ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

双島

2011-02-18 05:00:00 | 田舎
安指の漁港の遠景、来年から毎日釣りを楽しもうなんて考えると、古座地方だけではなく岬より西側でも良い釣り場を探さなければなりません。風の吹き方によって潮岬の西と東では大違い、片方が大荒れでも片方はベタ凪っていうことも十分あり得るからです。

                  

安指で釣りを始める前に腹ごしらえのために田子のドライブインまで戻ってきました。普段はここを素通りするので、ゆっくり見ることはありません。

レストランに入ってカツ丼を注文して、外をぼんやりと眺めているとこんな碑が建っているのが眼に留まりました。

『枯木灘公園中心地』、初めて気付いたのですが、ここが枯木灘公園の中心ですか?なんか違うような気がするけどなぁ。枯木灘って周参見辺りから続く風光明媚な海岸線のことですよね。もうこの辺りでは南端にあたるように思うのです。

             

ついでやから食後の腹ごなしに海岸を散歩してみようと思ったのでした。双島と書かれた碑もありました。風吹山からも見渡すことが出来ると何処かに書いてあったように思います。

             

海へと降りれるように小さな道がついています。双島が遠くに見えます。42号線を走っていてもこの島は自然と目に入ってきます。

             

田子の辺りの海は岩盤が遠くまで続いている場所が目に付き、釣りをするにしても浅いのだろうと思います。きっと姫の前の地磯より浅いんではないかと思うほどです。

浅いからといって魚が居ないわけではありませんが、ここで竿を出そうとは思いません。

             

此方は西側、安指の地磯方向です。丹念に見ていけば何処かにポイントになるような所が見つけられるのでしょうが、そんな余裕はありません。

             

振り返ってレストランの方向、42号線を走っていると、潰れたレストランが数件見受けられますが、ここだけは昔からずっと残ってます。ダイバー達が集まってるのを見かけることもあります。

             

公園の西外れに俳句が認められています。『流れ来て ○○○○涼しや 波つくる』とあります。

田子などと聞くと思い浮かぶのは『田子の裏ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける』なんて万葉集の詩を思い出しますが、小さい頃からこの地を田子と呼ぶことを知っていた私は、この句を学んで何故『富士の高嶺』が出てくるのか不思議で仕方ありませんでした。山部赤人もはるばる駿河の田子に行かんでも、南紀の田子の句を詠んでいてくれていたら、この地も全国に知れ渡ったんだろうと思うのですが、『富士の高嶺』を詠むから有名になったんであって、双島を詠んでも名句にはならなかったかも知れません。

             

レストランまで戻ってきて、どでかいハイビスカスを記念撮影、壁に『そば』なんて書いてありますが、ここではお蕎麦は売っていません。

              gooリサーチモニターに登録!


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
枯木灘公園 (暖流)
2011-02-20 12:04:21
要らぬお節介で申し訳ありませんが、枯木灘公園中心地と言う碑を建てたのは、南紀「田子の浦」と表記が有る様に、このレストランの設立当時の経営者だと思います。中心地とは、景観上最も風光明媚なところと言う意味のある種の自慢で、客寄せの為でしょう。中央点ではありません。「双島」の碑もこのレストランの名が出ています。
一方の句碑の内容は、「流れ来て 鯖火涼しや
波つくる」 鯖を捕る漁船の火を詠んだ句で、作者は南天居と言う方で、レストラン創立当時の経営者です。串本の沿岸漁業は、夜焚き網と言って、夏の夜集魚灯でアジやサバを寄せて、網で捕る漁法で、今も続いています。夏の夜の風物詩です。
枯木灘公園は、昭和29年県立公園として指定されました。枯木灘は昔からある言葉ですが、「枯木灘海岸」と名付け、公園に指定したのは、地元串本町田並出身の民選初代和歌山県知事「小野真次」氏です。その後昭和43年に、白浜から串本まで範囲を拡げ、名称も「熊野枯木灘県立自然公園」となり現在に至っています。若い方に歴史を少しでも知って戴きたく投稿しました。
返信する
いろいろと (暖流様へ)
2011-02-21 08:45:35
ご教授賜りありがとうございます。

若い方に歴史を・・・って言ってもらってますが、私はもう来年で定年を迎えますし、決して若くはありません。歴史つまり郷土史には全く詳しくありません。古座駅の観光協会で数年前に手にした『話し言葉研究サークル』が発刊した手作りの本を読んだくらいです。
私はどちらかというと、古座側の人間なのですが、古座のこともそんなに知ってるわけでもないですから、合併する前の串本町自体は全くと言っていいほど知らないのです。

こうやっていろんなところを巡ってはブログを綴って5年になりますが、それは齢50も過ぎてそれまで働き・遊びながら学んだことが、自分のものの見方となっているはずであり、その見方というものが世間に通じるものなのかという点にあるのです。それは物事をどれ位知っているかではなくて、どれ程知らないかということを認識したいと思っているのです。

だから、事実関係は全く知らないのに、自分の感覚で意見を述べているのです。暖流様のような真摯なコメントを下さる方に出会うと、自然ともう一度勉強しなおしたりしています。事実私はこのレストランの名称はサンワだと思っていて、これって田辺にもあったとか思ったりしていて、南紀枯木灘だったとはつゆ知らずじまいでした。

ただ中心地の意味合いは理解しましたが、どう考えても枯木灘のリアス式海岸を代表するのがこの地であるとは思えません。

これからも度々ご意見をお願いいたします。
返信する

コメントを投稿