ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

南宋寺

2014-07-09 05:00:00 | 大阪にて

昨日は朝から風がそよとも吹かず、そんなことはあり得ないのですが、風の神が全部、瞬間最大風速70mという台風8号へと集結したのではないかと思うほど、風が吹かなければ暑いですね、少し動いただけで汗が噴き出ます。去年の今頃はセミが鳴き始めてたような記憶が有るのですが、去年が特別に早かったのか、今年が遅いのか、未だセミの鳴き声は聞こえません。あいつらが鳴き始めると、その音だけで暑いんですよね。

             

昨日載せ忘れた利休好みと言われる実相庵、茶の湯など嗜みのない私には、何が何だか説明を聞いてもチットモ解りません。

             

国の重要文化財に指定されている仏殿の内部です。写真撮影禁止とは書かれていませんから、遠慮なく撮っておきました。正面には釈迦如来が安置されています。

             

違和感を覚えたのが、この奉祈と書かれた紙、“チベットがチベット仏教徒の国にもどることを”“中国人に仏心が生まれることを”って、そんな他国の事をあれこれ言うのはよろしくないと思いますよ、内政干渉とも取られます。そんなことなら、集団的自衛権を容認する閣議決定をしないよう、日本国を他国で戦争する国へ変えないよう祈ってもらいたいものです。

             

狩野信政筆の天井絵、『八方睨みの龍』、狩野信政ってあんまり知らんなぁ、きっと南宋寺の仏殿の天井に飾ろうと思って描いたんじゃないと思うけど、名古屋に単身赴任していた頃に小布施で見た北斎の天井絵と比べたら、(自分では描けませんけど)下手ですね。

             

南宋寺の壁には全て、瓦が利用されています。夏の陣で焼き払われた家のものなのか、大阪大空襲で焼け落ちた家のものなのか、それとも全く関係のないものなのか、何処にも書かれてないので想像するしかありません。

             

誰も気付いてないのか、この古そうな消火器の前で立ち止まる人はいません。勿論ボランティアの語り部からの説明も有りません。

             

南宋寺を離れて、前回来た時に写真を撮らなかった少林寺施設、近くに有る少林寺のものかと思ったけど、よく見ると少林寺校区自治連合会となっています。縄が張られていますが、申し込みさえすれば自由に利用できるようです。

             

教室のようなものが有るので、私は保育所か幼稚園だったと思ったのです。

                       

南宋寺の総門まで戻ってきました。最初に来た時には気付かなかったのですが、門の前にこのような小さな碑が建っていました。家康、坐雲亭、紹鴎、利休、古田織部、信長、信忠の名前が確認でき、當寺に有と書かれています。

墓だらけ

2014-07-08 05:00:00 | 大阪にて

南宋寺へ向かったのが11時半、普段なら昼食を始めようとする時間なので、食事を先にするか、見学を先にするか迷ったのですが、結局南宋寺の方に行ってしまいました。前回は宿院頓宮から南へ走ったら、たまたま南宋寺の前に出たので入ったのでしたが、今回は何処に有るのか分かっていたので、大道筋を突っ切って、御陵前の交差点を左折したのでした。この道からは南宋寺の裏側に出ると思っていたら、途中で道が無くなってしまって、結局は何度も曲がって正面に出たのでした。でも今回は北門から入ったのではなく、駐車場の方へ回って、そこから入ったのでした。この方が南宋寺にずっと近いのです。前回は北門から入り、南宋寺の山門まで10分近く使っていました。

             
                              ここは唐門、前回来た時の反対側です。

拝観料400円を払おうとすると、ボランティアの案内の人が居て、「今、先の団体が行ったとこやから、すぐ行ったら追い着くんで、早よ行き」と言われましたが、私は案内など必要としませんが、どんな話をするのか聞きたかったので、指差される方へ急ぎました。でも総勢20名ほどが所狭しと立ち尽くしていて、自由に見学できる雰囲気は有りません。おまけに写真を撮ろうとすると、人が入ってしまうので、一呼吸置いてから次の順路に進んだのでした。

             

こちらは東照宮跡碑、文政年間に建築された東照宮は、空襲で焼失、昭和42年になって碑が建立されました。唐門から一直線に通じ、20mほど奥に建っています。

       

前回撮らなかった唐門の瓦、確かに三つ葉葵の紋が描かれています。碑の徳川家(康)の文字が見えます。観音さんの奥には開山堂跡があり、家康の亡骸は一旦この下に埋められたという伝説が残っているのです。

             

坐雲亭、山内最古の建築物で、中には入れませんが、秀忠・家光両将軍が相次いでやって来たことを記した板額が掛かっているとか。

                       

夢界堂、南宋寺再興に尽力した、堺奉行・喜多見若狭守の位牌堂だとか。

       

ここからは堺所縁の著名な人の墓があちら・こちらに雑然と配置されています。雑然とは私の感想であって、ちゃんと計算されているのかも知れませんが・・・。先ずは津田家の墓、それから千家一門(裏・表・武者小路)の墓、その中の中心に千利休の墓が有りました。

        

