を走らせます。前日のうちに本宮大社へ参っていたなら、朝から中辺路をゆっくりと散策できたのですが、ここまで来て本宮大社に参らないわけにはいきません。いや本当はここまでくれば那智大社へも参らなければならない筈なのですが、那智大社へ行けば青岸渡寺や補陀洛山寺も見ないわけにもいかず、新宮からなら車で1時間とかからない那智大社なのですが、今回はN田夫妻に神倉神社の階段も体験していただきたかったので、熊野三山制覇は諦めてもらいました。いやはや伊勢から下って熊野まで、時間がかかり過ぎましたね。
久し振りに来た熊野本宮大社、何となく前来た時の風景とは違うような気がして、駐車場が何処にあったのか思い出せないまま、前来た時は大社への階段の左に停めた筈だと思いながら、右手にある大きな駐車場に車を停めました。当然二人は本宮大社の鳥居の方へ歩いて行こうとしますが、それを制止して反対側の川の方へ案内します。細い道を通って三叉路に着くと右にとてつもなく大きな鳥居が目に入ります。大きな鳥居に向かって右手に熊野の山々を見なたら歩きます。
『藤原定家の熊野御幸』では、京都からこの熊野本宮大社まで12日で到着していますが、今から800年以上前ですから今のような道も無いし、上皇や高級貴族らは自身で歩くわけも無く、山の中を輿を担いで上り下りしながら京から熊野まで300kmあるとしても、12日で到着するのは大変なことだったでしょう。彼らは今の本宮大社ではなく、この大斉原(おおゆのはら)と呼ばれているこちらに詣でていたのです。
周りの木々を見てもこの参道が新しく造られたものであることが分かります。明治22年夏、熊野川の大洪水でここに佇んでいた熊野坐神社は3棟を残すのみで、殆んどを流出していまい、残った3棟を今の本宮大社に遷したのだそうです。
以前はここに幾つもの社殿が並んでいた敷地、正面には黄色く色づいたイチョウ、赤く紅葉したモミジが色を際立たせています。無断で写真を撮るなと書かれていましたが、何処に許可を求めに行けばいいのかも分からず、まぁ商用に使うんでもないのですから、ちょっとぐらいは良いのでしょう。因みに監視カメラを設置しているとも書かれていましたが、未だに文句を言ってこられていません。
ここに神社があったことを示す石塔、幟には正還座百二十年大祭とあり、洪水で流出してすぐに今の本宮大社に還座したことが分かります。
この頃のイチョウは何処で見てもきれいに色づいていて、中辺路沿いの福定の大イチョウや光泉寺の子授けイチョウのことも頭を掠めましたが、古座川奥まで行くことは出来ませんが、福定の大イチョウはこの後見れるだろうとは思っていました。
智真という僧がこの熊野で逗留し、百日の参籠の後、聖神の霊告を受け一遍と称して全国への遊行賦算をこの熊野の地から初めたと書かれていました。この“南無阿弥陀仏”の字は一遍上人のものとも書かれていましたが、相当ディフォルメされた字であり、ちょっと信じ難い話です。
この境内ではしてはいけないことがたくさん書かれていますが、車の進入は禁止では無さそうです。でも自転車でも放置はダメだそうで、放置と言うのはどの位の時間を指すのか、廃棄ではありませんから、車を取に戻るということなのですから、そのダメな時間を設定しなければなりません。このように車が停まっていて人が居ない状態は放置ととも取れるのです。この車はどうやら川との間で農作業をしている人のもののようです。
一通り見学して元来た道を本宮大社の方へ向かいます。右手にもう一つ神社が見えるので行ってみることにしました。途中のコンクリート製の石垣に設えてある水抜きの管にヘビが入ろうとしるのをN田君が見つけて騒いでいます。もう寒い時期なのに呑気なヘビだと思いました。動いてなかったら誰も気が付かなかったと思います。
本宮大社の末社の産田社でした。
引き返そうとすると、今度は違うヘビ、色もケバケバしいですし、今度はこちらを頭にしています。さっきのヘビを見ていなかったら注意してなかったと思うのですが、ケバい色のヘビには気を付けろと言いますから、用心して通りました。赤い舌をチョロチョロと出し入れするのが気色悪いですね。来年の干支に当たりますが、未だ出てくるのはチョット早かったですね。
産田社からの大鳥居の眺め、今回が初めてだったN田夫妻は、この鳥居の大きさに仰天したことでしょう。
京から大阪、田辺まで来て、中辺路を歩いて来た熊野詣の一行は、この大斉原の河原から船に乗り、速玉大社を目指したのでした。この区間だけが楽な行程だったのでしょうね。
建設費も大変そう、柱の中にエレベーターでも作れば、景色を展望出来そうですね。
この金色のヘビ君は神社に住みつく神のお告げヘビではないのですか、そう思うと縁起の良い出会いでしたね。