国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

新しい明日のために

2011年03月31日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
今年も早いもので3ヶ月が過ぎてしまった。
3月には東北関東大震災と未曾有の天災が起こり、
それ以降生活スタイルが一変してしまったところがある。
やがてそれは歴史に記されるような大災害なのだが、
残念なことにそれは少しずつ人々の記憶の中からも消えていってしまう。
紙に記された数字や出来事はアンリアルである。
多くの犠牲者が一瞬にして数字に変わってしまったという不条理な災害を
本当の意味で忘れるわけにはいかないだろう。

一方で人というのはまた忘れてしまうことも自然の理となる。
忘れることで古い傷を封印し、新たな道を歩かなければ人は生きていくことができない。
そうやって毎日が少しずつ流れていくのだ。

もし、ジャズにそんな毎日を語らせるのならば、
ジョン・コルトレーンの『至上の愛』だろう。
前にも書いたことがあるが、タイトルとは裏腹にかなりカッコイイ。
が、逆にその格好良さが「パート4賛美」で昇華されていく。

「「神様」がもしいるのならば」という仮定の話ではない。
人一人ひとりの中に宿る核が神聖なエネルギーを放っているのだ。
普段は何気ない忙しさにそんなことを忘れているのだろう。
だが、このアルバムを聴くと、そうした「何か」が静かにしみ出してくるのだ。

別に「神様」を賛美したいわけではない。
ただ、僕たちに与えられた日々というものの中に
もっと気づかなくてはならない大切なものがあることをコルトレーンは伝えている。

コルトレーンのサックスの音は張りがあり、太く力強い。
それでいながら時代が経つごとに透明感が生まれてくる。
音に透明感というのはおかしなことかもしれないが、
コルトレーンの音には透き通るほどの瑞々しさがあるのだ。

忘れてはいけないこと、忘れいかなくてはならないこと
人はこの狭間を行ったり来たりする。
コルトレーンはそんな移ろいやすい人の心の内にある善意にうったえる。
時が過ぎれば、日が昇れば、新しい命の鼓動が始まる。
それはコルトレーンの情熱に満ちたサックスの音と同じなのかもしれない。

3月28日(月)のつぶやき

2011年03月29日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
17:03 from Twitter for Android
マイルスの『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』のオリジナル盤を発見!
17:18 from Twitter for Android
アンパンマンがポップコーンの作り方を説明してる。
17:23 from Twitter for Android
ラジオを聞いていたら、「ホウレン草への放射性物質の影響は、毎日食べても大丈夫なくらいです。」と言っていた。本当に不謹慎ながらポパイのことを考えてしまった。
20:49 from Twitter for Android (Re: @gana2026
@gana2026 SACの「rise 」だね。音楽はそれだけで存在をするのが普通だけど、映像とマッチするのが鳥肌ものだ! 即サントラ買いだよ♪
23:27 from goo
やっぱりこっちの方がよく聴かれてる? #goo_toyokoba1030 http://blog.goo.ne.jp/toyokoba1030/e/3d19f805693e6f810f990db2800fff8d
by Cobaaco on Twitter

「寄付金」にまつわる話 (後)

2011年03月28日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
1964年2月12日、マイルスにとってこの日はチャリティーだった。
「帝王」は気まぐれのようにそんなことをする。
しかし根本にあるのは同じ黒人に自分の音楽を聴いてほしいという
至極当然の思いがあったのだ。

一方で他のメンバーにとってチャリティーよりもとりあえず生活の保障が必要だ。
ジャズ・ミュージシャンで食べられるのは本当に一部の人で、
それこそ安いギャラでステージに立って演奏をしている。
それが後年に残ろうが、芸術として評価されようが、
とにかく当面の生活費の方が大事なのだ。

ジャズ界で一番の売れっ子のマイルスの下で働くというのは
安定した生活を得ることができ、そこから音楽的発展が目指せる。
それを実践していったのが、
トニー・ウィリアムスであり、ハービー・ハンコックであろう。

この日のもう1枚のアルバム『フォア&モア』には、
そのトニーの凄みが惜しみなく発揮されている。
『マイ・ファニー・バレンタイン』では
ハービーの耽美でありながらも骨太の演奏が注目されているが、
『フォア&モア』ではとにかく耳に入ってくるのはトニーのドラミングだ。

1曲目「ソー・ホワット」では、
『カインド・オブ・ブルー』の時の演奏とは全く異なる。
ロン・カーターのゴリゴリッとしたベースと
ハービーのピアノが出だしを緩やかにスタートさせる。
そこに「チチチチッ」と細やかなスティックさばきで、全体のスピードをアップさせ、
マイルスと同時に高速スタートを切る。
追い立てるようにトニーは全体を仕切っていく。

当時のマイルスバンドにおいてトニー・ウィリアムスは大きかった。
マイルスに練習しないことを責めたり、ジョージ・コールマンと仲違いをしたりと
とにかく音楽的発展を貪欲に求めている。

後にウエイン・ショーターが加わり、いよいよ黄金のクインテットとなるのだが、
『フォア&モア』とこの後の『ライブ・イン・ベルリン』は
マイルスにとって最高の「ジャズ」ライブアルバムであるだろう。