左は武野紹鴎の墓、中央の墓は何故かこの墓の説明が有りません。右が三好長慶一族の墓。

         

続いて三好家一族の墓、人がたくさん居たので横からの写真と、居なくなってから正面の写真を撮りました。半井家の墓、半井って「なからい」と読むとは、NHKのお天気姉さんが出てくるまで知らなかったのですが、最近見かけないですね。

             

ここから立ち入り禁止の札、禁止だからではなく、何故かこの道を進んでみたい気がします。

             

枯山水まで帰ってきました。古田織部好みとされる庭ですが、大きな岩が無いのでアクセントが無いように思われます。方丈と一緒に撮りたかったのですが、見学の皆さん、縁側に座って動きよらんのです。前回来た時は誰も居なかったのに、今回は私の居合わせた時に2組の団体が見学に訪れていたのです。来ていた人が「なんそうじ」と言っていましたが、このお寺は「なんしゅうじ」です。

与謝野晶子生家跡

2014-07-07 05:00:00 | 大阪にて

阪堺電車が東玉出の北側から住吉街道で同じ道を走り、住吉大社を越えて別々のルートになり、堺市に入って綾ノ町で再び合流した地点からもう一度御陵前駅で分岐するまでの紀州街道を堺では大道筋と呼んでいます。その大道筋沿いに大小路ビルが有ったし、ザビエル公園も有りました。大道筋は片側3車線、真ん中に阪堺線の線路が2軌道分あるので幅は約0mと広く、全長約2,5km、その所々に『てくてくろーど案内図』という案内板が設置されています。

             

地図には妙国寺や菅原神社、開口神社、宿院頓宮、南宋寺の他、千利休や武野紹鴎の屋敷跡や与謝野晶子生家跡など、大道筋沿いの名所・旧跡がたくさん描かれていますが、『てくてくろーど』と書いてある通り、歩く上でこの上なく都合良く作ってあるのです。例えば歩道にはサイコロの絵が描いてあり、その眼の数だけ歩道に描かれた目印を辿れば、目的のところまで行けるようになっているのです。

             

この地図は一つしか有りません。堺を縦横に走っている紀州街道、熊野街道、長尾街道、竹内街道、西高野街道の5つの街道を示しています。このうち紀州・熊野・西高野の各街道は南北に、長尾と竹内の両街道は東西に走っているのです。歩く気はさらさら有りませんが、竹内・長尾の両街道は大道筋を起点とし、長尾街道は方違神社の前を通る道、竹内海道は大小路通りを通る道で、両方とも二上山の方へ繋がって行くのです。

             
                  このモニュメントの地図を見ると生家の駿河屋は今の大道筋を殆ど覆っていて、紀州街道は東側の歩道の幅しかありません。

『てくてくろーど』マップに載っていた与謝野晶子生家跡を訪ねてみることにしました。与謝野晶子と言えば『君死にたまふことなかれ』で反戦思想として知られていますが、少しかいつまんで詩を本文に近い口語体で書いてみます。
①“ああ弟よ 君を泣く 君死にたまふことなかれ。末に生まれし君なれば 親のなさけは勝りしも 親は刃を握らせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 24までを育てしや”
③“君死にたまふことなかれ。すめらみことは戦いに おほみずからは出でませね 互(かたみ)に人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人の誉れとは おほみこころの深ければ もとより如何で思されん”
⑤“暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや思へるや 十月も添はで別れたる 少女ごころを思いみよ この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき 君死にたまふことなかれ”

             

この詩を書いたのは26~27歳、日露戦争の頃、親交の深い文芸評論家に「家が大事、妻が大事、国は滅びてもよし、商人は戦う義務なしというのは余りにも大胆すぎる発言」と批判を浴びますが、「たいそう危険な思想と言われますが、当節のように死ねよ、死ねよと言われること、また何事にも忠君愛国の文字や、畏れ多い教育御勅語などを引用する流行は、この方が却って危険」と反論しています。こういう若き日の晶子だったのですが、第一次世界大戦に及んでくると『戦争』と題する詩の中で“いまは戦ふときである 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る”と戦争賛美ともとれる考えを披露しています。

満州事変勃発後は満州国成立を容認・擁護し、こんな詩まで書いていたのです。“強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは”戦争を美化し、鼓舞する詩まで書き、晩年は翼賛婦人に成り果ててしまったのでした。

             

次は千利休の屋敷跡、武野紹鴎の屋敷跡も近くに有るのですが、昼飯時が近かったので、この日は寄りませんでした。大道筋よりフェニックス通りと呼ばれる大通りの南側を少し西に入った一筋目に有ります。真ん前には駐禁にも拘らず車が停めてあったので、道いっぱいに引くことが出来ません。余りにも高名な茶人ですが、住んでいた屋敷は意外と小さいというか、都市開発の煽りで屋敷跡を全部残せているのではありますまい。侘び寂び好みの利休でしたが、利休が住んでいた頃は、人口も少なく、土地もふんだんに有ったことでしょうから、もっと広かった筈です。

             

