夢!進行形。港が見える丘ガーデン

ミントさんの庭に憧れて、少しでもブルーガーデンに近づけるように日々奮闘する田舎のおばちゃんの日記です。

33番札所

2017年09月16日 19時56分43秒 | 四国霊場33番札所

 

今日は、小雨の中

父の三回忌法要を、菩提寺の

四国33番札所の高福山 雪蹊寺で

行いました。

雪蹊寺 の 御詠歌

「旅の道うえしも 今は高福寺

のちのたのしみ 有明の月」

 

雪蹊寺の名前の遍歴

高福寺 → 慶運寺 → 雪蹊寺

弘法大師が開創した当時は高福寺であったが、

鎌倉時代にこの寺を訪れた、運慶と長男が

薬師如来像と日光・月光菩薩像などを制作

したことから、慶運寺となったが

その後

長宗我部家の菩提寺として

長宗我部元親の法号から、寺名を

雪蹊寺とあらためました。

運慶の作品は、国の重要文化財となっています。

 

 

また

江戸時代初期

「南学発祥の道場」として、優れた儒学者を

生み出しています。

 

四国を17回遍路した

山本玄峰師は

失明に近い眼病ながら、裸足で7回目の遍路を

している時に、

明治以降に雪蹊寺を再興した、

太玄和尚に出会い、

「心眼を開け」

の一言で出家をし

静岡県三島市の

龍沢寺で

最後の、「行雲流水」の禅僧と呼ばれました。

 

※ 行雲流水・・・空を行く雲と、流れる水、すなわち

一点の執着なく、物に応じ、事に従って行動すること

当時

山本玄峰師の、導きを受けに

政財界の大物たちが、馳せ参じています。

太平洋戦争の終結に当たっての

内閣総理大臣鈴木貫太郎に

『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・・・』と

提言したことは

あまりにも有名です。

 

戦後は

吉田茂、池田勇人両内閣総理大臣なども

老師の助言を求めています。

わあ~情けなや~

わが菩提寺でありながら

こんな事、少しも知らなかった。

今日は、こんなに

勉強させてくれた、父に感謝しつつ

この後、

高知市内の「城西館」で

お食事をしました。

中庭の の牡丹の紫が

綺麗でした。

そして

お食事は・・・

 

これに

撮り忘れましたが、

煮物が何品か、とお吸い物とご飯と

梨のデザートでした。

 

 

 

と言うわけで

今日は、

朝のウオーキングもなし

畑仕事もなし

ガーデニングもなし

台風に備えて

家の周りに、出しっ放しに

していた道具類や、鉢植えなどを

屋内にしまいました。

 

だから体重測定もなし

ご飯類は口にしなかったけれど

ビールを4杯位飲んだかな~

これって

ご飯を4杯食べたと同じ?

ショック!!!

 

 

今日も来てくださって、ありがとうございます。