『マイ・ファニー・バレンタイン』には曲調が暗めのものが集まっているが、
『フォア&モア』に明るく、パワフルな演奏を集めたのは
やっぱりテオ・マセロの作戦と言えるだろう。
もし当日演奏された曲順に聴いても、ここまで感じるものがあったかどうか分からない。

さて、問題のチャリティーなのだが、
会場の雰囲気からかなり人がいるように聞こえるのだが、
この日は少々空席があったようだ。
歴史は人が聴いていないところで生まれるのだ。

「寄付金」にまつわる話 (中)

2011年03月27日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
僕はあまりこのアルバムを聴かない。
『マイ・ファニー・バレンタイン』は、
リンカーン・センターの片割れアルバムであるが、
全体として静か系な曲でまとめられている。
それは冒頭のタイトル曲の始まりを聴けば分かるだろう。
ハービー・ハンコックがピアノを静かに鳴らし、待っていたかのようにマイルスが入る。
静けさからコンサートホールでの緊張感が伝わってくるかのようである。

アルバム全体としての構成としては
そんなわけでジャズらしいと言えばジャズらしいのかもしれない。
実際に2月12日とバレンタインデーに近いこともあり、
『マイ・ファニー・バレンタイン』と名付けられたのだという
ジャズ伝説がでっち上げられているほどこのアルバムの名前は知られている。
(スタンダード曲のためバレンタインデーは全く関係ないし、
 そもそもチャリティー・コンサートであったことを忘れてはいけない)

黄金のクインテットに進む前の段階で
テナーにジョージ・コールマンが入っているからとかいうわけではないが、
(むしろこの時の演奏でジョージ・コールマンはかなり快調だ)
どうしてこのアルバムに僕は面白さを感じることができない。

全体として長いという時間尺的な理由が一つに挙げられる。
そもそも静かな曲というのは続けざまに聴くと飽きがくる。
ジャズのアルバムは最初に勢いを付け、2曲目でその勢いを落とし、
3曲目でまた盛り上げるという形式で作られることが多かった。

確かにハービー・ハンコックが神がかったように素晴らしいソロを取っている。
思わず観客席から称賛の声と拍手が飛ぶほどだ。

全員の演奏が悪いというわけではないのだ。
だが、同じ曲調を聴いていて気持ちがフィットすれば問題はないのだが、
常にそう静かなジャズが聴きたいわけではない。

静かな曲用にまとめられてしまったことが逆に耳を遠ざけてしまったのだろう。
このアルバムにしてみるとプロデューサーのテオ・マセロの
作戦が僕にとっては立ちすぎたのだろう。
ところが対のアルバムはまた違うのだ…

「寄付金」にまつわる話 (前)

2011年03月25日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
東北関東大震災の後、人々はかなりストイックな生活を心がけるようになっている。
「計画停電」しかり、「贅沢な買い物をひかえる」しかり…
半ば強制的な部分もあるのだが、人々は全員で困難に立ち向かおうという
ある種「日本人」特有の強さが出ているのではないだろうか。
(一部には行き過ぎという言葉もあるのだが…)

その中でも義援金や寄付金は誰にでもできる、
しかも今CMで流れている目に見える「思いやり」になる。
多くの人が被災地の復興に向けて、必要となるお金を送っている。
それが人の心として自然の理になるのだろう。

この2枚が作られた背景にもそんなチャリティーが関わっていた。
マイルス・デイヴィスの『マイ・ファニー・バレンタイン』
そして『フォア&モア』

1964年2月12日のNYリンカーン・センターで
チャリティーイヴェントが行われた。
まだアメリカで黒人への人種差別が残っていた時期である。
この年に「人種差別撤廃法案」が議会を通過したことで、
一気に市民運動や政治活動がヒートアップしていくことになる。
2月12日はリンカーンの誕生日である。
その日にミシシッピー州とルイジアナ州の市民権登録のために
また、その他の政治や市民グループも合同して
リンカーン・センターで募金イヴェントが実施されたのだ。

リーダーのマイルスは人種差別に対してはかなり根を持っている。
白人の警察官に意味もなく殴られたことがあるからだ。
チャリティーイヴェントにも意欲的に参加をしようとしていたようだ。
一方のグループ側でも代表的なジャズミュージシャンであるマイルスは
目玉の一人だったのだろう。
招待状に事前に名前が載るほどであり、電話でも献金者に参加をうながしていたようだ。

ところが問題が持ち上がる。
チャリティーということで当然ながら無償での演奏となる。
マイルスはコロンビアとの契約があったので
ある程度のギャランティーは確保されている。
だがメンバーたちはそうはいかない。
リーダーであるマイルスからギャラが支払われるからである。
場末で働くジャズミュージシャンにとって日々の貧しさと戦う生活なのである。
それなのに無償で何かをするというのは割に合わないわけだ。

結局マイルスのポケットマネーからギャラは支払われることになったわけだが、
コンサートの前からマイルスとメンバーの間には微妙な空気が作られてしまったのだ。
しかし、それが逆に一世一代のライブ盤を作ってしまったのだから
何が起こるか分からない。