高札のような大きな板に何やら書かれているのですが、擦れている箇所も多く、とても読み難いのです。どうやらタイトルは『椿井来由記』と書いてあるらしい。

             

椿の井とは利休が産湯を使った井戸で、今でも清水が湧いていると言います。ここは江戸後期から明治中期まで酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた場所で、その人が昔住んでいた利休を偲んで茶室までも拵えたとか、見えている屋形は京都・大徳寺の昭和大修理の際に出た古材を使用して建てたのだそうです。

             

開口神社のあの句碑が気になって仕方がありません。“風鈴や”の句を調べてみても判らなかったのですが、開口神社の案内図を拡大して見ると、句碑の位置に山本梅史句碑と書いてあるのを発見、なので山本梅史を検索してみました。

                       

山本梅史(ばいし)は全く聞いたことがない人ですが、やはりインターネットは何でも調べることが出来るんですね。有りましたよ。この句碑の句を解明する前に皆さん、この句が読めますか?と思って再掲したのですが、尻すぼみになってしまっていて、下に行くほど薄くなり、私もやっと“風鈴や”だけを読めたのです。

では正解です。“風鈴や 見馴れたれども 淡路島”書いてある句が分かっても、句碑と比べるとそうは読めませんよね。梅史さんが若い頃は堺から毎日のように淡路島が見えていたんでしょうね。

開口神社 Ⅱ

2014-07-04 05:00:00 | 大阪にて

開口神社って皆さん「かいこうじんじゃ」と読んでいませんでしたか?実は私もそう思っていたのですが、「あぐちじんじゃ」と読むそうなのです。それにはチョット開いた口が塞がりませんが、私のPCでは「あぐちじんじゃ」と打っても変換してくれません。なので「かいこうじんじゃ」と打っているのですが、でもGoogleの検索エンジンを使うと「あぐち」と打つだけで『開口神社』と候補が出てきます。

             

近所からは「大寺さん」と呼ばれ親しまれているようですが、お寺ではなくてれっきとした神社なのです。何故「大寺さん」と呼ばれているのか、それはこの境内に行基が神宮寺として念仏寺を建立したと伝えられており、お寺としては明治元年まで残っていたそうです。勿論、明治政府のバカな政策によって毀釈の憂き目に遭ってしまったわけですが、三重塔などは先の戦災で焼けてしまうまで残っていたようで、近所の方々はその念仏寺を「大寺さん」と呼んでいたのでしょう。

               

境内に三つのモニュメントが有ります。一つは東側に有る泉陽高校跡の碑、泉陽高校は今、大小路ビルより北東側に有りますが、1874年に女紅場として開口神社の境内に誕生したそうで、古くは与謝野晶子や橋田壽賀子を、現在活躍している女優では沢口靖子が学んでいました。真ん中の句碑、これにも説明板が無いので、出だしの“風鈴や”だけが読め、作者も分りません。三つ目が三国ヶ丘高校跡地の碑、三国ヶ丘高校は方違神社の南隣にあった履中天皇陵よりもっと南に有ります。1895年にこの境内に仮校舎が建てられました。昨年の市長選挙で維新候補を退けた現市長はこの高校出身です。三国ヶ丘高校は1年後に移転、その後1年は寄宿舎だけが残っており、泉陽高校の前身の女学校は1903年に現在地に移転しているので、境内には二つの学校が有ったことになります。

どうしても気になるので真ん中の碑にある“風鈴や”の季語で始まる俳句を調べてみました。“風鈴や花にはつらき風ながら(蕪村)”“風鈴や草匂ふほど水きけり(富田木歩)”“風鈴や古典ほろぶる劫ぞなし(竹下しずの女)”“風鈴や天駆け巡りくる風に(長谷川櫂)”ぐらいしか出てきませんが、どれも句碑に彫られた字と比べると違う句のようです。

             

一番最初に使った大きな写真は西の鳥居です。西の鳥居はアーケードのある商店街と交わるように建っており、遠くからは写せなかったので苦労しました。境内側から撮ると鳥居の向こうがタバコ屋になっているのが分ります。顔は商店街の方を向いていますが、ここの狛犬がやたらと大きかったです。

             

商店街側から鳥居の全体を写そうとすると、アーケードの一部が入ってしまいます。鳥居の中、境内の向こうに東の赤い鳥居が見えています。

       

鳥居の右脇にこの神社で唯一の案内板を見つけました。ステンレス製で丸いのでよく目立ちます。南宋寺の塀に囲まれた一角に有った海会寺は、創建(元弘2年)当初はこの地に建立されたようです。その時代に掘られた井戸が金龍井と呼ばれていたとか、干ばつの時に龍神に祈ったら、老人に扮した神さんがここを掘るよう教えたという由緒がある、室町時代の記録では泉南第一の井戸(この辺りは泉南ではないのですが)、江戸時代の記録では豆腐製造に、また違う文献では茶の湯に適しているというようなことが記されています。案内板を注視すると一行目の真ん中辺りにテープが貼られているのが分ると思いますが、これは海会寺の創建の元弘2年の後ろで『(1332)』と西暦で表した箇所、案内板を造った時に間違ったのかと思ったけど、家で調べたら合っているので、単なるいたずらなのか、間違っていたのを上から貼ったのかも知れません。

