今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「戦後失われたものは何々かと問われて、家だろう、露地だろう、祭だろう、結局は言葉だろうと言って、いずれも一度はほかの雑誌に書いたことだと気がついて、窮して微妙なものだろうと、答えた。」
「関東の大地震のとき、日本人は朝鮮人を殺したと、今ごろあばくものがある。何人殺したか分らないのに、なるべく人数を多く言いたがる。南京の虐殺の例は以前書いた。南京では十二万人を殺したという。この十二万人という数字は東京裁判できめられた数字で、東京裁判は勝者の裁判だから、数字は当然誇張されたものである。それを二十万人、三十万人も殺したと中国人が言うならまだしも、ほかでもない日本人が言う。
昔の日本人なら、自分から言いださない。言いだすものがあっても、信じない。一々反証をあげて論破する。日本人なら論破したほうを信じる。むろん中国人はそれを信じない。
どこの国の国民も、自分の国の『非』はみとめない。かくそうとする。自分の国の非は、みとめないのが健康なのである。健康というものは、厚顔で鉄面皮なものなのである。そして世界中の国は依然として健康で、ひとりわが国だけその健康を失ったのである。
日本人は日本人の不利なことを勇んで言う。これを良心的という。良心的というものほどうろんなものはない。けれども日本人はこれが大好きである。
清国うつべし、露国うつべしといった時代には、我々はいわゆる良心的ではなかった。うたなければうたれるから、うったのである。それをいずれも侵略戦争だったと、うたれた国が言うのではない。日本人が言って、教科書の中に書いて、子供に教えて、それをとがめられると、今度はとがめたものを裁判に訴えて、その訴えたほうを、新聞雑誌は支持する始末である。
自分と他人との間には区別があって、両者は互に理は常に自分にあると言う。自分に損になることなら、本当でもうそだと言う。それが健康だとは何回も言った。
自分と他人、自国と他国の区別を失ったこと、これが戦後失った微妙なものの随一ではないかと思われる。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
「戦後失われたものは何々かと問われて、家だろう、露地だろう、祭だろう、結局は言葉だろうと言って、いずれも一度はほかの雑誌に書いたことだと気がついて、窮して微妙なものだろうと、答えた。」
「関東の大地震のとき、日本人は朝鮮人を殺したと、今ごろあばくものがある。何人殺したか分らないのに、なるべく人数を多く言いたがる。南京の虐殺の例は以前書いた。南京では十二万人を殺したという。この十二万人という数字は東京裁判できめられた数字で、東京裁判は勝者の裁判だから、数字は当然誇張されたものである。それを二十万人、三十万人も殺したと中国人が言うならまだしも、ほかでもない日本人が言う。
昔の日本人なら、自分から言いださない。言いだすものがあっても、信じない。一々反証をあげて論破する。日本人なら論破したほうを信じる。むろん中国人はそれを信じない。
どこの国の国民も、自分の国の『非』はみとめない。かくそうとする。自分の国の非は、みとめないのが健康なのである。健康というものは、厚顔で鉄面皮なものなのである。そして世界中の国は依然として健康で、ひとりわが国だけその健康を失ったのである。
日本人は日本人の不利なことを勇んで言う。これを良心的という。良心的というものほどうろんなものはない。けれども日本人はこれが大好きである。
清国うつべし、露国うつべしといった時代には、我々はいわゆる良心的ではなかった。うたなければうたれるから、うったのである。それをいずれも侵略戦争だったと、うたれた国が言うのではない。日本人が言って、教科書の中に書いて、子供に教えて、それをとがめられると、今度はとがめたものを裁判に訴えて、その訴えたほうを、新聞雑誌は支持する始末である。
自分と他人との間には区別があって、両者は互に理は常に自分にあると言う。自分に損になることなら、本当でもうそだと言う。それが健康だとは何回も言った。
自分と他人、自国と他国の区別を失ったこと、これが戦後失った微妙なものの随一ではないかと思われる。」
(山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
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