             

東の鳥居です。鳥居の前がすぐ片側2車線の道路なので、渡って撮りました。

                     

どう見ても鳥居は新しいし、入口の狛犬の顔もマンガチックで新しそう、でも台座は古くからのもののようです。写真が小さいのでよく判らないかも知れませんが、目に黒目が描かれており、私にはマンガの顔に見えるのかも知れません。東の鳥居の南内側に豊竹稲荷大神、この境内にはいったい幾つの神が祀られていたのでしょう。

開口神社

2014-07-03 05:00:00 | 大阪にて

集団的自衛権の行使を容認するという、戦後一貫して守ってきた平和外交を覆すようなことを、安倍内閣はとうとう国会の審議を経ずに、閣僚だけで決めてしまいました。やり方も一方的ですが、一度あったことは二度あるし、二度あることは三度あると言うので、これからも国民にとって都合の悪いことには、こういう手法が使われていくのだと思うと、やはり戦前の二の舞になるのかと思うと、空恐ろしい気分になるというものです。齢とった私などはどちらにしても余命幾ばくもないし、徴兵されることもありますまい、これから先、実際に武力を行使するのにはもう少し時間がかかるでしょうから、私からすると子どもの世代より、孫の世代のことが心配です。おそらく安倍晋三と言う人は後世の人から、悪名高き人の中に名を連ねるんでしょうが、反対にこういう人を持ち上げたがる人もいるものです。

             

菅原神社から一旦自転車を停めておいた大小路ビルまで戻り、自転車で阪堺電車の大小路駅付近まで行き、開口神社を探しました。菅原神社からは200mも南へ歩けば開口神社の北鳥居に到着するのですが、そこからまた大小路ビルまで戻るのも時間がかかるというものです。菅原神社では近づくとたまたま雅楽の音が聞こえてきましたが、こちら開口神社ではけたたましい女性の声が聞こえてきます。北の鳥居から中に入ると自転車が所狭しと置いてありました。

       

どうやら境内に幼稚園でもあるのでしょうか。参観日だったのかも知れませんが、大勢の女性が勝ってがってに喋るとこうも姦しいのか(かしましいを変換するとこんな字に・・・)、聖なる地には似つかわしくありません。自転車が置かれた反対側、つまり入口の左側には祠が並んでいます。左から順に楠木神社、舟玉神社、少彦名神社、恵比須神社、大国魂神社、北辰神社、産霊神社で、次の一群が豊受神社、神明神社、琴平神社、三宅八幡神社、兜神社、厳島神社、熊野神社です。まぁよくも一ヶ所にこれだけの神を並べたものだと感心しながら、欲張りやなぁと軽蔑もするのですが、大鳥井瀬神社を探した時に跡碑のあった兜神社がこんなところに祀られていました。

             

更に奥は薬師社、薬師と言うのは仏教の言葉、別段、本地垂迹・神仏習合でも私は構わないのですが、明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈は何だったんだという思いに至ります。結局は日本国は神の国であることを強制するために国家神道を強いて、富国強兵路線を推進し、日清・日露から更にあの戦争へと突き進んだのでした。征韓論の主唱者だった西郷隆盛が西南戦争で敗れても、維新政府の首脳は全て征韓論者であって、常に東アジアを侵略しようと考えていたのでした。安倍晋三の『日本を取り戻す』とは、こういうことへの回帰だったのですね。

             

舳は「へさき」、舳松は「へのまつ」と読むようですが、昔堺には舳松村という村があったようで、この開口神社より少し南東部にあたります。境内には何の説明も有りませんが、今は無きその村の鎮守だったのでしょう。左側は岩室神社、菅原神社、右側は賽神社、白髭神社、相変わらずの祀りようです。

       

境内にはたくさんの碑や祠が有りますが、殆ど説明されたものは有りません。一番左が、扇塚という碑が置かれています。真ん中の鳥居の奥には影向石という石が置かれています。右端は堺の荒神さんと呼ばれる竃神社、岩室神社から竃神社まで境内東側に一列に並んでいました。

             

ここまで来ると、拝殿の間の広い境内が見渡せるようになりました。ここまでが開口神社の東北部分の紹介です。

菅原神社

2014-07-02 05:00:00 | 大阪にて

16年前に大小路ビルに派遣された頃は、パソコンを持っていたわけではなかったので、ブログを書くこともなかったし、デジカメも持ってなかったので、何処かを訪ねたりすることもなかったものですから、ビルの近くに何が有るのかなど興味もなかったけど、開口神社と言う神社が有るのは知っていました。大鳥井瀬神社を探した時もその字を見ていたので、今回は開口神社にも行ってみようと思っていました。地図で開口神社を探してみると、大小路ビルの近くに菅原神社というのがったので、先に行ってみることにしたのです。

             

ザビエル公園から東北方向へ5分ほど歩くと、雅楽が聞こえてきて、神社が近くに有る事が分ります。それにしても朝から雅楽とは珍しいと思っていたら、菅原神社の拝殿の前で神事が行われている模様、神官や巫女さんも居るし、無関係の者がノコノコ入って行くのも何ですから、もう少し南にある鳥居の方から入って行くことにしました。

             

神社の前の道は広くなく、鳥居の全体像を写すのが困難、神社の対面はこんな所に飲み屋が有ったのかと思うほど、私としては不思議なことに16年前には仕事が終わって、堺の地で飲みに行った覚えが無いのです。今回、路地に入って歩いてみると結構沢山の店、飲み屋もたくさん有ったのでした。

             

鳥居を潜ると前は結構な広場になっています。この写真では中心に鳥居を写していますが、右側に社務所、そして左右に赤い布をかけた置物が有るのを覚えておいてください。後で説明します。

             

東の鳥居の近くまで歩いて行って振り返ると、入った来た時に潜った朱塗りの門が・・・これを随身門と呼ぶそうです。第二次世界大戦で焼け野原になった堺ですが、この門は残ったそうで、大阪府の重要文化財に指定されています。

           

先ほど書いた赤い布の置物はこれです。神牛と呼ばれているようですが、菅原道真が生まれたのが丑年で、亡くなったのが903年2月25日の丑の日だったので、全国の天満宮には牛の像が奉納されているとか、でも何かヘンですよね。顔を撮りたいのでどちらも同じ向きになってしまっていますが、ホントは狛犬のように向かい合ってはいるのです。よく比べてみると使っている石の色が違いますよね。これは造った年代が違うのではなく、左の方が御影石、真ん中のが大理石で造ってあるのだそうです。右は石田梅岩の像、丹波生まれの梅岩の像が何故堺の神社に安置されているのか、読み難い碑文を読むと堺に来て講演をしたようです。

        

そのまま境内を突っ切って、東の門を出て、もう一度入り直しました。東の角には神農大神を祀る薬祖神社が有りますが、民に初めて農耕を教えたので神農氏と呼ばれた伝説の神で、薬の祖神として崇められているというような訳の分からない説明が有りました。もう一つよく解らないのは、1397年に足利義満に遣明使が持ち帰った神農の像を献上、それが薬祖神社の始まりで、1907年にこの菅原神社に合祀されたけど、第二次世界大戦で焼失、1955年に造営したとされるこの神社を日本最古の薬祖神社だとしている点です。理論が整合していますか?学問の神様を祀っているとは思えない稚拙さです。

             

こちらは北東角に有る堺戎神社、南大阪で随一の“えべっさん”と自称していますが、今宮戎もどちらかと言えば南大阪に位置しており、随分身勝手な言い分のような気がします。

       

ゆっくりと一周してきました。西北に有った稲荷社はなかなか端正な佇まい、神官と巫女は居ませんが、神事に居た人たちは未だ拝殿の前で何か話をしています。ようやく皆が去ったので拝殿の前に行ってみると御神饌と書かれた白い袋が一つ残っていました。神事に参加していた人はそれを大事に持ち帰っていましたから、大事なものなのでしょうが、何故一つ残ってしまったのでしょう。私が持ち帰っても怒られはしないでしょうが、神なんて気色悪いので持ち帰りはしませんでした。

             

誰も居なくなった拝殿、人が写ってる方が良いのか、誰も写ってない方が良いのか、比べて考えてみたいと思っています。

             

ザビエル公園

2014-07-01 05:00:00 | 大阪にて

今日から7月、2014年も半分過ぎて残り6ヶ月になりました。それにしても今日閣議決定されようとしている集団的自衛権の行使容認、紛争の解決に武力を用いないという憲法とは明らかな矛盾があるというのに、国会議員が憲法を守ろうとしない、そんな態度で良いのかという疑問が湧いています。平和を希求するはずの公明党までが、権力の座に座り続けたいがために党是を擲ってまで戦争への道を進もうとしているのです。私自身は戦前に生きていたわけではないので、いつか来た道を体験しているわけではありませんが、90歳ぐらいの人なら、昨今の情勢をいつか来た道と酷似しているように感じているのではないかと思うのです。

             

南宋寺でお金を払って拝観しなかったので、今回はお金を払って観てこようと思い、先週25日に三度(「さんど」ではなく「みたび」と読んでね)堺へと行ってきました。2回目の堺行で紀州街道を南下すると私が46歳の頃、2週間ほど赴かされたNTTの大小路(おおしょうじ)ビルがあることに触れましたが、そのビルの前の街道を挟んだ対面にザビエル公園が有ります。

             

入社してから28年間、電報一筋の仕事をしてきたので、電話のことなど全く知らない電電公社~NTTの職員でしたが、1985年の民営化後、電報の合理化に伴って、私もついに電報マンではいられなくなり、電話の勉強をするために大小路ビルに派遣されたのでした。私が電電公社に入社したのは、大阪で万博が催された1970年、当時は京橋に建てられた電電公社の学園で三ヶ月間の訓練が有りましたが、新たに電話の講習を受けるのに2週間とは、あまりにも短い期間であり、それもそのビルの何処かの課の課長代理というエラそうな奴に教えてもらったので、何のこっちゃ?とそもそも言葉が解らないのに専門用語を並べ続けるアホな課長代理の為に、無駄な2週間を過ごしたように思います。

             

当時は公園などには興味も無かったので、公園内には入っていませんでしたが、入ってみると結構広い公園でした。ソフトボールなら出来そうな多目的広場もありましたが、きっと球技は禁止なのだろうと思います。

             

公園内には4つのモニュメントが有り、その一つがこの堺鉄砲の碑、戦国時代から近江の国友、紀州の根来、和泉の堺は火縄銃の製造地として有名であり、堺には火縄銃保存会も有るようです。

             

ヨーロッパの西の果てのポルトガル、アジアの東の果ての日本との出会いを象徴したと言われるジョルジ・ヴィエイラの彫刻、『東と西の接点』と題されていますが、大阪万博時にポルトガル館に設置されていたものをポルトガルが堺市にくれたものだそうです。何故か案内板にはポルトガルのガが小さく書かれていますが、パソコンではガの小さい字は打てません。

             

フランシスコ・ザビエル芳躅碑、ザビエルが来日し、京に登る際に堺の豪商・日比屋了慶の屋敷に滞在したのですが、ザビエル来航400周年の1949年に日比屋了慶屋敷跡と言われるこの地に公園を建てたので、ザビエル公園という名前が通称となっていますが、本当は戎公園と言うのだそうです。碑文にはザビエルはザヴィエルとなっていました。

             

堺出身の詩人、安西冬衛の歌碑です。タイトルは『春』この写真ではなかなか読めませんが、“てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った”と彫られています。何故だか熊谷守一の絵が脳裏に浮かびます。

             

これが私が2週間通ったNTT大小路ビル、前を走る阪堺電車の駅は花田口、大聖寺駅は次の駅ですが、何故かビルは大小路の名前が付いています。営業所が有った1階はお菓子屋になっています。暖簾がかかっていますが、この日は休みでした。

家原寺

2014-06-30 05:00:00 | 大阪にて

営業職をしていた頃、あちこちで見かけた行基の像、行基の生誕の地が堺の家原寺町であることは知っていましたし、その街に家原寺があるのも知っていましたが、なかなか訪れる機会もなく、先日大鳥大社を訪れた際に帰ってから地図を見ていたら、近くに家原寺があることに気付き、どうせ大鳥五社のうちの残り三社を訪れるのですがら、その際に寄ってみようと思っていたのでした。

             
                              山門(仁王門)
大鳥北濱神社を見つけることが出来ず、諦めて家原寺を目指したのですが、方向だけ分かっていて、後は勘に頼って走っていると、急に大鳥大社の前に出てしまいました。浜寺元町からずっと東へ走っておれば良いものを、途中鳳小栗街道という信号で南に曲がってしまい、何処かから熊野街道と書いてあった道を走っていたことになります。

                       
                              有料ですが、料金の徴収場が無いので、任意のようです。私はちゃんと200円を払いましたよ。
「しまった!」と思ったけど、その時点では未だどちらに向かって走れば良いのか分かっていました。阪和線のガードを潜った辺りでお腹が減ってきて、時間を見ると12時前でした。でも適当な食堂も無いし、そのまま走っていたら目指している津久野1丁目の信号がなかなか見つからず、そりゃそうです、思い違いして道を間違っていたのでした。方向としては合ってるのですが、広い道としては2本も西を走っていたので、おかしいと思って、左方向に走り出した時には、もう家原寺への道を過ぎてしまっていたのでした。

                    
                    仁王さんは外を向いているのではなく、互いに向き合っています。行基の像は建っている所によって顔や姿が違いますね。
私は高校生の頃、堺市に住んでいましたが、ずっと南の方、大阪狭山市と隣接している北野田というところ、学校は大阪市内だったせいか、堺市の地域については殆ど知らないので、おまけに通学・通勤には南海高野線を使っていたので、今回の阪和線沿線である毛穴町、堀上緑町、八田寺町という住宅街に入ってしまった折には、もうどっちを向いて走っているのか、さっぱり分りません。

             
                              板塀の向こう側が中院
更にUP・DOWNが激しくて、自転車ではきつい、だんだん疲れてきました。どうしたら良いのかと思って呆然としていると、思い出しました。私には便利なツールが有ったのです。スマホ、音声検索で「えばらじ」と発声すると、なんと荏原寺というお寺が検出されたので、今度は「いえはらてら」と唱えると、出てきました。現在地からは案外近い所に有るのですが、自分がどの方向を向いているのか分からないものですから、地図を見ていても分りません。前回、方違神社を探すのに迷った時は、自分がどちらに向かっているのかが分かっていたのです。

             
                               一願不動明王を祀る護摩堂
地図を頼りに少し走ってみてもやっぱり判らないので、じっとスマホを見ていると、“ナビを開始”というボタンが有るのに気付き、タッチするとナビが開始されましたが、自転車ですからずっと見ているわけにはいきません。時々見るとナビのように案内しています。ようやく家原寺に着いたのは1時前、間違わなければ大鳥大社からでも5分ぐらいで来れたところだと思います。

         
                  行った時のハスはあまり咲いていませんでした。蕾が多かったので今日以降ぐらいが良くなってるかも知れません。
行基という坊さんは、飛鳥から奈良時代にかけて、お寺もたくさん建てていますが、灌漑用の池を作ったり、橋をかけたりして活躍し、人民の為に尽くした人で、空海などよりも私は偉い僧だと思います。

        
                             薬師堂の手前の大木はヤマモモ、真ん中のトイレのような建物は経堂、右は東門です。
空海は貴族・天皇家などに仏教を説き、宇多天皇に寵愛されましたが、行基は仏教の民間布教に専念し、僧尼令に違反したとして朝廷から弾圧を受けたのでした。同じ仏教を広めるにしても全く逆な立場の二人ですが、生きた時代は違います。行基の方が古いので、行基は空海の事を知りませんが、空海は行基のことを知り得たので(知ってたかどうかは判りませんが)、知ってたとしたらどう思っていたのでしょう。でも家原寺は高野山真言宗の別格本山になっているのです。

             
                              地蔵堂
思っていたよりも広い境内ですが、大戦後の農地改革で敷地を大幅に減らしたそうです。それでも2万坪もあるようですが、板塀の向こうはどのようにして行くのか分りませんでした。

       
                              池の端に建つ観音像、横に咲いていたのは花菖蒲
三重塔にも行きたかったので、一旦門外に出て、駐車場があるという左側の方へ行ってみたのですが、案内板に書かれていた信号を曲った途端、上り坂になっていて、もう体力の限界と諦めて帰ったのでした。

             

この板塀の何処かに中院への入り口を作ってくれたら良いのにと思います。でもこの板塀は昔からあるものではなさそうです。

20分弱散策して、府道30号線所謂熊野街道を北上して帰りましたが、疲れ果てて走っている感じ、途中までは思い出せない道でしたが、大仙古墳の辺りまで来ると見たことある風景、堺東駅の前を通り、大和川を遠里小野橋で渡ったら、だんだん東へ斜め向いて行く感じ、松虫通りの手前で西に曲がって、家まで相当時間がかかったのでした。

大鳥北濱神社

2014-06-27 05:00:00 | 大阪にて

昨日は多くの写真を載せ、長い文章を書いたので、今日はその反動です。以前なら昨日の南宋寺の記事の量なら、2回に分けて書いてネタを引っ張ったものですが、あまりネタも無いくせに1回で終わってしまいました。

タイトルに大島北濱神社などと書くと、写真の鳥居がその神社かと思ってしまいますが、実はそうではないのです。南宋寺の総門へ帰る途中、右側にある駐車場の片隅に鳥居と祠がチラッと見えたので、行ってみようと思ったのですが、その辺りからは駐車場へ通じるような道はなく、一旦自転車まで戻り、コの字型に走って駐車場までやってきました。

             

途中、少林寺施設所という閉鎖された建物があったので、よく見てみると幼稚園か保育所のような雰囲気の建物でした。保育所が足りないと言われて久しい昨今、こういう施設を放っておくのは勿体ないと思います。

             
                            鳥居の両側に置かれている比較的新しい唐風狛犬

この神社、地図を調べても何と呼ばれている神社なのか載っていません。勿論、神社の周りにも案内板は一切ありませんから、何も書きようがないので、さっさと切り上げ、東に見えている高架下の道路を南下することにしました。この高架上の道路が第二阪和国道、26号線です。高架下の道路を走っても、何処まで繋がっているのかは分らない状況で走ったのでした。道幅は狭いですが、一応ずっと高架下を走っていけましたが、石津川の手前で堤防に上がるための階段が有り、押して上がらなければならない事態になってしまいました。堤防に上がり橋を渡ると、さぁ今度は何処で降りたら良いのか分りません。川に沿って暫らく海の方へ走りましたが、降りれるところが無いので、元に戻って危なそうなヘアピンカーブの坂を下ったのでした。私の自転車はもう5年以上乗っていて、ブレーキの効きが悪くなっているので、ブレーキシューも摩耗しており、ワイヤーもいつ切れるかとビクビクしながら走っているのです。

             

目的の大鳥北濱神社は浜寺元町2丁にあると書かれていました。26号線を南下すると浜寺元町2丁の角で出逢うようになっていて、丁度角には八剣伝という居酒屋があるので分かり易く、東西に5本の道路、南北に2本の道路で区切られたごく小さな街です。5本の道を縫うように走ればすぐに探索は終わりなのですが、何処にも神社自体が有りません。おかしいなと2回も回ってみましたが、やはり神社は有りませんでした。大鳥北濱神社を探すのは諦めて、家原寺を探しに走り出したのでした。


南宋寺

2014-06-26 05:00:00 | 大阪にて

先週の水曜日、18日に都議会で起こった「早く結婚しろよ」等のセクハラヤジ事件、5日間経った今週の月曜になって鈴木某議員が自分が発言したと詫びを入れたようですが、事件直後の記者会見では「自分が言ったのではない」「(議員を)辞職すべきだ」と言っていたのに、自民会派を離脱しただけで済まそうとしています。他人事のようにウソを言い、他人なら辞職を当然視しながら、自分のこととなると言ったこととは正反対の行動を取るような人物が、よくもまぁ都議会の議員になれたものだという思いです。この人物、右翼団体『日本会議地方議員連盟』の正会員、2年前の8月に上陸禁止の魚釣島に立ち入ったとする軽犯罪法違反容疑で警察に事情聴取されてもいます。他にも「子どもが産めないのか」とヤジった議員もいるとか、サッサと名乗り出るべきだと思いますが、右翼って“お国の為に死ね”という感覚でいると思っているのですが、違うのですかね?国の為に犠牲になる覚悟を持つ人が(別にそれがエライと思ってるわけではありませんが)、自分の事となると庇ってしまうなんておかしいですよね。次の都議会選挙では大田区民の動向を注目したいものです。

             

デジカメのバッテリー残量が気になりながら、頓宮の東の道を南へ走り出しました。途中左手に少林寺というお寺があったので寄ってみようかと思ったのですが、あまり大きなお寺では無さそうなので、気を取り直して南へ進みます。少林寺は中国のカンフー映画でお馴染みですが、堺市では町名にもなっているお寺です。そのまま南下していくと突き当りになりそうだったので、左へとハンドルを取ると大きなお寺があるので、そこで停まると『南宋寺(なんしゅうじ)』と何処かで聞いたようなお寺の名前、気になったので入ってみることにしました。

       

総門を潜ると前は真っ直ぐな道、左右は墓地です。その先に見えてきたのが『甘露門』国指定の重要文化財ですが、道脇にあるので門の役目は果たしていません。そして徳泉庵というお寺がありましたが、中には入れません。

             

これが甘露門、角度を変えて撮りました。1652年の建立とか。

                       

南宋寺は臨済宗大徳寺派の禅寺で、三好長慶が父・元永の菩提を弔うために1557年に建立、大坂夏の陣(1615年)で焼失、1617年沢庵和尚によって再建された三好氏の菩提寺です。これから三好長慶の坐像を建てるなんて、遅いですね。

       

石畳を歩いていくと橋がありますが、水は流れていません。その先に紅葉したモミジ、季節感がずれてしまいます。鐘楼の前では写生している女性がいました。そして海会寺というお寺、ここも入ることが出来ないのです。大坂の陣の元となった方広寺の鐘銘を書いた文英清韓もこのお寺の住職でした。

             

やっと南宋寺の字が見えてきました。ここまで来るのに写真を撮ったりしていますが、10分かかっています。手前の『第一義』と刻まれた碑は、どういう意味を持つのでしょうか。

       

南宋寺に入る前に鳥居があったので、神社かと思ったのですが、違っていました。鳥居の手前に天慶院というお寺、鳥居の奥は本源院というお寺でした。どちらも入ることが出来ません。

                       

本源院の山門の前には『織田信長・信忠公供養塔』と書かれた板が立てられていました。

             

幾つかあったお寺の中で中に入れるのは南宋寺だけ、でも入るとお墓ばかりで、写真を撮っても仕方ありません。この時は全く知らなかったのですが、拝観料400円を払うと国の名勝に指定された古田織部作と言われる枯山水風の庭園や、徳川家康のものと言われる墓、千利休一門や武部紹鴎の供養塔、三好一族の墓などが有る本坊に入れたと言います。これはもう一度訪れなければなりますまい。

             
                              山門を潜ったところに有った禅堂

徳川家康の墓というのは、大坂夏の陣で真田幸村勢の奮闘に恐慌状態に陥った家康は自害すると言い出したのですが、部下に誡められ、駕籠に乗せられて逃亡中、後藤基次(又兵衛)が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺まで運ばれてきた時には死んでいて、南宋寺の開山堂の下に隠し、後に改葬したと伝えられている説が有るのです。

             
                              国指定重要文化財の仏殿

秀忠・家光の両将軍が立て続けに南宋寺を訪れているのも、ここが家康最後の地だった証しなのかも知れません。

             

それが事実なら、家康が死んだと言われる夏の陣の翌年まで、誰かが家康の影武者を演じていたことになります。家康の影武者と言えば昔こんな本を読んだことがありました。でもこの南宋寺の話とは別設定でした。

             

元来た道を戻っていますが、南宋寺の壁に向かった石畳が有り、その道を辿ってみると唐門が有りました。これも国指定の重要文化財です。この写真ではよく分かりませんが、屋根瓦と屋根の下の丸い紋には徳川家の紋所である『丸に三つ葉葵』が描かれています。

             

案内板によるとこのお堂が方丈なのかも知れません。でもやけに新しいのが気がかりで、歴史が感じられません。

南宋寺どころか、この辺り一帯は大坂夏の陣の際に焼失してしまいましたから、家康の遺骸を隠したというのは少し無理な話だと思うのですが・・・デジカメのバッテリーの残量を示す電池のマークは赤く点滅を続けているのですが、未だ写真は撮れるようです。